第70話 手伝いと心の距離
「は……? まさかこれ全部?」
「一箱な、もう一箱はパプリカが入ってるから、玉ねぎの皮を剥き終わったら、パプリカを半分に切ってヘタとワタを取っといてくれよ」
「う……うん。わかった」
袖をまくり、早々に取りかかった。
箱を開けると思ったよりたくさん入っていてげんなりしたけれど、できるだけ早く済ませようと、黙々と剥いた。
鴇汰の方は、手際よく動いている。
そういえば、鴇汰が作ってくれた料理を食べたことはあっても、実際に作っているのを最初から見るのは初めてだ。
ぺりぺりと皮をはがしながら背中を眺めていると、不意に鴇汰が振り返り、目が合った。
「なんだよ?」
「いや……それより鴇汰、なんでここにいたのさ」
そう問われると、ただ見ていただけとは気恥ずかしくて言えず、麻乃はつい、 麻乃はつい、口調を尖らせて横柄な言い方をしてしまった。心の中で舌打ちしながら、麻乃は鴇汰の返事を待った。
「昨日さ、ここの高田さんに手紙を届けてくれって、巧に頼まれたんだよ」
そう言ってまた、鴇汰は麻乃に背を向け、調理の続きを始めた。麻乃は鴇汰の手つきを静かに観察した。慣れた様子で野菜を刻む手際の良さに、目を向けたままでいた。
「ふうん……普通に出すんじゃ駄目だったんだ?」
「なんかな、急ぎで返事が必要なんだってよ。自分で行けって言ったんだけど、今日から北詰所だし、昨日は子どもたちと約束があるって言うし、そういうの、邪魔するわけにはいかねーだろ?」
「そりゃ、そうだろうけどさ。それなら、あたしに言ってくれればよかったのに」
余計な一言をもらしてしまう。
「だって麻乃、すぐ帰っちまったじゃんか。だから巧も、休みの俺に言いにきたんだろ」
「しょうがないじゃん、急いでたんだから。それにあのとき、あんたたちみんな黙り込んじゃってさ」
「あれは梁瀬さんが――!」
そう声を上げて振り返った鴇汰の顔は、むっとしている。
麻乃と目が合うと、鴇汰はすぐに逸らしてため息を漏らした。
「……まあいいや。俺、別に麻乃と言い争いするために、ここに来たわけじゃねーし」
鴇汰は黙ってしまい、また背中を向け、大鍋を火にかけている。
沈黙が続く中、なにかを炒めている音と、玉ねぎの皮を剥く音だけが、調理場に響いた。麻乃は手を動かし続けた。
数十分経ち、ようやく全部剥き終わった玉ねぎを調理台の端に寄せ、次にパプリカに取りかかる。
「これってさ、いつもあの人が一人でやってんだろ?」
鴇汰が背を向けたまま、問いかけてきた。
険悪な雰囲気にならなかったことにほっとする。
「多香子姉さん? そうなんだよね。こうやってみるまでわからなかったけど、大変な作業だよね」
「だよな。いくら好きでも、この量を毎日はきついと思うぜ」
香辛料の香りが広がって食欲がわいてくる。
「お昼はカレー?」
「そう」
「あ、じゃあ玉ねぎ……」
「それは夜の分」
ということは、カレーに使う分はもう既に用意されていたのか。そう思うと、やっぱり多香子はすごい。
パプリカを半分に切ってヘタとワタを取り除いた。黄色と赤が鮮やかで見ていてほんの少しだけ、気分が良くなる。
「これ」
鴇汰が麻乃の目の前に、小さな御膳を出してきた。
「お姉さんに。麻乃にとって大事な人なんだろ? もし食べられるようならどうぞ、って持っていってやれよ」
「なに? これ」
「ちょっとしたスープだよ。飯が無理でも、それなら絶対いけるから。具合が悪くても、少しはなにか腹に入れといた方がいいだろうしな」
麻乃は小さく微笑んだ。
素直に御膳を受け取り、多香子の部屋に向かった。
「多香子姉さん、入るね」
布団に横になっていた多香子が体を起こした。
「ご飯、食べられそう?」
「あまり食欲がないのよ。でも、だいぶ楽になったわ」
「本当? 無理しないでね」
そう言って、小さな机を引き寄せると、御膳を置いた。
「これ、鴇……長田が、食べられるようならどうぞ、って」
「あら、ありがとう……じゃあ、少しだけいただこうかしら」
布団の脇まで机を近づけると、多香子は正座をして机に向かい、スプーンを手にした。
一口、二口と口へ運ぶと、何度かうなずいている。
「前にいただいたお弁当とオレンジケーキ、あれ、長田くんから?」
「うん」
「彼、すごいのねぇ」
そうつぶやくとくすりと笑った。
「ねぇ、なんでわかったの?」
「とてもおいしかった、って伝えてくれる?」
「……うん」
麻乃の問いかけには答えてくれず、伝言だけ頼まれた。多香子はなにか知っているのだろうか。
「じゃあ、あたし戻るけど、ちゃんと休んでいてよね」
多香子の部屋をあとにして調理場へ戻ると、廊下までスパイスの香りが充満していて、お腹が鳴った。
調理場の中に入ると、あれだけ剥いた玉ねぎが一個もなくなっている。
そう長く席を外していたつもりはなかったけれど、きっと使ったんだろうと思うと、その速さに唖然とした。
「あのね、おいしかったって」
下げてきた御膳を流しに置くと振り返った鴇汰がすぐに洗いにきた。
「最近、手に入れた新しいレシピで、俺、結構気に入ってるやつだからな」
鴇汰は得意気な表情を麻乃に見せる。
麻乃はずっと黙ったまま、淡々と野菜の皮を剥いたり、大まかに切ったりしていた。
しばらく経ったころ、また、鴇汰が問いかけてきた。
「ここ、飯ってどこで食うの?」
「ああ……稽古場の隣の部屋が食堂になってるんだ。食器もそっちにあるし、カレーとか汁物は鍋ごと向こうに置けるし、ご飯はそこにあるおひつに移してテーブルごとに置く感じかな。一品のおかずなんかは、そっちのバット類を使ってるよ」
「ふうん、そんならそこの準備してくれよ。飯とカレーを運ぶから」
麻乃は返事をして食堂へ行くと急いで長テーブルを並べ、鍋を置く台を組み立てた。
「給仕はどうすんのよ?」
「それも個々でやるから平気だよ」
「そうか。そんじゃ、みんなに知らせてこいよ。できました、って」
鍋を置き、テーブルにおひつを並べ終えると、鴇汰はそう言ってまた調理場へ戻っていった。
まずは高田のもとへ行き、食事の支度ができた旨を伝えると感心した表情を見せた。
「多香子がある程度、準備をしていたとは言え、ずいぶんと早かったじゃないか」
「びっくりですよね」
麻乃は高田の横に座り、そう返事をした。横から塚本が割って入ってくる。
「でもなぁ、お前が手伝っているんだろう? 本当に大丈夫なのか?」
「味付けとか、調理に関わることはしてないから大丈夫ですよ」
「そうか、だったら平気だな」
憮然として答えると、塚本は本気でほっとしていた。
表で稽古をしていた子どもたちも食堂へ集まり、中はとても賑やかだ。
全員が席に着き、食べ始めると、あちこちからおいしいと声が上がり、さらに賑やかになる。
なんとなく嬉しくなって周囲を見回すと、鴇汰がいない。
目の前の市原も、彼はどうした?
などと麻乃に聞いてくる。
焦って掻き込むように食事を済ませ、食器を片付けると調理場に向かった。
中は綺麗に片付いていて使われた調理器具も、全部洗ってあった。
(まだ、そんなに時間も経っていないのに、手際がいいにもほどがある……)
鴇汰の姿が見えず、麻乃は勝手口から裏へ出てみた。
停められた車のボンネットに手をついて、こちらに背を向けている鴇汰が目に入った。
その向こう側に若草色の影が見え、麻乃ははっと足を止めた。
(あの人だ――)
銀髪の女性が立っていて、鴇汰と何か話をしている。
気づかれてはいけないと思い、そっと調理場へ戻ろうとしたとき、女性の視線が麻乃に向き小さくお辞儀をした。
それに気づいた鴇汰もこちらを振り返り、驚いた表情を見せた。
(身の置き場がないって、こんな状況のことをいうんだろうか……)
「おまえ……向こうで飯食ってたんじゃねーの?」
「ん……そっちの姿が見えないからどうしたかと思って……邪魔するつもりじゃなかったんだ。ごめん。戻るよ」
急いで勝手口へ逃げ込もうとした麻乃の手首が、細い指につかまれた。
「いつも甥がお世話になっているようで」
「……え?」
背中越しに野太い声が聞こえてきて、思わず立ち止まって振り返る。
目の前にあるのは、切れ長の目が美しい鼻筋の通った綺麗な顔だ。
「きっと、ご面倒ばかりおかけしていることと思いますが、どうぞ仲良くしてやってください」
薄いピンクの唇が動くたび、その外見からは想像もできないほどの低い声が響き、麻乃は目を見張った。
つかまれたままの手首からは、温かみもなにも感じない。人の手ではない、という直感が麻乃の背筋を走った。
「それ、前に言ったうちの叔父貴」
「は……?」
鴇汰の言っている意味がわからず、麻乃は目の前の女性と鴇汰を交互に見た。
「そいつ、式神だから。叔父貴、もういいだろ? さっさと帰れよ。とにかく今年はロマジェリカだから」
鴇汰が払うように手を振ると、女性は苦笑した。
「まったく、君は最近、冷たすぎるよ。じゃあ、また向こうで」
ぽんと弾ける音とともに女性の姿が掻き消え、代わりに若草色の鳥がさえずりながら羽ばたいていった。
麻乃は呆然と立ち尽くしていた。




