第85話 久しぶりの帰省
――自宅の敷居が高い。
ここへ帰ってくるのは久しぶりだ。
梁瀬の実家は、西区で術師を育てる道場を営んでいる。
両親共になかなかの使い手と言われ、まだロマジェリカに暮らしていた幼いころから、梁瀬は厳しく鍛えられてきた。
親としてはもちろん、術師としても人間的にも尊敬している存在ではあるけれど……。
「はぁ……」
自宅に近づくほどに、足枷をはめたように梁瀬の足は重くなる。
もう十年以上前、まだ蓮華になりたてのころ、まったく乗り気じゃなかったのに、両親の熱心かつ強引な勧めでうっかり結婚してしまった。
乗り気じゃなかったうえに、相手の女性が色々な意味でひどく強い人で、どうにも一緒にいることができなくて、梁瀬はわずか一年半で泣いて拝んで離婚した。
思い出すだけで胃が痛くなる。
――以来、どうも両親とはうまくない。
顔を合わせれば誰かいい相手はいないのか、早く結婚しなさいだの、孫の顔が見たいだの、あれやこれやと急かしてくるうえに油断してると即お見合いだ。
まるで結婚が人生の最重要課題であるかのような勢いで、梁瀬は正直うんざりしていた。
両親曰く、男たるもの家庭を持ってこそ一人前、だと言うけれど、どうも梁瀬には向かない気がするし、なによりそう思える相手に出会わない。
一度の失敗が、どうしても心に重くのしかかっている。
歳を重ねるにつれ面倒になってきて、自然と足が遠のいてから、もう数年がたっている。
今では年に一度、帰ってくればいいほうだろう。
さすがに少し熱は冷めたようだけれど、前もって帰ることを伝えると、なんの準備をされてるかわからないから、今日はいきなり帰ってきた。
抜き打ち訪問なら、せめてお見合いの準備くらいは避けられるはずだ。
ため息まじりに、まずは道場のほうへ顔を出した。
地区別演習のせいで子どもの数は少なく、師範もほとんどが出払っていて、梁瀬は少し拍子抜けした。
いつもなら活気に満ちた道場が、今日はどこか寂しげに見える。
「まぁ、これは珍しいこと。あなたのほうから顔を出すなんて」
「突然にすみません」
小さな子どもたちを指導していた母親に声をかけられ、中へ入ると礼をした。
母の声は相変わらず凛としていて、梁瀬は背筋が自然と伸びる。
「今日は父さんは東区へ?」
「ええ、今年は私が留守をあずかることになったのよ」
「そう……ですか……少しばかり二人に尋ねたいことがあったんですけど」
「もうそろそろ豊穣の儀のはずなのに、なにか迷ってるのですか?」
母は表で指導中の師範のところへ向かった。とりあえず、母の意見だけでも聞ければと思い、梁瀬は奥の部屋で待つことにした。
久しぶりに実家の空気を吸いながら、梁瀬は自分の中でどう説明すればいいか考えをまとめていた。
数分後、部屋へやってきた母は、お茶を手にしている。
ほかにはなにも持っていないようだ。お見合い写真の束でも持ってくるのではないかとひそかに心配していたが……。
「最近はなにやら色々と面倒なことがあったようですね」
きっとほかの道場から、話が回ってくるのだろう。
もちろん、麻乃と修治の道場からも。術師の世界は狭い。
「ええ、なにがどうと問われると、明確に答えることができないんですが……どうも腑に落ちないことが多いんです」
「今は父さんは留守にしていますけど、たいていのことなら私でもわかるはずですよ」
目の前に置かれたお茶を手に一口すすると、母はふっと息を漏らした。
梁瀬も湯飲みに口をつけた。久しぶりに飲む実家のお茶は、懐かしい味がした。
「まずなにから話したらいいのか……そうだな……例えば歩けなくなるほどの怪我を、回復術で、それも一晩で治すことは可能なんでしょうか?」
「歩けないほどでしょう? それは無理ですよ。あなたも知ってるでしょう?」
「それでは、暗示にかかりにくい相手に対して、さしたる準備もせずに戦争中、術中に嵌めることは?」
「それも無理です。かかったとしたら、それはなにかしら下準備があったということですよ」
母は半ば呆れ気味に梁瀬を見つめた。
「いまさら、そんなことで迷っているのですか?」
「いや、迷ってるというより、わからなくなって。僕がかけようとした暗示も金縛りも、まったく効かない。けれど、どう聞いても、なんらかの術中に嵌ってるとしか思えない状態の人がいて……」
指先でコツコツと机をたたいたのを、母にたしなめられて指を止めた。
「それぞれの国には、その国独自の術やかけかた、さまざまな違いがあるでしょう?」
「はい」
「あなたは私の血を濃く継いでいるからか、どちらかというとヘイト寄りの術が強いけれど、ロマジェリカの流れもしっかりと汲んでいます。それに、豊穣の儀で庸儀へ行くたびに、庸儀の術も身につけて戻ってますね? そのあなたにかけられない相手なら、相当かかりが悪いはずです」
「そうですね……敵ではない以上、嵌める必要もなかったから、これまで下準備をしたこともない。だからそれが原因になってしまった、ということもないと思うんです」
梁瀬の言葉に、母親は考え込むような表情を見せた。そして、不意に母の視線が窓の外へ向いた。
窓の向こうには真っ青な空が見えるだけで、時折、子どもたちの声と、門弟たちが飛ばした鳥もどきがちらりと見える。まだ術を使いこなせないせいで、式神が完全な鳥の姿をしていないのか。
のどかな光景とは裏腹に、梁瀬の胸中は複雑だった。
「心当たりがないわけでもありません」
「本当ですか!」
突然の母の言葉に、梁瀬はつい身を乗り出す。
「三人ほど、強力な回復術を扱い、さまざまな術に長けた方を知っています」
「三人も? それは大陸の人間ですよね?」
泉翔でそれだけの使い手がいれば、梁瀬の耳に届いているはずだ。まったく聞いたことがないということは、大陸の人間でしかありえない。
「そう、大陸には賢者と呼ばれる者が三人います。彼らであれば、大きな怪我も一晩どころかものの数分で治してしまうでしょう。術に嵌めることも然りです」
「そんなに……それほどの力があるなら、この国へ侵入することもきっと簡単にできますよね? 一体どこの……」
「けれど、それも無理です」
「無理? なぜ、無理なんですか?」
「三人のうち、二人は既に亡くなっています」
遠い昔を見るように細めていた目を閉じ、母は静かにそう言った。
その口調には、深い悲しみが込められているように感じられた。
「そして、あとの一人は大切なものを守るため、世を捨て、隠遁しています」
「八方ふさがりか……」
梁瀬は机の上で、頭を抱えてうなった。
ここへくれば大陸へ渡る前に、なんらかの情報が掴めるかもしれないと思ったけれど、やはり無理なものは無理でしかなく、梁瀬の耳に入ってくるのと同じで特別な使い手がいるわけでもないらしい。
ふと、西浜のロマジェリカ戦を思い出した。
「そう言えば、大陸には傀儡か暗示か、あるいは洗脳か、そんな術に長けた者がいるんでしょうか?」
「ええ、それが亡くなった賢者の一人ですよ。そのあとは、特別に抜きん出た者はいないようですけれど」
「数百、いや、もしかすると数千まで動かせるような……」
梁瀬の言葉に、母親の表情が急変した。
おもむろに母は机をビシッとたたいた。
「あなたはさっきから、なにを世迷言ばかり並べているのですか!」
「そう怒らないでくださいよ……僕にだってありえないことぐらいはわかっています。わかっているんですけど、これはすべて本当にあったことなんですから」
とりあえず、怒りを静めてもらうために、梁瀬は西浜のロマジェリカ戦で起きたことから話した。
麻乃のことも、大よその事情は聞いているだろうと思い、怪我のこと、精神状態の不安定さ、庸儀戦でのことまで包み隠さずに話した。
険しかった表情が徐々に緩み、信用しているかどうかはともかく、母の怒りはおさまったようで、梁瀬は心底ほっとした。
「僕らは今年、それぞれが慣れない土地に向かうことになりました。不穏な要素はできるだけ少なくしたい。けれど、なにもかもが中途半端なままで手の出しようがないんですよ」
「困りましたね……父さんの留守中に話していいものか……少しお待ちなさい」
母は立ちあがり、部屋を出ていってしまった。




