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3話 嫉妬

 蒸気が空を覆っている。少女に名前はなかった。孤児であり、ストリートチルドレンとして暮らしていた。女として生きることはとても難しく、少女は目立つ白い髪を帽子に隠して、靴磨きをしていた。


 でも、靴磨きだけでは生きていけなかった。理不尽な文句をつけられて、金を払ってもらえないこともあったし、唾を吐きかけられ、殴られることもあった。


 少女には一度見たものを忘れないという特技があった。


 街ゆく人の歩き方を観察し、身につけているもので金持ちがどうかを見抜き、毎日どの道を利用するかを割り出した。あとは、金を持ってそうな人物を狙って財布を掏る。


 少女はとある男を狙うことにした。姿勢の良さや歩き方から、訓練された軍人。しかし、スキットルを携帯しており、煙草やオーデコロンの匂いの中にわずかにアルコール臭が混じる。


 そして男が向かう先は、薔薇十字街。首都で娼館が集まる区画だ。この男は酔っ払っていて私生活もだらしない。髭も手入れできないほど、やつれているように見える。つまりはカモだ。


 少女は小柄な身体を生かして、人の波を縫うように男に近づき、すれ違う一瞬で財布を抜き取ろうとした。


 「い…痛っ」


 少女の腕は男に片手で捻りあげられ、掴まれた手首はみしみしと骨の軋む音が聞こえていた。


 「それはお前の財布じゃない」


 男の声は低く抑揚がない。このまま腕の骨を折られてしまうのではないかと少女は震えた。


 「…お前、アルビノか?」


 男は少女を捻りあげている手とは逆の手で顎を掴んだ。その拍子に帽子が落ち、少女の純白の髪が日の下に晒される。髪は日の光を浴びて雪のように光っていた。


 「痩せているから、わかりにくいが女だな。ズボンを履いても骨盤の位置は変えられない。歩き方を矯正できてない。最近、こそこそと俺をつけまわして、品定めしたな」


 少女は軋む手の痛みに悶えながらも、顔だけは崩さないように虚勢を張った。


 「私も、あなたのことわかります。目の傷は戦争で負った、あなたは戦争帰り。ストレス障害で酒が手放せない。高級娼館に出入りしているから、金は持ってる。私は一度見たものは絶対に忘れないから」


 男は感心したように「ほう」と少女を見つめた。


 「お前、名前は?」


 「ない。孤児だから」


 男は少女の顎を掴んだままその瞳を見つめた。冷えた獣の瞳に見つめられ、少女はこのまま噛み殺されてしまうのではないかと思った。


 「じゃあ、ヴァイオレットと呼ぶことにしよう。ヴァイオレット、俺と来い」


 男は瞳の色から少女にヴァイオレットと名付けた。初めて与えられた自分だけの名前に、この人は自分のことを「あれ」とか「薄汚れたガキ」とは言わないのだと喜びが胸に芽生えていた。


 きっとヴァイオレットは「使える」と判断されたのだろう。男はランドルフ・グレイと名乗った。ランドルフがヴァイオレットを汚泥の中から拾い上げてくれた。


 


***



 

 ヴァイオレットはショットガンの手入れをしていた。銃は自分の指先と同じなのだから、手入れだけは怠るな、とランドルフから厳しく言われていた。


 ショットガンを切り詰めて改造しようかと、ノコギリを持ちながらヴァイオレットは熟考していた。今でこそショットガンの反動に負けずに撃てるようになったが、今のままではヴァイオレットが扱うにはやや大きい。


 しかし、大きい銃器を扱えないことでランドルフに一人前扱いしてもらえないのではないかと不安があった。


 「おっ、ヴァイオレット。ソーンオフ・ショットガンにするのか。いいねぇ」


 葉巻を加えながらやってきたのは、エイドリアン・イーグルである。眼鏡をかけたいかにもインテリ風の男。陸軍情報部第二課のメンバーで元暗号解読班。無線いじりが趣味で暇さえあれば無線機をいじって傍受を楽しんでいる。


 「イーグル少佐、第二課のオフィスは禁煙ですよ」


 ヴァイオレットは眉間を顰めながら忠告した。ランドルフからわずかに香る煙草の匂いは何故か背徳のようなものを感じて甘美なのに、なぜ他の人になるとこうも煙たいだけの悪臭になるのだろう。


 「いいじゃん、ケチ。どうせランドルフも大して守ってないじゃん」


 そう言いながらもエイドリアンは灰皿に煙草を押し付けていた。そして消臭代わりか、シノワズリ趣味の課長が置いているお香を焚いていた。


 「ヴァイオレットは真面目だな」


 エイドリアンは並べてある銃弾を検品するように眺めた。銃弾は殺傷能力が上がるように先端を削ってある。ランドルフは銃やそれに関連するものは「女を扱うように丁寧にやれ」と指示したが、きっとそれは男に対しての教え方を流用したのだろう。


 そのちょっと不器用なところが見られて嬉しい。きっと恋人に対するように丁寧に銃に向き合えということなのだろうが、ヴァイオレットは恋人がいたことがないのでわからない。だから、何ごとも真面目に取り組むしかなかった。


 きっとランドルフもヴァイオレットの扱い方を探っているのだろう。ヴァイオレットは彼の初めての女の部下だから。


 「ところでさ、お前のご主人様は今どこだ? これからちょっと共有しておきたい話があるのに、寝てるのか屋敷に電話かけても、出ねぇ」


 こんな夜に電話をかけるのも非常識ではあるのだが、ランドルフのセシル侯爵邸タウンハウスの執事は夜間でも電話に対応してくれるため、エイドリアンはあまり時間を気にしないのだろう。


 ヴァイオレットはこの時間にランドルフが屋敷にいないのならば、どこにいるのか思い当たる場所が一つだけあり、心が沈んだ。


 「きっと、薔薇十字街の『太陽の娘』にいる」


 ヴァイオレットは胸がちくちくと痛くなり、手に持っていたショットガンを握りしめた。


 「悪いけど、ランドルフを迎えに行ってくれないか?」


 ヴァイオレットはしぶしぶ広げていた銃器を片付けて、ハンドバッグに真珠装飾と白銀細工がされた拳銃を入れた。装飾が施されてはいるが威力に問題はない。万が一、銃を持っていることに気づかれたときに、玩具であると誤魔化すための悪あがきだ。


 仕込み剣の日傘を持ってヴァイオレットはオフィスから出た。情報部第二課の拠点は集合住宅の一室など、見ただけではそこが軍事施設だとはわからない場所にある。このオフィスと呼ばれる場所も数ある中の一つで、定期的に場所が変わる。


 日も沈み始めている時間帯に日傘を差すのは不自然かもしれないが、アルビノのヴァイオレットにとっては夕方の日差しも強敵だった。


 薔薇十字街は夜になるにつれ、活気付く。ヴァイオレットはゴシック様式の建物に入った。古めかしいが、ゴシック・リヴァイヴァルの頃に建てられたものだ。


 看板には金の文字で「太陽の娘」とある。薔薇十字街の中で一、二を争う高級娼館だ。政界や財界の大物、貴族たちも通う場所。


 女がここに入るのは珍しいが、全く無いわけではない。女色家の貴族から、夫を追いかけて娼婦を刺しに来た妻まで色々だ。エントランスに入ると、スリーピースの給仕が話しかけてくる。


 「リトル・レディ、本日は何のご用でしょうか」


 「ランドルフ・グレイがこちらにいらっしゃいませんか」


 ヴァイオレットがそう尋ねると、給仕の男は不審そうにヴァイオレットを眺めた。ここのスタッフたちは女性は客の妻か恋人で娼婦を害しに来たと警戒している。しかし、ヴァイオレットは妻には見えないのだろう。


 「申し訳ございませんが、お客様の情報をお伝えするわけには──」


 「ヴァイオレット〜」


 給仕の男が言い終わる前に、甘ったるいカナリアのような声が遮った。ムスクの匂いを漂わせた谷間の見えるドレスを着た美女がこちらに駆け寄ってくる。


 「あなた、また小姑みたいにランドルフにくっついてるのぉ? そんなのじゃ、ランドルフだって息抜きできないわよ」


 太陽の娘で働いている娼婦のアンジェリカである。給仕の男はせっかく黙っていたのに、アンジェリカがランドルフがいることをばらしてしまったと眉間を押さえていた。


 「別に…私は…」

 

 ランドルフはここに欲を晴らすだけではなく、情報を仕入れに来ているのだとわかってはいるのに、ヴァイオレットは胸がざわめいて、ずっと手袋の縫い目の感触をなぞっていた。

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