2話 狂犬
石畳の上を歩く。ヴァイオレットの足元を飾るローファーが、コツコツと音を鳴らしていた。
「ヴァイオレット、足元に意識を集中させろ。貴族の令嬢はそんな大股では歩かない」
ランドルフが注意すると、ヴァイオレットは足がもつれそうになった。慣れないスカートがスースーして不思議な気分だし、ランドルフの歩調に合わせようといつの間にか軍人のように背筋を伸ばしてきびきび歩いていた。
「すみません。すぐ直します」
ヴァイオレットはすぐ修正しようとするが、歩き方がぎこちなくなってしまう。
「お前にもう少しスカートの練習をさせるべきだった。思えばお前にはパリッとした服しか与えていなかったな。もう少し装飾のついた可愛らしいものが欲しくないか」
霧が辺りを包んで、瓦斯灯の灯りがぼんやりと溶けていく。ヴァイオレットはこの少し湿度の含んだ冷たい空気が肺に満たされていくのを感じた。産業革命で大気汚染が始まったから、あまり吸い込むのは良くないのかもしれないが。
「私は、パリッと糊付けされたシャツも硬い革靴の感触も気に入っています」
ヴァイオレットがそう答えると、急にランドルフはヴァイオレットの肩を抱き寄せて路地へと入った。ヴァイオレットは布越しに触れる肩が熱くなっていくのを感じていた。
「ランドルフ様…」
「振り返るな。そのまま何事もないように会話を続けろ」
つけられていると気づいたのはランドルフの方が早かった。ヴァイオレットはそっとヴァイオリンケースやハンドバッグの中の質量を確かめる。後ろから聞こえる足音は、こちらが速くなると同じように速くなる。
「同じ足音が続いています。靴底のすり減り具合から、右に重心を置いているようです」
ヴァイオレットは記憶を辿る。後ろからついてきている男の姿。髭は伸び放題で、目の周りは酒のせいか黒ずんでいる。顔の肉は削げ、頑丈な頬骨が浮き彫りになっている。
カビの生えていそうなコートから覗くシャツは垢で汚れていて、路地裏の呼売商人──いや、もっと悪くいうならドブ浚いだろう。煤で汚れていたら煙突掃除人かと思うくらいだ。
「尾行に関しては素人だな」
ランドルフが外套の下に隠していたリボルバーにそっと手を伸ばしたのがわかった。ヴァイオレットも音を立てないようにヴァイオリンケースの金具を外す。
入り組んだ路地で体を隠しながら、ヴァイオレットはランドルフと別れて住宅の壁に張り付いている配管を伝ながら素早く屋根に登った。
ヴァイオレットはヴァイオリンケースを開く。黒いベルベットの内張りに、解体されたライフルの部品が収められている。指先は鍵盤を撫でるように滑り、数秒でライフルが組み上がる。
尾行していた男が、路地の曲がり角に差し掛かった。ピストルを構えていて、ランドルフの姿を確認した瞬間叫んだ。
「女はどこ行きやがった」
男の銃の構え方は基本のフォームを忠実になぞっていたが、それが逆に素人くさかった。正式な訓練を受けたわけではないのだろう。ランドルフはリボルバーを構えて男を牽制していた。
「ヴァイオレット、やれ」
ランドルフの言葉を合図に、ヴァイオレットは屋根の上から男を狙撃した。男が引き金を引いた瞬間と同時だった。ランドルフは銃弾を回避し、男の脚を撃つ。ヴァイオレットは頭は狙わず、しゃべらせるために手を狙った。
真っ赤な花が咲いて、男が崩れ落ちる。血飛沫が飛び散り冷たい石畳に血溜まりができる。男はぐちゃぐちゃになった手からピストルを取り落とし、落ちたピストルはランドルフが手の届かない場所に蹴っていた。
ランドルフは男を踏みつけ、動けないようにする。ヴァイオレットは屋根から飛び降りて、ランドルフの元へ向かった。
「どうして俺たちをつけた?」
ランドルフは男の背中の上に乗せた自分の足をぐりぐりと深く沈み込ませた。男は呻き声しか出さない。
「無口なら、少し物分かりが良くなってもらおうか」
ランドルフはベルトに仕込んでいた折り畳みナイフを取り出した。その手つきの艶かしさにヴァイオレットはいつも惚れ惚れしてしまう。あの革手袋に包まれた指の温度は甘いのだろうか。
「人間はな、二つあるものは片方失っても構わない」
ランドルフはナイフを男の耳に近づけて刃を出した。その音をゆっくり聴かせるように。
「手足、眼球、耳、睾丸。どれがいい? このナイフは特別に切れないから長く苦しむことになるぞ」
ランドルフの言葉に男に脂汗が滲んできた。わずかに震えてもいる。素人臭い銃の持ち方や下手な尾行からこの男が尋問に耐えうる訓練を受けていないことは容易に予想がついた。
「お話しするには、残しておかなければならないものがある。まず、舌だ。舌は一枚しかない。下手に切断すれば死ぬ。眼球は二つあるが取り扱いが難しく、摘出のショックで死ぬこともある」
追い詰めていく言葉はまるでオペラのようだった。歌うような声が耳に心地よく、ヴァイオレットは男が動かないように銃を構えながらも、少しうっとりしていた。
「だが耳はというと…片方がなくなっても特に支障はないわけだ」
ランドルフが薄らと仄暗い笑みを浮かべた。血と暴力に飢える獣の目。その冷たい表情に、ヴァイオレットはぞくぞくとした。怖いけれど目が離せない不思議な魅力があった。
ランドルフは男の耳朶を掴むと、少し引っ張りナイフを当てた。まるで小さな鋸を扱うかのように、ぎこぎこと前後に揺らしながら耳を切っていく。男は汚く絶叫した。
「わかった、言う! 言うから!」
男の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
「男を殺して誘拐しようとした。アルビノは高く売れるから」
別の大陸では、アルビノは万病に効く薬の材料とされているらしい。この国は日射量が少なく、比較的アルビノも生きやすい。そして王家や貴族を中心として、アルビノが生まれる確率も高いから、人身売買ビジネスの狩場としてちょうどいいのだろう。
クィニアルタ連合王国はいずれも作物の育ちにくい荒野と湿地帯が大半を占め、海嶺の上に形成された島国である。
岩礁地帯が国土を囲み、古来は外敵に対して比類なき利を発揮した。蒸気機関の発達によって航海技術が発展し、諸外国が国境を越えた経済圏で繋がれる現在であっても、その排他的な姿勢が変容することはなく、「栄光なる孤立」を貫いている。
そんな、神秘に包まれた土地から誘拐されてきた少女は市場価値が高く、特にアルビノとなると金塊の山と引き換えになるくらいには高値がつく。
「お前、ブローカーとしても三流だろう。金になると踏んだ新参者だ。こんなに下手なんだからな」
ランドルフは少し優しい声を出した後、男を抑えていた足を退けた。男は助かったのかと淡い希望を抱いたような表情をしたが、ランドルフはすぐさま頭蓋を踏み抜いた。頭蓋骨が割れる音が響く。血と共に脳漿が飛び散る。
情報部第二課には現場裁量権がある。
「俺のヴァイオレットに手を出そうとするとは、不運な奴だな」
俺の──というのはきっと部下、道具、物という意味だろう。それでもヴァイオレットは自分をランドルフが縛ってくれるなら嬉しかった。
絶命した男を横目に、ヴァイオレットはレースのハンカチをハンドバッグから取り出した。
「ランドルフ様、血で汚れています」
ヴァイオレットがランドルフの血まみれの軍靴をハンカチで拭おうとしゃがみ込んだが、ランドルフは「別にいい」と言い、ヴァイオレットを見た。
「お前は汚れていないか。お前は白いから血の赤が目立つ」
ランドルフは全身、黒の軍外套や軍靴だったからあまり血は目立っていない。ヴァイオレットはくるくるとその場で回って見せて返り血がついていないことを証明した。
自分の体に硝煙の匂いが染み込んでいる。なんだかランドルフとお揃いになった気がして、ヴァイオレットは気分が良かった。




