第91話 繋いだ手
あんまり静かだから黙って帰ったんじゃないかと不安になって、何度か振り返ったけれど、麻乃は言葉を探し切れないのか、ただ黙って座っているだけだ。
それでも、そこにいるとわかるだけで安心する。
皿に盛って机に並べると、麻乃に好きな量のご飯をよそわせ、向かい側に腰かけて食べ始めた。
(そういやあ、いい肉がどうこうって言ってたけど……)
思い出して、大きめに切って煮込まれた肉に手を伸ばしてみる。
「ん? これってもしかして角猪?」
なかなか顔を上げようとしなかった麻乃の目が、鴇汰に向いた。
「これどうしたのよ?」
「ん……狩った」
「狩ったって……角猪ってめったに見ないよな?」
「うん、でも実家の近くに出て畑を荒らされて困ってる、ってお父さんが言うから。こっちは食材がほしかったところで、ちょうどいいかな、って思って」
口の中に入っていたものを飲み込んでから、麻乃はそう言った。
「だって、あいつら頭いいだろ? 罠にかかりにくいって言うじゃんか」
「罠はね、ほとんどが潰されたけど、動きを探る仕かけは生きてたし、こっちは隊員を半分連れてたから。囲んで輪を縮めるようにして追い立てたんだ」
「へぇ……」
いったん箸を置いて、麻乃が話すのを眺めた。
そのときのことを思い出しながら話しているのか、少しずつ言葉数が増えて、表情も明るくなっている。
「……でね、思ったよりスピードもあるから突進されると、必死に逃げても追いつかれてさ、どうにか誘導して落とし穴にはめたときは、みんなも飛び上がって喜んでたよ。でもね、一頭が落ちるとそこはもう使えないから……」
「一頭が、って、全部で何頭いたのよ?」
「えっ? 三頭だよ。残りの二頭はそんなに大きくなかったから、二手にわかれて一頭ずつ斬り倒したんだ。もうね、追われてるときはもの凄いスリルで面白かったよ、角を当てられたら大怪我だもん」
「あぁ、そうだろうな」
「でもさ、逃げるのも、避けかたでスタミナとか力量がわかるよね。危なそうな子が何人かいたし。次からはそこら辺も鍛えないと……」
鴇汰は頬づえをついて聞いていたけれど、あんまり熱心に語る麻乃の姿が面白くて、口もとが緩んだ。
それに気づいた麻乃は、我に返ったようにハッとして頬を赤く染めている。
「ごめん……こんな話、つまらないよね」
「そんなことねーよ。麻乃って、こういう話になると、本当に生き生きしてるよな。刀の選別とかでもさ」
麻乃は答えずに箸を運ぶ。
「調理したのはあの人だろ? 道場の娘さん」
鴇汰の問いに驚いて、視線をこちらに向けた麻乃が、今度は逆に問いかけてきた。
「どうしてそういうの、わかるの? 多香子姉さんも鴇汰が作ったスープを飲んだだけで、お弁当とオレンジケーキを作ったのが鴇汰だってわかってたけど、どうして?」
「なんとなく、癖みたいなのがあるんだよ。それだけ」
麻乃は納得のいかない顔つきで、首をかしげている。
「多香子姉さんはまだ具合が良くなくて作ったのはうちのやつらなんだけど、味付けの指示をしたのは姉さんなんだよね」
「やっぱそうか。凄いよなホント。なるほどね、こういう味付けもあるのか……」
感心してあらためて食べながら、鴇汰は料理になにが使われているのかを考えていた。
どのくらいそうして考えていたのか、半分以上を平らげたところで、会話が途切れて長いことに気づいた。
ふと、麻乃に視線を向けると、うつむいたまま黙々と食べ続けている。なにか落ち込んでいるふうに見えるのが気になった。
「どうしたんだよ?」
「ううん……あたし……なんか羨ましくて。なんで姉さんみたいな女性になれないんだろう、ってさ」
「おまえが? あの人みたいに?」
突拍子もない麻乃の言葉に、鴇汰は思わず、声をあげて笑ってしまった。
「なにがそんなにおかしいのさ! 普通に料理や掃除をしたり、人にハンカチを差し出したり、そんなことができるようになりたい、って、あたしが考えるのがそんなにおかしい?」
「そうじゃねーよ。そんなんじゃなくて……だって麻乃は蓮華じゃねーか。あんな、なよっちいんじゃ話になんねーじゃん」
「あたしは別に、蓮華になんかなりたくなかったから!」
突然怒り始めた姿を唖然として見つめた。
しかも蓮華になりたくなかったって……?
「あたしだって、ただの戦士だったらチャコみたいに……戦士じゃなかったら多香子姉さんみたいに、普通に暮らしていたかもしれないのに!」
「普通普通って、麻乃だって普通じゃねーか。蓮華とかただの戦士とか、そんなことに人として大きな差はねーだろ? 違いがあるとすりゃあ腕前くらいだぜ?」
なにがそんなに、麻乃の怒りに触れたのかわからないけれど、だんだんと興奮してきてるのは鴇汰にもわかる。
穂高の奥さんの名前まで出てくるのは、どういうことなんだろうか。
「だいたい、なんだよ? 一人一人、違うのなんか当たり前だろ? 麻乃は麻乃じゃんか。そのまんまのおまえでなにか問題でもあるのかよ?」
「だって……たいていの人はあんな女性が好きでしょ。あたしが男だったら、絶対あんな人を嫁さんにほしいもん。なのにあたしは、ただ人を傷つけるだけで……」
不意に黙った麻乃は、食べ終わった食器を流しに持っていき、洗い始めた。
「そうとも限らねーだろ? そりゃあ、ああいうタイプが好きなやつは、多いかもしれないけどな」
「ホラね、そうでしょ?」
「ホラね、って……みんながみんな、そうじゃねーじゃん。俺なんかたいていのことは自分でできるから、相手がなにもできなくったってなんの問題も感じねーし、いい食材を調達してきたり、俺が作ったもんをうまそうに食ってくれるようなやつのほうが絶対いいけどな」
なんだって急に、そんなことを言い出したんだか……麻乃のいう『普通』とやらに見られたい相手でもいるんだろうか?
急に不安になって麻乃の背中を見た。
不器用な手つきで洗い物を続けている。
もし、そんな相手がいるのなら、麻乃がいくら鴇汰とのことを考えてくれたところで、なんの期待もできないじゃないか。
残った皿を片づけると、麻乃を押しやって洗い物の続きをした。
肩を押した瞬間、怒っているわけではないのがわかった。
誰かほかのやつのことを考えているわけでもないようだ。
それならなんであんなにむきになっていたのかを思い返してみる。
様子がおかしくなったのは、麻乃の姉を褒めたあたりからだった。
(もしかして嫉妬してるとか……?)
一瞬、頭をよぎったけれど、麻乃にかぎってそんなわけがない、と自嘲気味に小さく笑った。
蓮華になんかなりたくなかったと、ただ人を傷つけるだけだと、そう言った麻乃にはなにか思うところがあるようだ。
けれどそれは絶対に開かない扉の向こう側にあって、こちら側からこじ開けようとしても決して開かないだろう。
それがなんなのか気になったけれど、麻乃が自分で開かないかぎり、絶対に触れてはいけないような気がした。
そこに触れた瞬間から遠ざかっていくんじゃないだろうか。
ちらりと振り返ると、麻乃は机に頬づえをついて外を見ている。
(ひょっとすると、こいつが覚醒しない原因がそこにあるのかもしれない)
だとすれば、そこに触れなければいい。
してはいけないことが、一つでもはっきりとわかってるのはありがたい。
もう何年も一緒にいるのに、いまさら気づき、わかることがこんなにあるなんて……。
コーヒーを二つ、一つを濃いめに淹れると机に置いた。
「なぁ、豊穣のルートだけど」
冷蔵庫からチョコレートケーキを出して麻乃に渡し、話題を変えることにした。
「岱胡の話だと、川の左側のほうが低いから城から見えにくいっていうんだよな。そんで、今回はそっちを使ったらいいんじゃないかと思うんだけど、どうよ?」
「そうだね……見つかりにくいなら、そっちでいいよ。少しでも不安は減らしたいからね」
「だよな。それに右側は崖の高さもかなりあるって言うしよ、いざなにかあって川に飛び込まなきゃならないってときに、ためらっちまうもんな。穂高なんか、岱胡に突き落とされたらしいぜ」
それを聞いて麻乃はやっと笑い、ケーキに手を伸ばした。
「あたし、高いところは全然平気だけど、川に飛び込むとなると変な落ちかたをしたら痛そうだよね? 痛いのは嫌だから、左がいいよ」
「じゃあ、左側で決まりな。あとは向こうに渡ってみて、おかしな雰囲気があったらその都度対応していこうぜ。俺、足手まといかもしれねーけど、そうならないように気をつけるから」
麻乃は急に厳しい目を鴇汰に向けると食べる手を止めて姿勢を正した。
「ちょっと、そこに座りな」
そう言って向かい側の椅子を指差す。
部屋中の雰囲気が変わった気がする。
変な威圧感に、鴇汰は言われたとおり椅子に腰かけた。
(この雰囲気、道場のあの師範と同じだ)
麻乃は真剣な眼差しで鴇汰を見ている。
そして、ゆっくりと言った。
「あたしと鴇汰は、これまで持ち回りでもめったに一緒になったことはないけど、足手まといだなんて一度だって思ったことはない。腕前だって大したものだと思っている。前に出るなら安心してあとを追えるし、後ろを任せることも十分にできる。それで足りない部分はあたしが全部サポートする。自分の力量を過信するのは危険だけれど、そう卑下するものじゃない。自信をなくした男は、あたしは嫌いだ」
普段はぼんやりしている癖に、こんなときには麻乃は厳しい。
たとえ一年でも経験が長いだけのことはあって、しっかりしても見える。
不安定な中にみえる、揺るぎない強さと崩れそうな弱さに、いつも強く惹かれ焚きつけられる。
「わかった。もう二度と、そういうことは言わない」
そう答えると、ふぃっと麻乃の表情が緩み、威圧感もすっかり消え去った。
こうなると、ここから先はいつもの麻乃だ。
少し前まで泣いたり興奮したりしていたことが嘘のように、今は暖かい空気が満ちている。
時計が九時を回っていた。
「麻乃、明日は早いとか言ってなかったか?」
「うん。明日は地区別からみんな戻ってくるから」
「あぁ、そうか……もう九時過ぎてるけど、どうすんのよ?」
「うん……もう寝ないと……あたし部屋に戻るよ」
わずかに不安げな表情で、そう言った。
「あのさ」
麻乃がドアに向かったその前に飛び出し、さえぎるようにノブに手をかけた。
「おまえ、今朝のこと、まだ気になるならそっちの部屋を使って寝ていいから。俺、どうせ岱胡が戻るまで起きてるし、ほかに行くならここに来いよ、な?」
部屋の奥のベッドに指を向けると、麻乃はちらっとそちらに目をやり、わずかに首をかしげてからうなずいた。
静かに閉じられたドアを見つめ、戻ってくることを確信した。
(そうしようかな……)
そう思ったのがわかった。
なぜだか今日は、麻乃の考えていることが本当によくわかる。
一度、部屋中の窓を開けて空気の入れ替えをし、机とその周辺の荷物を片づけた。
空き部屋だったから散らかってはいないけれど、埃っぽさが少し気になる。
掃除の道具を取りに出ようとドアを開けると、階段をあがってきた麻乃が見えた。
「あ……やっぱりこっちにいてもいいかな?」
「構わねーよ……いや、ちょっと待てよ……やっぱ、おまえの部屋に行こう」
「えっ? あたしの部屋?」
「どーせ散らかしてんだろ? 掃除してやるから。俺、岱胡が帰ってくるまで暇だし、なにかさせろよ」
「ん……じゃあ……お願いしようかな」
渋々そう言った麻乃の手に、いくつか荷物を持たせ、食料も持って移動した。
途中、岱胡の隊員たちに移動する旨を伝え、麻乃のあとを追って部屋に入った。
中は思ったとおりの散らかしぶりで、荷物の置き場もない。
こんなにやりがいのある部屋は、そうはない。
麻乃がシャワーと着替えをしている間に、ゴミをまとめて捨て、会議室に寄って岱胡宛に居場所のメモを残した。
戻ってくると、髪を乾かし終えた麻乃が申し訳なさそうに鴇汰を見あげた。
「じゃあ悪いけど先に眠らせてもらうね。面倒もかけるけど……」
「全然面倒なんかじゃねーって。いい暇潰しになるしな。ちょっとうるさくするかもしんねーけど」
「ううん。静かにされるよりは、音がしてたほうが安心できるから」
横を向いた麻乃の首もとに、革紐が見えた。
「もしかして黒玉、つけてるのかよ?」
「うん、だってねぇ、カサネさまとかほかの巫女たちの祈りが捧げられてるんでしょ? 粗末にはできないし、身につけてないと失くしそうだし」
「ふうん……」
『なんかな、巫女たちの祈りが捧げられてるから、お守りとして持ってろってさ』
確かに手渡すときにそう言って渡した。
誰の名前も口にはしていないけれど、麻乃はまず、カサネの名前を出した。
本来なら、一番巫女のシタラの名前が出てくるだろう。
(無意識に名前を口にするのを避けてるんだろうか? それとも単に嫌いだからか?)
どうやらその辺も、あまり触れないほうがよさそうだ。
麻乃は寝つけないのか、モゾモゾと動いたり体の向きを変えたりしている。
それも二十分も経つと眠ったのか、大人しくなった。
あちこちに積み上げられたままの本を、書棚に並べてしまいながら時々、様子をみてみる。
見たところ、特になんの変わりもないようだ。
書棚に並ぶ本のほとんどが、剣術や刀にまつわるものばかりだ。
何冊かは読み止しのままになっているところをみると、あるぶんは全部、目を通しているということか。
台所のほうは、まったく使われている様子がなく綺麗なままだった。
冷蔵庫の中にもなにも入っていない。
(そういえば、柳堀を出禁になってるんだったな)
となると、この部屋はあまり使われていないのかもしれない。
それでこの散らかりようだとすると、自宅のほうはどうなっているのか。
(いや、でも調理に麻乃の自宅を使っているとしたら、隊のやつらがいるから、それほど散らかってはいないか……)
そうは思っても、以前、寄ったときの散らかりようを思い出すと、つい笑ってしまう。
片づけないと落ち着かない鴇汰は、あそこまで散らかして平気ではいられない。
出したものをもとの場所に戻すだけのことが、なんでできないのかと不思議にも思う。
掃除を済ませ、時計を見ると、もう深夜二時になろうとしていた。
岱胡が戻ってくる様子もまだない。
ベッドの横に椅子を寄せ、コーヒーを飲みながら適当に出してきた剣術の本に目を通した。
寝苦しいのか、時折、体をよじって眉間にシワを寄せ小さく呻く。
ひょっとすると、また悪夢を見ているのかもしれない。
鴇汰は空いたほうの手で、麻乃の手を握った。
途端に急速に睡魔が襲ってきて、肘掛に頬づえをつくと、そのまま眠りに落ちた。




