第76話 地区別演習場
麻乃が出かけたのを見計らって、道場のことを同じ師範の森に頼み、市原は東区に向かって車を走らせた。
島の真逆で遠い分、スピードをかなり上げて走る。ハンドルを握りながら、昨夜の麻乃のことを思い返していた。あれほど弱音を吐くのを見たのは、初めてかもしれない。
地区別演習が始まっているせいで、東区に入るまではすんなりと通過し、時間も思ったほどかからずに済んだ。
二つある演習場はどちらも参加者と観戦者でごった返し、その中から高田を探し出すことを考えると、早くも気が萎える。人混みは苦手だ。市原は小さくため息をついた。
「市原! こっちだ!」
塚本の呼ぶ声に視線を巡らせると、演習場の手前に設けられた大会本部の脇に、高田たちの姿が確認できた。
人混みを掻き分けてどうにかたどり着き、市原は高田の横に立った。
どうやらもう、演習は始まっているようで、子どもたちの姿はどこにもなく、高田は演習場の入口に目を向けたままでいる。その横顔は、道場で見るそれよりも、どこか柔らかかった。
「麻乃め、なにを言ったのか知らんが、耕太たちがやけに張り切っていたぞ。今年はいいところまで行くかもしれん。やはりあれを道場に通わせたのは、よかったようだ」
高田の言葉に塚本もうなずき、耳打ちしてきた。
「やつら、毎年ソワソワして落ち着かないのが、今年はどっしり構えてやがるよ」
「それじゃあ、実力が出し切れるってことか?」
市原が問うと、塚本はまたうなずいた。
「ところでどうした? なにかあったのか?」
なにをしに来たのかを思い出し、慌てて高田に報告をした。
「あぁ、そうだ。先生、やはり麻乃は今年の豊穣の儀は、修治と一緒じゃありませんでした。長田くんとロマジェリカに出るということです。初めて行く土地らしく落ち着かない様子で、昨夜は麻乃にしてはずいぶんと吐き出しました」
黙って聞いていた高田の肩が、ピクリと揺れた。
「道場の方は麻乃の隊員もいる分、手は足りるので、豊穣の準備に力を入れさせようと思うのですが……」
「そうだな、そうしてやってくれ」
そう言って振り返った高田の視線が、市原を通り過ぎて背後に移る。
「これは……今日はなぜこんなところへ?」
背後でこんにちは、と挨拶をする声が聞こえて振り返ると、先日、道場へ訪ねてきた蓮華の中村が立っていた。演習場にこんなところで出会うとは思わなかった。市原は軽く会釈をする。
「今日は娘が演武の方に出ているんです。ちょうど休みに当たっていましたので見学に来たのですが、お姿が見えたものですから」
「ほう、そんなに大きなお子さんがいらっしゃったんですか」
「ええ、まぁ……ところで先日の件はいかがでしたか?」
中村は一瞬、照れたような表情をしてから、高田に問いかけた。
「実は昨日、娘が具合を悪くしまして。少々、手順が違ってしまいましたが、驚くほどうまくいったようです」
「そうですか。それはよかった……」
「それにしても、ただ話をさせるだけなら、いくらでも方法はあったはずですが、なぜあのやり方で?」
どうやら演武が始まったようで、演習場の手前にある広場から、わっと歓声が響いてきた。市原も思わずそちらに視線を向ける。
中村はそちらを振り返ると、腕を組んで目を細めている。
「あの二人は最近特に、変に感情が昂ぶるので、まずは落ち着ける環境を作ればいいと思ったんです」
「落ち着ける環境、ですか? 食事の支度を一緒にさせることが?」
高田が不思議そうな視線で見つめているのを、中村はくすりと笑って受け止めた。
高田宛に届いた手紙には、長田を道場へ寄越すので、麻乃と一緒にいられる時間を作ってやってほしいとあった。
その際に昼なり夜なり食事の準備を一緒にさせてやってほしい。
できるなら娘さんを間に挟んでもらえれば、感情的にならずに済むと思う、と。
なぜ、そこで食事の支度なのか疑問に思ったけれど、麻乃の話では、彼は料理が好きな上、得意らしい。
多香子には申し訳ないけれど、確かにいつもより食が進んだ。市原も、あの時の長田の手際の良さを思い出していた。
「長田には自分の好きな料理をさせることで鎮めさせ、麻乃には苦手な料理を手伝わせることで緊張感を与えれば、どちらも気を削がれる分、冷静に話ができるんじゃないかと」
「なるほど……話をするだけでは、他愛もない言葉や小さなきっかけで、カッとなったかもしれない。麻乃の方は特にそうなる可能性が高かった」
「ええ、それに、あの二人は感情を増幅し合うところがあるみたいなので、第三者のお嬢さんに間に入っていただければ、カッとしてもそう激しくは憤らないんじゃないか、そう思ったんです」
広場の方を気にかけて首を伸ばしながら、中村はそう言った。
高田もそちらに目を向けたので、つい市原も広場を振り返ってしまう。
「結局、第三者は入らなかったけれど、あの時は、それでよかったのかもしれないな」
「ああ。雰囲気がまったく違って、別人のように大人しくなったからな」
塚本がぼそっと小声で言ったのに答えると、それが聞こえたのか、中村はこちらに視線を戻して微笑した。
「今度の豊穣祭では行き先も組み合わせも、毎年のそれとは違ったものですから、うまくいってよかったと思います。本当にありがとうございました」
「お礼を言わなければならないのはこちらの方ですよ」
深々と頭を下げた中村を、高田が手で制すると、真面目な表情で見つめ返して言葉を続けた。
「いえ。あのまま、いがみ合って大陸へ渡られては、無事に戻ってくることができない可能性が高まります。手をお借りできなければ、和解もなかったかもしれませんから」
「……豊穣の儀では、あなたも初めての国へ?」
「はい。今回はほとんどの者が、初めての国へ向かいます。おかげで情報収集が大変です」
苦笑してみせる割に、麻乃とは違って焦りをまるで感じない。
それだけ十分な情報収集をしているからなのか、これまでの経験があるからなのかはわからないけれど、どうやら相当に肝の据わった女性のようだ。
母親でありながら、蓮華としてやっていること自体、大変だろうはずなのに、それを微塵にも出さないのも凄いことだと、市原は思う。
高田もそれを感じているのか、中村に対して好意的に見える。
「そういえば、大陸には『若草色の鳥が幸運を運んでくる』という言い伝えがあるのをご存じですか?」
不意に高田は中村に、そう問いかけた。
視線は相変わらず演習場に向いている。
後ろからでは表情は見えないけれど、肩のあたりが少し固くなっているのがわかった。
若草色の鳥……。
そういえば先日、道場の窓でそんな色の鳥が囀っていなかっただろうか? 市原は記憶を辿ろうとしたが、はっきりとは思い出せなかった。
「いえ、これまで一度も見たことはありませんし、話を聞いたこともありませんが……」
怪訝な表情で首をかしげた中村はそう答えた。
「では、心に留めておかれるといいでしょう。些細なことですが、なにかあった時に役立つかもしれませんから」
「わかりました。ありがとうございます。では、今日はこれで失礼します」
中村はもう一度頭を下げてお礼を言うと、広場の方へ戻っていき、人混みに紛れて見えなくなった。市原は、人混みに消えていく中村の後ろ姿をしばらく目で追った。
「市原」
ぼんやりとやり取りを聞いていたところを急に呼ばれ、はっとして慌てて返事をする。
「はい」
「手間をかけさせるが、麻乃が十分な準備をできるよう、体を空けてやってくれないか?」
「はい。わかりました」
「あれのことだ、四の五の言ってごねるかもしれないが、隊の者たちもいることを匂わせて、適度に流して追いやってほしい」
そのとき、演習の終了を知らせる大太鼓の音が響き渡った。
腕時計に目をやり、満足そうにうなずいている塚本の様子から、西区の圧勝なんだろうということがわかった。市原も時計を確認すると、予定よりも早く終わったようだ。




