10話 冷えた瞳
セシル侯爵家のタウンハウスにヴァイオレットは住まわせてもらっている。ランドルフに拾われてから、連れ帰って貰ったとき、ヴァイオレットはランドルフの命令でメイドに風呂に入れさせられた。
その時、ヴァイオレットは今まで風呂に入ったことがなかったので固形石鹸を見たのは初めてだった。食べ物だと勘違いしたヴァイオレットは、石鹸に歯を立てた。
いまだに屋敷に帰ると、その時の恥ずかしい思い出が蘇ってしまう。
「ただいま帰りました」
エントランスでそう告げると、執事やメイドたちが「おかえりなさい」と迎えてくれる。彼らはなぜかヴァイオレットをお嬢様と呼びたがるが、ヴァイオレットはランドルフの部下で食客状態なので、そう呼ばれることは遠慮している。
「ランドルフ様は今、どちらにいらっしゃいますか」
執事に尋ねると部屋にいると返ってきた。ヴァイオレットは帰ってきた足でそのままランドルフの部屋に向かった。ノックをしたが返事がないので音を立てないように静かにドアを開ける。
部屋の中は本棚がびっしり埋まっていて、床には乱雑に物が置かれていた。脱ぎ捨てられた服や、書類の山を踏まないようにヴァイオレットは気をつけながら中へ進んだ。まるで背の高い草をかき分けながらジャングルの中を進んでいるような心地だった。
ソファの上にランドルフはボタンを外したラフなシャツ姿で寝ていた。ジャケットは床に放り出されていて、顔の上に軍帽が被さっていて、わずかに寝息が聞こえる。
はだけたシャツの下には銃創などの傷跡が見え隠れしていた。ヴァイオレットはごくりと唾を飲み込む。なぜか見てはいけないものをみてしまったかのような、いたたまれない気持ちになる。
指が震えて、ぞくぞくと身体中を甘い痺れが襲う。しかし、ランドルフに見惚れていたのも束の間だった。ローテーブルの上には飲みかけの酒と撃鉄の上がったピストル、そして戦闘ストレス障害やその他、向精神薬が散らばっていた。
それを見た瞬間、ヴァイオレットはうまく息ができなかった。呼吸の仕方を忘れてしまって、上手く息が吸えずひゅっという喘息のような音が喉から聞こえた。
ランドルフは死のうとしていたのだ。ヴァイオレットを置いて。そんなことは許されない。身体が冷えていくのを感じていた。
ヴァイオレットは発砲しないように気をつけながら撃鉄を下ろすと、ランドルフの手の届かない場所に隠した。そして散らばった錠剤を掃くようにして集めると、袋に一回分の量ずつ小分けにし、飲みかけの酒は捨てた。
本当は酒を飲み込もうとしたが、舌に絡む苦いような甘いような液体がまるで感電して痺れるかのような錯覚を起こした。まだあなたは子供なのよ、とアンジェリカに揶揄われているような気がした。
足音を立てないようにランドルフに近づく。上下する胸板の厚さや、男性らしい喉仏が目につく。ヴァイオレットはそっと首に手を近づけた。自分の小さい手じゃ、この男の太い首は絞められない。
「私がいるのに…」
小さな声で呟いた。ランドルフが死ぬ時に頼るのがヴァイオレットではなく、無機質な鉄の塊であることが胸をじくじくと傷ませる。掻きむしった心は膿ができているかのようだった。
そっと顔を覆っている軍帽を外す。ランドルフの上に屈み込んで、キスをしようとした。しかし、唇に触れたのは肌ではなく布の感触だった。
「何をしている」
ランドルフが薄く目を開けてこちらを見ていた。寝起きだからか、声は少し掠れている。ヴァイオレットはランドルフの大きな手で口を塞がれていた。
ヴァイオレットがもごもごとこもった声で抗議して、ようやくランドルフは自分がヴァイオレットの口を塞いでいることに気づいたのか手を離した。
「…起こそうとしました」
ヴァイオレットは何となく視線を逸らした。寝込みを襲うようにキスをすることがいけないことだとわかっていたから。
「普通に起こせ」
ランドルフは呆れたようにため息混じりに声を吐き出した。
「アンジェリカたちが、男の人を起こすにはこうするって話しているのを聞いたことがあります」
「その話は忘れろ」
ヴァイオレットを退けるとランドルフは身体を起こした。辺りを見渡して、散乱した薬や飲みかけの酒をヴァイオレットが片付けたことに気づいただろうが、何も言わなかった。
「夕飯は外で食べるか」
もうランドルフははだけていたシャツのボタンを留め直していた。もう素肌を見ることはできない。いつも通りの見慣れたランドルフの姿に安心するのと同時に先程までの艶めかしいランドルフの姿が頭から離れなかった。
こういう時、ヴァイオレットは自分の瞬間記憶を嬉しく思う。目を閉じるだけで、ヴァイオレットは先程のランドルフの姿をありありと思い出すことができるから。
「ヴァイオレット」
廊下に出たランドルフに呼ばれる。ヴァイオレットはすぐについて行こうとしたが、チェストの上に伏せられた写真立てが目に入った。
「旦那様、お出かけでございますか」
「ああ。夕飯は外で食べてくる」
廊下ではランドルフが執事と話している声が聞こえる。ヴァイオレットは少し酔っている衝動に身を任せて、伏せられた写真立てを手に取った。写真を見た瞬間、言葉を失った。
「アルビノの…女…」
無意識に自分の口から出た言葉は知らない人のような響きがあった。写真の中には真っ白な髪の女が屋敷の薔薇を背景に写っている。
可愛らしいフリルとレース、リボンで彩られたドレスを着ている。髪は大きなリボンでおさげに結われていた。その隣には今より若い、まだ少年のような面影を残したランドルフが立っている。
その後の食事は味がしなかった。ランドルフとのデートだと浮かれることもできなかった。ランドルフはヴァイオレットに「もっと肉をつけろ」とローストビーフを皿に盛ってくれたが、ヴァイオレットは味を楽しむ余裕もなく咀嚼して飲み込むのが精一杯だった。
アイスクリームの自由の味を忘れて、ヴァイオレットはいつも満たされない渇きに襲われている。隣を歩いているランドルフの手袋に隠された指の温度を想像していた。
私はあなたの仮面の奥に隠された素肌を知りたいだけなのです。
部屋に連れ込もうとした男の言葉が蘇った。あの男の声を思い出すだけで、ざらついた舌で舐られているかのような湿度と嫌悪感を感じる。だが、あの男も今ヴァイオレットがランドルフに感じている気持ちと同じだったのだと思えば、責められない気がした。
「デザートを食べなくてよかったのか」
ランドルフが珍しいものを見たというように尋ねてくる。レストランで食事した後、ヴァイオレットはなんとかメインの料理は胃に入れたがいつも楽しみにしているはずのデザートは遠慮した。
「昼間にアイスクリームを食べたので、お腹いっぱいだったんです」
買い食いははしたない、貴族令嬢にあるまじき行いだと怒られるかと思ったが、ランドルフは「そうか」と短い返事をしただけだった。
ヴァイオレットは自分が期待されていないのではないか、ランドルフの目には失望が映っているのではないかと思い顔を見れなかった。
よくやったと褒められて頭を撫でて欲しい。不器用に髪をぐちゃぐちゃにして欲しいと願うのと同時に、それが叶わないのなら、困らせて怒って欲しいと思う。怒られている間、ランドルフはヴァイオレットのことを考え、ヴァイオレットしか見れない。
そのエメラルドの瞳にヴァイオレットしか映らないようにしたかった。
写真に写っていたアルビノの女は誰なんですか? あの人が嫌いなアルビノの女なんですか?
問い詰めたい気持ちに駆られた。わざわざ嫌いな女の写真を残しておくだろうか。嫌いという感情が一番深く、癒着した火傷のように痛みを発するから、捨てられなくなったのだろうか。
「ランドルフ様、ファーストキスは甘酸っぱい味と小説に書いてあったのですが、現実は思ったより水っぽい薄い味でした」
ヴァイオレットは困らせたい、振り向かせたい一心でそう口から出ていた。
「適当な人間で練習を済ませてきました。これからはもっとお役に立てます。接待? の要員として私が使えますよ」
ランドルフの口から「ヴァイオレット、よくやった」と狙撃がうまくいった時みたいに褒めてもらえるかと思った。
「は?」
だが、ランドルフから漏れたのは低い唸りのような声だった。血に飢えた獣のような、殺気を感じた。いつも殺気には鋭敏であれと訓練されてきたヴァイオレットにはランドルフの期待から外れてしまったのだとわかった。
彼の隣に並び立つには、彼から捨てられる危険を侵さねばならないと頭ではわかっているが、それでも怖かった。恐怖を感じると同時に、それと同じくらい怒ってもらえれば私を見てくれるという喜びと期待が胸に満ちていた。




