6話 真紅
「中止にできませんか」
「ランドルフ様、そんなこと言われても…」
険しい顔のランドルフにソフィアは怯えながらも自分の意思を主張していた。ヴァイオレットはランドルフの背後に控えて無表情で話を聞いていた。
「今夜の仮面舞踏会は我が家主催ですし、私の誕生日パーティーも兼ねています。何ヶ月も前から決まっていたことですし、もう招待状も送ってしまいましたわ」
ソフィア・フィッツジェラルドの警護を始めてから、一週間が経とうとしていた。最初は誘拐の危険性から護衛を受け入れていたソフィアだったが、徐々に慣れて気が緩んできたのか、お手洗いにまでついてくるヴァイオレットを「まるで監視みたい」と鬱陶しく感じるようになったようだ。
そしてこの一週間、何もなかったがここにきて大きな問題にぶつかった。フィッツジェラルド家主催の夜会が開かれることになったのだ。今は社交界シーズン真っ只中である。
「ご自身の立場がお分かりですか。人の出入りが増えるとこちらでも対応しきれない事態が発生する可能性があります」
ランドルフは低い声で淡々と話す。余計な感情を入れないためかもしれないが、その話し方が余計にソフィアを追い詰めていくのが手に取るようにわかった。
「今夜は私の婚約者探しの重要な場なのです。ランドルフ様が私との縁談話を進めてくれるのなら、必要ないのですけど!」
ソフィアは皮肉げに返した。ヴァイオレットは無意識に手を握りしめてしまっていた。手袋越しの指の感触が痛いほど伝わる。
ランドルフに婚約の話が出ていることを知らなかった。それも相手はソフィアだなんて。もし、ランドルフがソフィアを選んだら──嫌いなアルビノと一緒になったら。ヴァイオレットはいつもの癖で銃を触っていた。重い感触、大丈夫、ちゃんと弾は込めてある。
もし、自分が狂おしいほど彼に執着していて、自分の想いが満たされないとわかってしまった。引き金は軽い。ランドルフが躊躇なく引き金を引けるようにヴァイオレットを教育した。一度引けば、彼はもう誰のものにもならない。そうしてしまうという予感があった。
ランドルフがヴァイオレットを拾ったのだから、拾った責任を取ってもらわねばならない。ヴァイオレットは捨てられるくらいなら、捨てられないようにしてやると決めていた。
これは愛なのだろうか。愛の輪郭ははっきりせず、遠くにある。デートというきらきらとした甘い匂いを思い出して、この思いはきっとそれより醜悪で腐臭を発している気がした。
「その話は今は関係ありません。あなたは自分が狙われているという自覚を持つべきだ」
ランドルフは手を組んで、少し前屈みになる。ローテーブルを挟んでいても、少し顔を近づける演出だ。ランドルフは自分の容姿に自覚的だから、ソフィアがランドルフに多少の好意があることを見抜いて利用する気だろう。
ヴァイオレットは利用されるだけでもいいから、自分にもあの優しさを見せてくれないかと願った。嘘でもいいから、ランドルフに心配されて優しくされたかった。
「招待するお客様もみなさん身元のしっかりした方ばかりですし、給仕の使用人たも全員が我が家に長年仕えてくれている者たちです」
ヴァイオレットは頭の中で書類の束が何枚も素早く捲られていく感覚になっていた。この任務に着く前にランドルフに命令されていたことだ。ソフィア・フィッツジェラルドの使用人や交友関係を全て頭に入れること。
使用人や交友関係の中に逮捕歴や活動歴があるものは特にいなかったはずだ。ランドルフが一瞬だけ、ヴァイオレットに視線を遣す。ヴァイオレットは自分の瞬間記憶の内容を思い返し、静かに首を振った。
「どうしても夜会に参加するなら、ヴァイオレットをそばに置いてください。今夜は仮面舞踏会でしたね。なら、身につける服や仮面を事前にこちらにも知らせてください」
「わかりましたわ。今夜の私の装いのテーマはね…!」
ソフィアはランドルフが渋々許可したのにその微妙な空気を読み取らず嬉々として今日の仮装のコンセプトを話し始めた。ソフィアは「魔女」をテーマに赤毛のかつらを被って烏の仮面をつけるらしい。
急遽、ヴァイオレットにも夜会服と仮面が用意された。客のふりをしてソフィア近くに控え、いざというときは身代わりになるためだ。一からオーダーメイドする余裕はなかったので、ソフィアの私物を仕立て屋に至急サイズを直させた。
客室を借りて、ヴァイオレットは準備を始める。背中側のボタンに四苦八苦しながらも、一人でドレスを着ることに成功した。
足を包むハイヒール。全力で走れるように訓練している。
巻きつけるように編み込んだ髪の中には暗器が仕込まれている。
膨らんだスカートの下にはリボルバーとナイフが忍ばされていた。
化粧品は「太陽の娘」からアンジェリカが貸してくれた。アンジェリカはランドルフの情報網になりながらも、事情を聞かずに協力してくれることがある。
ドレッサーに広げられた化粧品の中で、真っ赤なルージュに目が引き寄せられた。アンジェリカが普段しているものと同じ色だろうか。
今日はソフィアの装いに合わせてヴァイオレットも赤毛のかつらを被る。赤い髪なら真っ赤な口紅も合うだろう。ヴァイオレットは魅入られたように口紅を手に取り、唇の上に色を乗せた。
深い血のようなまさにスカーレットという色だろう。唇に血色感が足されることによって白い肌が際立った。肌の荒さも誤魔化してくれる気がする。
アイラインを長めに引いて跳ね上げて、目の下にほくろを描いてみた。実は眼帯で隠れているランドルフとお揃いだ。たまに彼が眼帯を外しているのを見たことがある。いつも見えないから、どきどきしてしまう。ランドルフは自の下にほくろがあることに気づいているのだろうか。
赤いルージュとほくろで一気に色っぽくなったような気がする。ヴァイオレットは任務だと言い聞かせながらも浮かれる心を抑えきれなかった。
「ヴァイオレット、準備はできたか」
ランドルフの声がドアの外から聞こえてくる。
「はい。できました」
ヴァイオレットは駆け寄ってドアを開けた。ドアを開けると、漆黒の軍服姿のランドルフが立っていた。ランドルフの目線はヴァイオレットの天辺から爪先へと流れる。そしてある一点で止まり、ランドルフは小さく息を呑んだ。
「なんだその口紅は。娼婦みたいな派手な色を使うな」
ランドルフの冷たい言葉に、浮かれていたヴァイオレットの気持ちは冷や水を浴びせられたように沈んでいった。彼にとってはヴァイオレットが「貴族令嬢らしさ」から外れることは許されないのだろう。
ヴァイオレットはいつも貴族令嬢に見せるときは薔薇色の口紅を使っていた。しかし今夜は仮面舞踏会であり、照明の関係もあっていつもより華やかな真紅を選んだ。
美しくありたい、そのちょっとした乙女心をランドルフはわかってくれない。
「化粧品は、アンジェリカが貸してくれたから…」
「目立つな」
ランドルフはヴァイオレットの顎を掴んでハンカチで唇を拭いた。ハンカチの布の感触の奥にランドルフの太い指の質量があった。キスってこんな感じなのだろうか。
結局、ヴァイオレットの唇はいつも通りローズで彩られた。夜会のダンスホールにはむせかえるように花が飾られて、シャンデリアは眩く輝いていた。
「ヴァイオレット、こんな状況だけれど、楽しんで行ってね」
ソフィアはいっときでも護衛に囲まれている息苦しさから解放されたのか、声はのびのびと響いた。肘まで覆われたシルクの手袋に包まれた指でヴァイオレットは自分の唇を撫でた。ランドルフの指の感触を思い出して、自分の顔が仮面で覆われていることをありがたく思った。




