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11話 偽善

 「そんなに接待に使って欲しいのか」


 ランドルフはヴァイオレットを路地に引っ張り込んだ。煉瓦の壁に叩きつけられる。胸ぐらを掴まれていたが、ヴァイオレットはランドルフに触れられていることに鼓動が鳴っていた。


 「なら今ここで誘惑してみろ。役は俺が『男』でお前は『女』だ」


 ランドルフの手が離れていく。息がしやすくなったが、まるで置いて行かれた迷子のような心地になった。


 「どうした、できないのか」


 ランドルフの瞳は底知れぬ闇だけがあった。ヴァイオレットはその瞳に吸い込まれそうになる。底なしの穴があるなら落ちていきたかった。先程掴まれていた感触が強く、ヴァイオレットはいっそのこと苦しいくらい首を絞めてくれたらいいのにと思ってしまった。


 「や…やります」


 ヴァイオレットは震える声で答えた。ランドルフが急に知らない大人の男に見えて怖くなったわけじゃない。誘惑の練習と称してランドルフに触れることが許されたのが嬉しかったのだ。


 「ランドルフ様、手袋を外してください」


 ヴァイオレットは上目遣いで尋ねた。アンジェリカがヴァイオレットの目は高級な猫みたいだと言ったことがあるから。


 ランドルフは口で手袋を外した。片手はヴァイオレットが通りから見えないように、そして逃げないように壁に押し当てている。


 ヴァイオレットも手袋を外して、ランドルフの手に絡ませた。ヴァイオレットより一回りも大きな手は指を絡めるにはぎちぎちと音が出そうなくらい指を開かねばならなかった。


 触れた肌の温もりを感じながら、ヴァイオレットはランドルフが素直に手袋を外してくれたことに驚きを感じていた。アンジェリカから手を絡ませる仕草を習った時、ランドルフは手袋を外してくれないと予想したが、どうやら外れたようだ。嬉しい誤算だった。


 この人にも血が流れているのが不思議だった。きっとランドルフの血は赤いだろうけど、ヴァイオレットの血は肌から透けたままの青色な気がした。いや、青色の工業用潤滑油かも知れない。ヴァイオレットの中身はまるで機械みたいだと言われることがあるから。


 アンジェリカがしたように、ヴァイオレットもゆっくり焦らすようにランドルフの手を愛撫する。そして次はキスだ。練習してきたというのに、ランドルフを目の前にすると緊張で震えた。


 頬を包み込むようにして、ランドルフの眼帯を撫でる。その奥に残された古傷が痛むように、ヴァイオレットの痛みを未来永劫、覚えていて欲しいと願った。


 「ランドルフ」


 初めて彼を呼び捨てにした。恋人みたいな甘い響きが出せれば良いと思った。背伸びして、唇を近づける。ランドルフに触れるか触れないかまで近づいた時、ランドルフの瞳が揺れた。


 「駄目だな」


 ランドルフは冷たく言い放ち、ヴァイオレットが絡めた指を解いてしまう。


 「そんな児戯で、誘惑したつもりか」


 近づいたランドルフの顔が離れていく。手はもう手袋で覆われてしまった。


 「お前は今まで通り仕事しろ」


 その言葉はヴァイオレットの役に立ちたいという努力は実らなかったことを意味していた。ランドルフはコツコツと靴音を鳴らしながら大通りに戻っていく。


 ヴァイオレットは精一杯の誘惑がランドルフには届かなかったことに体が固まってすぐに動けなかった。振り解かれた手が行き場をなくして不自然に宙に浮いている。


 いつもなら、すぐにランドルフを追いかけるのに、ずっとその場に立ち尽くしていた。ランドルフも迎えに来てくれるわけでも、一緒に帰ってくれるわけでもないようで背中はもう見えず足音も小さくなっていく。


 頭上から一滴、水が垂れてきた。次第に雨は強くなり、ヴァイオレットを濡らしていく。涙と雨が混ざって泣いていることに気づかれないようになって欲しかった。


 「ランドルフ様」


 ヴァイオレットの声は虚空に消えた。


 「あの写真の女は誰ですか」


 ランドルフはもう立ち去った後だから、彼からの答えはない。それでも虚空に向かって溜め込んでいた言葉を吐き出さずにはいられなかった。


 「あれが、嫌いなアルビノの女ですか」


 雨の音がざーざーと嗚咽をかき消した。




***




 カーテンが揺れている。雨上がりの夜空には薄い雲を透かして月の光が差し込んでいた。開いた窓からは湿った夜風が入り込んでくる。


 ランドルフはソファに横になっていた。ピストルはどこかに隠されてしまったし、酒は捨てられてしまった。薬は丁寧に小分けにされている。


 ランドルフの顔を覗き込んでくる影が落ちた。白い髪は月光に照らされて神秘的に輝いている。


 「お酒とお薬の併用は危険ですわよ」


 ランドルフを見下ろす少女は悪戯っぽく微笑んでいる。血管が透けて見える赤紫の瞳は彼女の視界はほとんどランドルフの像を結ぶことができないことを示していた。


 「エリザベス…いや、幻覚か」


 ランドルフは呟いた。酒と薬を併用したから、薬の効能が正しく発揮されず幻覚を見ているのだろう。正しく服用すれば幻覚を抑える薬を処方されているが、ランドルフはこの少女の幻覚を見たいがために薬を無茶して飲んでいる。


 この少女、エリザベスを忘れないために。


 「死んで許されると思っているの?」


 落ちてくるエリザベスの髪がランドルフの鼻先に当たりそうで当たらなかった。幻覚だから質量や感触などないだろうが、それでも存在を感じたかった。


 エリザベスはちらりと、規定量の錠剤を見遣る。 


 「私は死んだ時、とっても痛かったわ。見たでしょう? 体がばらばらになっていた」


 爆発事故だった。名門貴族を狙った、政治的な主張を押し通すためのテロリストの報復。身体の原型は留めておらず、棺には現場から回収された肉片を納めた。


 「忘れられるわけないだろう」


 現場は血の臭いが充満していた。


 「俺のせいだ。俺が殺したようなものだ」


 属国独立派によるテロ。属国の地を踏み荒らして活躍した戦争英雄、ランドルフへの報復だった。戦時中は英雄として持ち上げられたのに、戦後は捕虜に対して「人道的な問題」があったとして軍の暗部に送られた。


 高潔に生きられればよかったが、現実はそうも行かなかった。騎士の家系だったが、実際の戦場での主流は銃であり白兵戦など一部の戦闘で銃剣が使われる程度だ。


 騎士として名誉と国家への忠誠のために戦ったのに、待っていたのは機関銃の騒音、残酷な毒ガス、戦車で轢き潰され、焼夷弾が降る。英雄の時代は終わった。騎士道最後の亡霊と揶揄されるようになった。


 「お兄様が活躍しなければ、私は殺されなかったかも知れないのにね」


 エリザベスはけらけらと軽く笑う。ランドルフは目を覆った。幻覚でも会いたいと願うのに、いざ幻覚として現れると目を背けたくなる。


 「私が死んで嬉しかった?」


 目を覆っているのに、エリザベスが口角を上げたことがわかる。


 「お兄様は私のこと嫌いだものね」


 セシル侯爵家は女王の遠縁に当たる。エリザベスはアルビノだった曽祖母から隔世遺伝した。傍系故に順位は低いが王位継承権を有していた。


 両親の関心を独り占めして溺愛されている妹を見るのは面白くなかった。ランドルフの内心を知らないで無邪気に慕ってくる妹を邪魔だと思ったこともある。


 妹から逃げるように全寮制の士官学校に入った。戦時中は家族にろくに手紙も書かずに各地を転戦した。家族はきっと新聞でしかランドルフの生存を知らなかっただろう。


 妹含め家族が自分が活躍したせいで、テロの標的にされてしまった。葬儀のとき、妹を邪魔に思っていたことを後悔した。自分はなんてことをしてしまったのだろう。もっと妹に構ってやればよかった。

 

 「私より、ヴァイオレットって子が大事?」


 エリザベスの目は少しヴァイオレットに似ている。ヴァイオレットを見るたびにランドルフは心が掻き乱される。ヴァイオレットと出会った時、思ってしまったのだ。この子を育てれば真っ当に生き直せるのではないかと。


 「大事だよ。ヴァイオレットには俺がいてやらないと駄目だから…」


 本当はすまないと許しを乞うて、お前が大事だと伝えなければいけなかったはずなのに。ランドルフは自分の口から出た言葉が信じられず、思わず口を押さえた。


 「お兄様だけ幸せになるなんて許されないわ」


 目を覆っているのにエリザベスは笑顔が抜け落ちた顔で言ったのがわかった。エリザベスは窓の開いたベランダの方へ歩いて行き、姿を消した。

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