第86話 紅き華の謎
あの口ぶりだと、なにかを知っているようだ。梁瀬の胸に、再び期待が芽生えた。
(それにしても堅苦しい……)
もう温くなったお茶をがぶりと飲むと、梁瀬は足を伸ばして、ごろりと横になった。
久しぶりに実家でくつろいでいると、子どもの頃の記憶が蘇ってくる。この部屋で、よく母親に叱られたものだった。
天井を眺めていると、数カ所にシミが見える。
(もう、ここも建ってから古い。雨漏りでもするのかもしれないな。修繕しないといけないか)
じっと天井のシミを見つめた。
なにかを思い出しそうで思い出せない。
一体、なんだろう?
記憶を手繰り寄せながら、ぼんやりと時計を見た。
母が出ていってから、十分以上経つ。
嫌な予感がして、梁瀬はあわてて飛び起きた。
(長居し過ぎたかも……また見合いにでも持ち込まれたら面倒だ)
黙って帰るのも気が引けるけれど仕方ないだろう。
そう思ってそっと襖を開けると、目の前に母が立っていて、腰が抜けるかと思うほど驚いた。
「どうしました?」
「いえ、あまり遅いのでどうしたかと思って……」
母は見合い写真ではなく、古びた小さな桐の箱を手にしている。
母は机にそれを置き、中から数枚の紙を取り出した。
紙は古く、黄ばんでいて、とても大切に保管されていたことが窺える。
「あなたも、この国の文献については、よく知っていると思います」
丁寧に紙を広げながら、そう言った母に、梁瀬はうなずいた。
「大陸にはもっと多くの伝承があり、それがこの一つです。ロマジェリカで知り合った巫女からあずかりました」
「その方は?」
梁瀬は、嫌な予感を覚えながら尋ねた。
「あの忌まわしい粛清の日に亡くなられています」
部屋を重苦しい空気が包んだ。
まだ大陸にいたころ――。
ある日、突然、ロマジェリカ城において異人、混血、それを生した者が大勢投獄され、何の予告もないままに処刑された。
梁瀬の脳裏に、あの忌まわしい日の記憶が蘇る。夕暮れの空が血のように赤く染まって見えた。
幸いにも当時、住んでいた街が城から遠く離れたところだったため、危うく難を逃れ、泉翔へ渡ってきた。
その日から数日に渡り、数えきれないほどの人数が、老若男女を問わずその命を落としたと聞く。
「藤川さんの血筋のように、過去に何度もそれがあらわれた場合は、書物が多く残っていますが、この血筋はここに記されて以来、あらわれていないのです」
広げられた紙は、もう古びて煤け、破れや汚れが多く、文字さえもかすれている。
辛うじて読めるのは……指でその文字を追う。
『暗闇が閉ざす』
『破壊』
『蒼き月の皇子』
『紅き華を携え』
『南に生まれし者』
『その前にひざまずくとき』
『そのもの』
『広大な土地を治める』
ただの言葉の羅列だ。
これだけではなんの意味かも、なにを記しているのかも、なにをしたのかさえもわからない。
まるで暗号のような文言に、梁瀬は眉をひそめた。
それでも梁瀬は、上着のポケットからメモとペンを出すと、それらすべてを書き記した。
母親が大切に保管していたものだ。必ず、なにかの意味があるはずだった。
「私たちはその方と親しくしていました。いよいよ危ないかもしれない、という噂が広まったとき、わざわざ訪ねてきて、これを託していかれたのですよ」
「ご自分が危ないということを、わかっていらしたんですか?」
「その方は純血だったんですけど、ご主人が泉翔人で、お子さんを生していたのです」
「なるほど……その方のお子さんは?」
「さぁ……なにせ、あの混乱です。私たちも逃げるだけで精一杯だったでしょう?」
「そうですね……」
当時、梁瀬は十歳になっていた。
ほとんどのことを覚えている。
親しくしていた者たちの豹変する目、虐げられて暮らした日々、泉翔へ渡る不安、慣れた大陸を離れるのが嫌で、ひどくごねたこともあった。
「これはどうやら大陸の統一に関わる伝承だと、その方は仰っていました。大陸を破壊しようとする者、再生を図ろうとする者、まとめあげようとする者、それらいずれかをサポートする者」
メモに写した言葉を見つめ、梁瀬は黙って母の話を聞いた。
母親の声は、どこか遠くを見ているような響きがあった。
「これはそれまでにないほど、大きな出来事だったことでしょう。未だ統一されることもなく、あれほどに荒れた土地……まとめる力は敵わず、再生も成されず、といってすべてが破壊されたわけでもない……」
「ええ……」
「どのような形で終結したにせよ、それぞれが無事とも思えません。確かに、これまであらわれないことを考えると、絶えた可能性も高いのですが……さっき、あなたが言った術を、賢者以外に使えるとしたら、彼ら、あるいは彼らのうちのいずれかでしょう」
《《紅き華》》。
その言葉が妙に引っかかる。
泉翔に長いせいか、紅と言うと自然と麻乃を思い出す。おまけに華という言葉が女を連想させる。
まさか、と梁瀬は息を呑んだ。偶然にしては出来すぎている。
(だけど、もしも……)
鬼神が女性であったことは、これまでの泉翔の文献にはなかった。
けれど、この『紅き華』が鬼神だとしたら、麻乃は『サポートする者』になる。
この中の誰につくか、それによっては大陸も大きく変わるということか。
『破壊しようとする者』
『再生を図ろうとする者』
『まとめあげようとする者』
いずれかが既に生まれ、目覚めているとしたら?
麻乃は術を使えない。
まだ覚醒もしていないのに、自分で傷を治すのは不可能だ。
鬼神の情報はあの庸儀の諜報員のおかげで大陸に流れている。
もしも麻乃に気づき、干渉し、傷を治したんだとしたら?
(けど……泉翔の中にいて、どうやってそれができる?)
梁瀬は軽く頭を振った。
母が入れ直してくれたお茶を飲みながら、何度もメモをたどった。温かいお茶が喉を通り、少しだけ気持ちが落ち着く。
「それでなにかがわかるとも思えませんけど、なにもないよりは、手がかりに繋がるかもしれないでしょう」
「ええ、想像の域は越えませんけれど、これが欠けた歯車の一つになるかもしれませんし、助かりました」
「詳細がわからないだけに、余計に迷わせてしまうかもしれませんけどね。豊穣までもう数日でしょう? なにも見えずとも、そのときにはきちんと気持ちを切り替えなければいけませんよ」
「……わかっていますよ、もう子どもじゃないんですから」
憮然として答えると、母はもう一度、湯飲みにお茶を注ぎ、問いかけてきた。
「……ところであなたは、まだ独りなんですか?」
ハッとして母に視線を向けると、手に釣書を持っているのがわかり、梁瀬は軽い目眩を覚えた。
やはり、である。油断した隙を突かれてしまった。




