8話 誘惑
窓の外は夜の闇が訪れていた。星の光を掻き消すほど、会場はシャンデリアの明かりで輝いている。
「ヴィオラ、戻ってきちゃったの? あのままお楽しみになってもよかったのに。それにドレスも汚れちゃってるし」
ソフィアは少し拗ねたような表情でヴァイオレットに近づいてきた。ソフィアからすると、ヴァイオレットの恋を応援したような感覚なのかもしれない。彼女との感覚のずれがささくれのように感じられた。
「任務を放棄することは容認されていません。ドレスについては弁償いたします」
ヴァイオレットは頭を下げる。
「機械みたいに返答しなくていいのよ。それにドレスだってあなたにあげるわ」
高価なものを簡単に与えられる価値観の違いにヴァイオレットは驚いた。しかし、可愛らしいドレスをもらっても素直に喜ぶことはできなかった。
同じアルビノなのにヴァイオレットとソフィアの立場の違いを嫌でも思い知らされるから。
そのとき、硝子の割れる音が響いた。その直後、シャンデリアの灯りが消えて辺りは暗闇に包まれる。「何事だ!?」という動揺の声や、女性客の悲鳴が上がる。
ヴァイオレットは瞬時に体の産毛が逆立って警戒の状態に入った。暗闇の混乱に紛れて犯人はソフィアを誘拐する気だ。ヴァイオレットはすぐにリボルバーを取り出した。
暗闇はヴァイオレットの目を覆うことはできない。目を瞑っていても音の反響で位置を特定する訓練を受けていたし、何よりアルビノであるヴァイオレットには日光やシャンデリアの光は眩し過ぎる。暗闇の方がかえって見やすかった。
「全員伏せろ!」
ヴァイオレットは叫んだ。近くにいたソフィアが指示に従って床に伏せたのを確認する。ソフィアに近づく影に向かってヴァイオレットは発砲した。それと同時に向こうも発砲する。
目を凝らせば、銃を構えているのは楽器の演奏者だ。なぜ、会場に武器を持って忍び込めたのかがわかった。普段、ヴァイオレットがヴァイオリンケースに擬装して銃を持ち歩いているように、犯人も楽器ケースに武器を隠したのだ。
「お前ら、全員見えてるぞ」
ランドルフも躊躇いなく、発砲していた。眼帯は外されている。彼の片目には傷がありそのせいで視力は下がっているだろうが、眼帯で暗闇に慣れた瞳はこの場で一番、状況を把握しているだろう。
ヴァイオレットは伏せている人間は客であり、暗闇に乗じて動いているのは敵と判断し、靴音で位置を把握し、飛び蹴りを喰らわせた。手に握られていた銃を蹴り落とし、犯人を床に叩きつけて気絶させる。
離れていてもランドルフと背中合わせのような感覚があった。銃の扱い方も足の運び方も、全てランドルフから教えられたのでヴァイオレットの動きはランドルフの手癖が入っている。
ヴァイオレットは女王陛下の狂犬と言われたランドルフの犬をやっている。自分の中にランドルフの面影を感じるたびに、ヴァイオレットは首輪を締め直されているような心地がする。真綿のように優しく窒息していくような。
照明が復旧した時には会場は血の海だった。灯りが戻って惨状を目にした招待客たちはパニックに陥った。やけに厳重だった警備の軍人たちが、淡々と死体を処理していく様を信じられない様子で見つめていた。
気の弱い婦人などは血を見ただけで気絶していた。血の海の中でヴァイオレットは返り血まみれのドレスを見て、これはもう弁償できないから、ソフィアがドレスをあげると言ってくれていてよかったと安堵していた。
「ヴァイオレット。お前は後処理に加わらなくていいから、血を落として来い」
硝煙の匂いを漂わせたランドルフがヴァイオレットをちらりと見て犬を追い払うように手を振った。ヴァイオレットは以前、ランドルフに白いから血の赤が目立つと言われたことを思い出した。
今日はファンデーションを暗めにしているし、目立つ白い髪もかつらで覆ってしまっているのに。それでも気遣われたような気がしてヴァイオレットは口角が上がるのを抑えられなかった。
***
ソフィアの誘拐は失敗に終わり、犯人たちの中の生き残りは連行され尋問を受けることになった。誘拐が失敗したという印象が強くなるのでソフィアが狙われる確率も下がるだろう。
内閣府から護衛が派遣され、管轄が移るのでヴァイオレットら情報部はソフィア護衛の任務から外れることになった。
その日、ヴァイオレットはアンジェリカから借りた化粧品を「太陽の娘」まで返しに来た。
「ヴァイオレット〜、今日はランドルフ来てないわよ?」
アンジェリカは今日もムスクの匂いを漂わせソファにゆったりと身を沈めた。
「今日は借りた化粧品を返しに来ただけ」
ヴァイオレットは化粧品箱をアンジェリカの前に置く。アンジェリカは微笑みながら化粧品箱を開けて、中身を確認する。そして、一つの口紅で手を止めた。それはヴァイオレットが選んでつけたが、ランドルフに落とされてしまった真っ赤なルージュだった。
「ヴァイオレット、これ使ってみた?」
アンジェリカは揶揄うように蠱惑的な笑みを浮かべる。
「使ってみたけど…。ランドルフ様には使うなって言われた。たぶん、似合わなかったんだと思う」
ヴァイオレットは自然と手を握りしめていた。膝に置いた手がわずかに震える。
「そんなことないと思うけどなぁ〜。ヴァイオレット、ちょっと顔、貸しなさい」
アンジェリカはそっとヴァイオレットの顎を持ち上げると、唇に真っ赤なルージュを引いた。そして真っ赤な唇になったヴァイオレットを見て、アンジェリカは「やっぱり似合うじゃない」と満足げにつぶやいた。
「ランドルフはあなたが急に大人っぽくなったからびっくりしちゃっただけじゃないかしら」
アンジェリカはそう言うがヴァイオレットは信じられなかった。あれはあからさまな拒絶だった。アルビノの女が嫌いというように、ヴァイオレットが大人になることを拒絶したのだ。
ランドルフはいつも傍観者に徹する。自分のテリトリーに誰も踏み込ませない。それが、アルビノの女が嫌いでありヴァイオレットに触れないことを徹底していた。ヴァイオレットに線を引いて接している。
ヴァイオレットはランドルフの安全圏であり、使える道具であり、無害な少女でいなくてはならない。でもずっとそうしていたら、アンジェリカのようにランドルフの隣には立てない。
ランドルフに相応しくなりたいなら、彼から捨てられる危険を侵さねばならない。飼い犬に噛まれたら、ランドルフはどう思うだろうか。
「アンジェリカ。私に男の誘惑の仕方と、あしらい方を教えて」
いつもアンジェリカに感じている感情には蓋をした。アンジェリカはよくヴァイオレットを揶揄ってはくるが意地悪をしたいわけではないのは伝わってくる。それに、アンジェリカから学べば、部屋に連れ込まれそうになる前に対処できるようになるかもしれない。
「いいわよ。まずはヴァイオレット、あなたの武器を確認することだわ」
「いつも整備しているから、いつでも使える」
ヴァイオレットはそう言って素早くリボルバーをハンドバッグから取り出した。
「そっちの武器じゃないわよ。自分の顔や身体が男からどう見えているのか、自覚するの」
アンジェリカがお腹を押さえながら笑うので、ヴァイオレットはリボルバーをハンドバッグにそっとしまい込んだ。
「ヴァイオレット、あなたは高貴な見た目だから控えめで楚々としていたら男はみんな頭を垂れるわ。例えば、何か聞かれたとしても、すぐには答えないの。相手の目をじっと見て、ふわりと微笑む。そして返事をするの」
アンジェリカの助言に耳を傾けて、ヴァイオレットは手帳を取り出して書き込んでいく。
「それで男を誘惑できるの?」
ランドルフはそんなことで動揺などしない気がした。むしろ、「イエス、サー」と早く返事をしろと怒られそうな気がする。
「ヴァイオレット、手を出して」
ヴァイオレットは言われた通りに手を出すと、アンジェリカはヴァイオレットの手を外し、指を絡めるようにして握ってきた。そして指の間をねっとりと愛撫してくる。
「指の腹で優しく撫でるの。ここは好きな人から撫でられるとくすぐったいらしいわ」
手の感触を確かめるように、アンジェリカは握ってくるとそっとヴァイオレットに顔を近づけた。そして唇に当たるぎりぎりで止まる。
「これでキスに持ち込むわ。あなたは、初心に触れるだけのキスの方がいじらしくて男受けするでしょうね。まずはそこから始めなさい」
アンジェリカは適当に練習を重ねろと言った。ヴァイオレットの頭の中にはランドルフに触れたいで占められていた。しかし彼は手袋を外してはくれないような気がした。




