第75話 不安の影
遅く寝たにも関わらず、市原は早い時間に目を覚ましたようで、麻乃は無理やりに叩き起こされた。
多香子も、もう起きていて、用意されていた朝食を温めている。
まだ気分が良くないらしく、市原に促されて部屋に戻っていった。
寝ぼけた頭で食事を平らげた頃、詰所から隊員たちがやって来た。
トラックから食材を降ろすと、調理場へ運び込み、市原の指示で収納する。
麻乃も手を貸して荷降ろしをした。
さすがに一部隊が全員揃うと、その上背のせいもあり、壮観だ。
道場の敷地が妙に狭く感じる。
眠気をこらえながら三日間の予定を指示すると、それぞれが割り振られた場所へ移っていった。
徐々に集まり始めた十三歳以下の子どもたちは、見慣れない大人の集団に戸惑いの表情を見せている。
市原が説明をしてくれ、全員が戦士だとわかると途端に子どもたちは高揚し、にぎやかな中、早々に稽古が始まった。
「市原先生、それじゃあすみませんけど、ちょっと詰所に行ってきます。とりあえず、昼頃には戻ってきますので」
「これだけ人手があるんだ、慌てずに用を済ませてくるといい」
「ありがとうございます。じゃあ小坂、杉山、後を頼むよ」
頭を下げ、馬屋から自分の馬を引いてくると、詰所へ向かった。
今日は岱胡から地理情報を聞くつもりだった。ロマジェリカについての詳しい話を聞いておかなければ、実際に現地に向かったときに困ることになる。
まずは自分の部屋に行き、散らかった資料の中から大陸各国の地図を出す。
使い込まれたヘイトの地図以外は、ジャセンベルに少し書き込みがある程度で、きれいに残っていた。
広げてめくりながら抜けたページで手を止めた。
以前はここに、泉翔の地図が挟んであった。
リュが諜報だったことを知った後、地図がなくなっていることに気づき、取り返して燃やしてしまった。
それからは持つことをやめた。
持たずとも、泉翔の地理は頭にたたき込まれている。
言いようのないもやもやとした思いが胸に広がる。あの時の記憶が蘇り、麻乃は地図から目を離した。
地図を束ねると、気持ちを切り替えるように部屋を出た。
「おはよう。岱胡、いる?」
談話室のドアを開けると、中にいた岱胡の部隊の隊員たちに声をかけた。
「おはようございます。隊長なら、まだ宿舎の方にいます」
「そう。わかった。ありがとうね」
「……もしかして呼びに行きますか?」
出ていこうとした麻乃は、古株の福島に呼び止められた。
「そりゃあ、用があるから来てるんだからね。呼んでこなきゃ話にならないでしょ?」
「あ~……っと、それじゃあ俺が呼んできますから、ここで待っててください。おい、誰かコーヒー、濃い目で淹れてきて」
全速力かと思う勢いで福島が出ていったのを見送りながら、仕方なく勧められた椅子に腰を下ろし、出されたコーヒーに口をつけた。
岱胡の部隊とは、持ち回りでも滅多に一緒になることがないから、知った顔も少ない。
古株の中に何人か、よく話す隊員がいる程度だ。
変に緊張した雰囲気に麻乃はなんとなく落ち着かず、誰か隊員を連れてくれば良かったと後悔した。常任になってからまだ日が浅く、他の部隊とはどうにもぎこちない。
数十分待ってようやく現れた岱胡は、いかにも寝起きと言わんばかりの格好で、ジーンズはベルトが通されただけで締めておらず、シャツのボタンはかけ違えてはだけている。
おまけに首筋に薄赤い唇痕だ。
なるほど、呼びに行くのを止められたわけだ。
福島を見ると、苦笑いを浮かべている。
「どうしたんスか? こんな朝早く……」
「早くないでしょ、もう七時を回ってるんだからさ。全く、だらしない格好だね」
かけ違えのボタンをちゃんと留めて直してやると、わざとベルトをぎゅっと締め付けてやった。
「地理情報をちょっと聞きたくてね。ここじゃなんだから、会議室の方に行こうか」
丸めた地図の束で、岱胡の頭をぽかぽか叩いて追いやりながら、談話室から会議室へ移った。
「そういえば、梁瀬さんも同じことを聞きたいって言ってましたよ。今夜か明日にでも、こっちに来たいって連絡があったんスよね」
「ん……そうか、梁瀬さんはヘイトだっけ」
「穂高さんとは、もう情報交換を済ませたから、って言ってましたけど」
「鴇汰も今夜か明日にこっちへ来るってさ」
「マジですか? 俺も修治さんだけに任せるわけにはいかないから、情報、欲しかったところなんスよ」
丸めた地図を広げると、まずはロマジェリカを一番上に乗せた。
「なにしろ馴染みがない国だからね。せめてルートくらいは頭の中にしっかりたたき込まないと、きっとキツイよねぇ」
「だいたい、まず自分がどこに降り立つのか、そこからわからないッスからね」
「そう思うとさ、この組み合わせ……本当に大丈夫なのかな、って不安になるよ」
額を突き合わせて地図を見ていた岱胡が、麻乃を見た。
「みんな、そう思ってますよ。持ち回りの件にしても、近頃はなんだかやけに大胆な組み合わせですしね」
「やっぱりそう思う? あたしがここの常任になった影響なのかな……」
そう言いながらも、この前の庸儀戦でのことが、まだ胸の底に沈んでいた。
「それは関係ないっしょ。あ、ここがロマジェリカの上陸ポイントですよ」
あっさりと否定する岱胡の表情をじっと見た。
まるで他意のない顔をしているところを見ると、本当にそう思っているらしい。
のらりくらりとしながらも、あくまで自分のペースで考えて動く奴がそう言ってくれると救われる気がした。
「奉納の場所は比較的、城から近い場所にあるんですけど、この付近は高低差があるから見つかりにくいんですよ」
岱胡が地図をなぞって指したところを見ると、確かに奉納場所から城まではそう離れていない。
「高低差があるってことは、山の中腹とかにあるんだ?」
「ええ。とは言ってもうちの山と同じに考えちゃダメッスよ。なにしろ、木々のほとんどが立ち枯れていますから」
「ってことは、茂みに身を隠したりするのは……?」
「まず無理ですね」
山の木々が立ち枯れているといっても、どの程度なのか、麻乃には想像もつかない。
ヘイトでは、奉納場所に着くまで比較的、緑が多かった。
毎年奉納をしているにも関わらず、周辺にさえも緑が増えないのは、よほど土地が荒れているのだろうか。それとも、この国特有の何か別の理由があるのだろうか。
「それより、梁瀬さんも鴇汰さんも来るんなら、そのときに話せばいいんじゃないッスか?」
「うん、そうなんだけどさ、姉さんの具合が悪いみたいで、今夜もこっちに戻れるかわからないんだよ。だから時間が惜しい」
「あぁ、それじゃ仕方ないッスよね」
岱胡と二人、地図を合わせながら、これまで使っていたというルートを書き込み、周辺の情報を得た。
今夜、詰所に戻れなくても、これがあれば道場でイメージが固めやすくなる。
「ルートはいくつかあるんですけど、俺たちはいつもここ……それかこっち、二つのどちらかを使います」
「ふうん……なにか理由があるの?」
「枯れてるといっても、やっぱりなにもないよりは、木立があった方が目立ちにくいッスからね」
地図に赤ペンでルートを引いた後、木々の多いところと川に印をつけた。
川に沿うように、奉納場所へ近づくにつれ木々の印が増えていくところを見ると、雰囲気としては西区の大演習場に似た感じだろう。
「身を隠せないってことは、こっちも丸見えだけど、向こうも近づいてくればすぐにわかるよね」
「そうですね。一度だけ遭遇したことがあるんッスけど、ここら辺だったかな……」
「遭遇って、一般の人じゃなくて?」
「敵兵ッスよ。奉納が済んだ帰りでした。それでこの川、水量があるんで、崖から飛び込んで逃げてきたんッス」
岱胡はまるで当たり前のことのように、淡々と説明してくれた。
その国の兵士と遭遇することなんて、皆無に近いのに、そんな状況に陥っても平然としているのがおかしい。
「それって凄く大変なことじゃん。逃げられなかったりしたらどうするつもりだったのよ?」
「そりゃあ、そのときは戦うしかないでしょうけど……まぁ、ここは川沿いにいる限りは、飛び込めば逃げられるんで大丈夫ッスよ」
争いを仕掛けに行くわけじゃなく、奉納が目的なだけに、万一にもその国の兵士と出くわしたときには逃げることが優先になっている。
岱胡の言うように、川沿いであれば比較的楽に逃げることが可能だろう。
はぐれてしまったときに落ち合う場所も考えなければいけないということか。
(ただ――)
この国は城が近い。
気づかれて襲撃をされる可能性が高そうだ。
慣れている穂高や岱胡なら、うまく動いてかわせるのだろうけれど、麻乃と鴇汰はどうだろうか。
それに……見つかってしまったときに、麻乃自身の状態が良くなかったら……?
逃げることを優先としないで、簡単に抜いてしまうかもしれない。
あるいは、この間の庸儀戦のときと同じようなことが起こるかもしれない。
(あたし次第で、鴇汰をも危険に晒すことになるかも知れないんだ)
今度ばかりは修治が一緒じゃないことに、麻乃は不安と恐怖を感じた。
地図を見つめながら、麻乃は自分の手が微かに震えているのに気がついた。




