14話 首輪
満たされているはずなのに、あらがえない渇きがあるのはどうしてだろう。満腹なはずなのに飢えるのはどうしてだろう。
ランドルフからの愛を手に入れて白く浮かび上がる月のように満たされているが、満ちた月はあとは欠けゆくのみだということを漠然と知っているからだろうか。
パリッとした生地のジャケットを羽織り、ネクタイを締める。鏡の中には軍服姿のヴァイオレットが映る。髪は後ろで巻きつけるように束ねて帽子の中に入れた。
「やっぱり…落ち着く」
落ち着くとは気が緩むという意味ではない。むしろ逆で、気が引き締まって背筋が伸びるからこそ落ち着くのだ。エリザベスの服を勝手にクローゼットから借りてしまったのは悪かったが、やはりスースーするスカートは落ち着かない。
ランドルフがヴァイオレットにエリザベスの真似をし続けろと言わずに、お前はヴァイオレットだと肯定してくれたことが嬉しかった。かくして、聖域は壊れて正真正銘ヴァイオレットとしてランドルフの心に深く残ることに成功したのである。
ランドルフがヴァイオレットに可愛らしい服を買い与えなかったのは、軍人らしく利便性を優先していたのもあるだろうが、完全にエリザベスと同じにしてしまうことを無意識に避けたのではないだろうか。
アルビノの女としてでも、エリザベスの代用品としてでもなくただのヴァイオレットとしてランドルフの中に根付きたい。
朝食室ではランドルフが新聞を読んで待っていた。メイドによってこんがりと焼かれたベーコンとソーセージ、目玉焼き、ベイクドビーンズ、マッシュルームやトマトのソテーのプレートが置かれる。
「ランドルフ様、昨日はお酒を飲まなかったんですね」
酒を飲んだ翌日はランドルフは朝食を食べない。酒と一緒に飲んだ薬の中に睡眠薬も混ざっているのだろう。しかし自殺するということはヴァイオレットへの贖罪から逃げるということだ。ランドルフは自ら償いたいと言ったのだから、昨日は衝動的な行動はしなかったのだろう。
「ああ。お前に心配をかけたからな」
ランドルフからは酒の香りはしない。代わりに朝食に出された濃いコーヒーのほろ苦い香りがした。そしていつも漂わせているはずの葉巻の香りもしない。ヴァイオレットに償わなければいけないから、大切な人がいないから長生きしないという理由は消えたのだろう。
「ランドルフ様、これからは『太陽の娘』に行かないでください。ソフィアさんにも会わないでください」
ヴァイオレットはランドルフの目の前に座りなら、そう告げた。ランドルフはアルビノの女を嫌悪しながらも、執着しているように思う。ランドルフの選ぶ娼婦は、アルビノに近い色素の薄い肌や白金髪ばかりだった。
「…わかった。もう行く必要もないし、ソフィアとの縁談は断わろう」
ランドルフが言った「お前の望むままに」という言葉は嘘ではなかったのだと確認できてヴァイオレットは安心した。どうやら自分は疑い深く、ランドルフからの愛を試さなければ安心できないらしかった。
アンジェリカやソフィアより自分の願いが優先されたことに優越感を感じた。それが罪悪感によって引き留めている歪んだ関係なのだとしても、ヴァイオレットにはそれしか方法がなかった。
朝食を食べ終わったあと、ヴァイオレットは第二課のオフィスにランドルフと共に出勤するために、屋敷を出た。
「ランドルフ様。ネクタイ、私に結ばせてください」
ヴァイオレットが頼むと、ランドルフは少し戸惑ったように視線を漂わせた。しかし、ヴァイオレットが色素の薄い紫の瞳でじっと見つめると、ランドルフは身を屈めてヴァイオレットが結びやすいように差し出してくれた。
アンジェリカの教えが役に立った。ありがたいと思ったが、それでもランドルフに会わせるのは許せない。これは別問題だ。
ランドルフのネクタイを締める時、ヴァイオレットはまるで彼に首輪をつけているかのようで恍惚とした。アンジェリカが首輪をつけろと言ったのを無意識に実践してしまった。
ランドルフが逃げるなんて許さない。ずっとヴァイオレットを飼い慣らしてくれなくてはならない。死に逃げてはならないし、ヴァイオレット以外と幸せになることは許されない。
第二課のオフィスには課員が勢揃いしていた。課長が全員を集めて、次の作戦について説明を始める。
「フィッツジェラルド家の令嬢誘拐が失敗に終わり、奴らは暴走する。もう次期継承者の如きでは満足しない。奴らは急いて、女王陛下の暗殺を企んでいる」
机の上に作戦計画書が叩きつけられた。
「今から二分計ります。紙の内容を暗記してください」
配られた計画書の内容を暗記することなどヴァイオレットには造作もなかった。しかし、この第二課には瞬間記憶などなくとも記憶力の良い人間しか集まっていないから、ヴァイオレットの能力はあまり目立たない。むしろ、この能力がなければヴァイオレットは落ちこぼれだろう。
課長の懐中時計の針が二周するのを見届けると、紙は回収され、燃やされた。計画にはヴァイオレットも組み込まれていた。ソフィアの時に、ヴァイオレットが身代わりでそばにいた実績が評価されて、今回もアルビノという容姿を使って女王の身代わりになる。
今回、第二課が女王の護衛をすることに近衛兵たちから自分たちが信用されていないのかと反対があり揉めたらしいが、ヴァイオレットの存在が後押しになったらしい。
「では、このことは他言無用でお願いします。では、解散」
課長の一声で、皆が緊張が途切れたかのように息を吐き、それぞれの仕事へ戻っていく。エイドリアンが「今日のお前のネクタイ、曲がってるじゃん」と軽口を言いながらランドルフに近づいてきた。
エイドリアンはランドルフの身だしなみの乱れを指摘しただけかもしれない。自分のネクタイは上手く結べるのに人のネクタイは上手く結べず、ヴァイオレットは申し訳ない気持ちになった。
「『太陽の娘』の子から、お前の大事な忘れ物を保管してるって伝えてくれって言われた。確かに、伝えたからな」
エイドリアンはそれだけ言うと、自分に与えられたデスクに戻っていく。ヴァイオレットは胸の中には煙が充満していくように火種が燻っていた。今朝、太陽の娘には行かないと約束したばかりだった。だが、娼館は情報収集の場でもある。大事な忘れ物とは何だろう。
「…私が忘れ物を取りに行きます。ランドルフ様は行かないで…」
最後の方はまるで懇願しているかのような響きになってしまった。ランドルフは何か言いたそうだったが、それを飲み込んで「わかった」と了承した。
ヴァイオレットは仕事が終わると、「太陽の娘」に向かった。相変わらず、賑やかでシャンデリアは目が眩みそうなほど輝いていた。
「あーあ。小姑の方が来ちゃった。ガブリエラの賭けは失敗ね」
忘れ物を受け取りに来たヴァイオレットを見てアンジェリカは面白そうに笑った。
「…どういうこと?」
ヴァイオレットは苛立ちを抑えながら尋ねる。アンジェリカの隣にいた揶揄われたガブリエラはあからさまに機嫌が悪くなった。
「ランドルフ様にこれを渡して」
ガブリエラはヴァイオレットを睨みつけながら、真珠と水晶の雫型の揺れるイヤリングを差し出した。これはランドルフの忘れ物ではないとヴァイオレットは直感した。ガブリエラの片耳にはイヤリングのもう片方がこれ見よがしに揺れている。
忘れ物があるという理由で客を呼び出す娼婦の手管にまんまとはまってしまったのだと気づいてヴァイオレットは怒りで顔が真っ赤になった。
「ランドルフ様にこれは渡せません」
ヴァイオレットはイヤリングをガブリエラに突き返した。自分の高級なアクセサリーを渡して、自分のことを思い出してもらおうとするなんて小賢しいとヴァイオレットは奥歯を噛み締めた。
「これくらいいいじゃない。私、彼に本気なの!」
「ヴァイオレット、あんたも雛みたいにいつまでもランドルフにくっついてないで、ガブリエラお姉さんの恋を応援してあげたらいいじゃない!」
ガブリエラは目を潤ませ、アンジェリカは名案でも思いついたかのように喋る。アンジェリカからランドルフは紳士的だから皆が大好きと聞いていた。ガブリエラは勘違いして本気になってしまったのだろう。
「こんな小細工しても虚しいだけよ、ガブリエラ。ランドルフ様の忘れ物じゃないなら届けない」
ヴァイオレットは優越感を押し殺しながら、あくまでも淡々と告げた。
「何よ、ただの部下のくせに正妻づらして!」
ガブリエラが喚いているのをヴァイオレットは冷静に見れた。今までのヴァイオレットだったなら、ガブリエラやアンジェリカの存在を不安に思っていたかもしれないが、今はあまり気にならない。
「ランドルフ様は私しか見れないようにしたから。もうここには二度と来ない」
ガブリエラなんて眼中にない。全てをヴァイオレットに染める。もう引き金を引くためだけの指先を恥ずかしいとは思わない。彼女たちの豊かな体も、傷一つないソフィアの指先も羨ましいとは思わない。
「ヴァイオレット、あなたいつの間にあのランドルフ・すけこまし・グレイを落としたのよ」
アンジェリカが驚いたように尋ねる。彼女が吸おうと手に取った煙草は向きが逆になっていた。それほど動揺したのだろう。
「あなたはランドルフに父性を見てただけじゃないの? 今まで、慕ってるお兄さんが誰かに取られちゃうのが嫌で小姑みたいな真似してただけじゃないの?」
アンジェリカはヴァイオレットが本気でランドルフを愛していたのだとは今まで思っていなかったのだろう。可愛いやきもちを焼いていただけと受け取られていたのは心外だった。
「私はランドルフ様を愛してる」
ヴァイオレットの言葉にアンジェリカは煙草を床に落とした。しばらく黙っていた。
「あなたに誘惑の仕方なんて、教えるんじゃなかった」
アンジェリカは絞り出すように呟いた。ヴァイオレットはサロンのソファから立ち上がると「太陽の娘」を後にした。




