第65話 心を開く時
翌日の午後――。
とりあえず道場の裏口まで来たものの、麻乃は躊躇して足を踏み出せないでいた。
外も中も今はまだ稽古中で、子どもたちのにぎやかな声が響いている。竹刀の打ち合う音や、師範の指導する声も混じって、いつもと変わらぬ道場の日常がそこにあった。どうしても扉が開けられずうろうろしていると、あっさりと塚本に見つかってしまった。
「来たか。不肖の弟子が」
「お久しぶりです。先生は……出かけてたりは……?」
希望的観測にすがるような麻乃の問いに、塚本が首を横に振る。
「しませんよね、やっぱり……」
がっくりと落とした麻乃の肩を、市原が軽く叩いた。
「さっさと呼び出しに応じていれば良かったのに、馬鹿なやつだ」
「まぁ、あれだ、立ち合って数十発ほど打たれて終わりだろうさ」
二人とも意地の悪いことを言って、麻乃を脅かしてくる。
ないとは言い切れない辺りが、また怖い。頬をぱんぱんと叩くと、意を決して中へ入った。
調理場で多香子が夕飯の支度をしているのか、水音や包丁の音が聞こえてくる。
そのまま通り過ぎ、麻乃は高田の部屋の前で膝をついた。
ここでも躊躇してしまい、両手で顔を覆ったり、膝頭で手のひらの汗を拭ったり、襖に手をかけようとしたりしながらモジモジしていた。心臓の音が自分でもはっきりと聞こえるほど激しく鼓動している。
「いい加減、入ってこんか」
部屋の中から痺れを切らした低い声が聞こえ、麻乃の体がびくっと震えた。
「……失礼します」
気の重さに比例しているかのように、襖も重く感じる。高田は部屋の奥で文机に向かっていて、こちらに背を見せたまま、少し待て、と言った。
机の前に正座をするとうつむいたまま高田を待つ。高田の存在感は背を向けていてもずっしりと重く、部屋の空気そのものが張り詰めているように感じられる。
数分して高田が立ち上がり、机を挟んで向かい側に座ったのを感じた。足音だけで、その重々しい雰囲気が伝わってくる。
「昼飯はちゃんと食べたのか?」
「……はい」
意外にも日常的な問いかけに、麻乃は少しだけほっとした。
「夕飯はどうするのだ?」
「詰所で隊員たちが支度をしています」
高田が鼻でふっと息を漏らした。
いよいよ来る、そう思うと麻乃の体はますます委縮してしまう。肩に力が入り、握った拳にも汗がにじんできた。
「先だっての柳堀の件だが」
「……はい」
やっぱりそれか、と麻乃は覚悟を決めた。
「最初に呼び出したとき、きちんと自分で説明をしに来るだろうと、私は思っていたぞ」
返事ができず、畳を見つめたまま膝の上でこぶしをぎゅっと握った。
「詳細はクマからも松恵からも聞いた。厳しく言うつもりは端からないが、二つほど言っておきたいことがある」
口調は静かだけれど、高田はきっと怒っているだろう。そう思いながら、麻乃は身を縮こまらせた。
確かにちゃんと説明に来るべきだった。
「まず一つは、街中で、しかも一般人を相手に簡単に抜刀するな。私はおまえをそんなふうに育ててきた覚えはない」
「……はい」
「そしてもう一つ。――私を含め、周りのものをもっと信用しろ」
はっと顔を上げた。
これまで麻乃の見たことがない、寂しそうな表情の高田と視線が合った。
「信用していないなんて、そんなことは……」
「おまえに言いたくないことや、言えないことがあるのはわかる。無理に話す必要もないが、誰もが心配しているのはわかるだろう? それを重いと思うか?」
「時々は……」
高田から視線を外して、麻乃はまたうつむいた。
「言いたくないなら、はっきりそう言えばいい。そんなこともできない間柄でもないだろう」
比佐子にも同じようなことを言われたのを思い出す。みんな、同じことを考えているのかもしれない。
「いずれ誰かに話したいと思うことや、探せなかった言葉が不意に見つかることもあるだろう。手当たり次第に噛みついて回って、相手を遠ざけるのは私はどうかと思うがな」
どきりと胸が鳴る。
「時々、自分の感情がコントロールできないんです。ほんの些細なことなのにカッとなったり、気づいたら柄に手をかけていることがあったり……」
机に身を乗り出して、麻乃は高田に訴えた。今まで誰にも言えなかった本音が、ようやく口をついて出てきた。
「あとで凄く後悔するんですけど止められなくて、だから誰にも会いたくないし関わりたくない。あたし……このまま覚醒したら……怖くてたまらないんです」
高田は目を閉じたまま黙って聞いている。
「一人でいれば、誰かを傷つけることもないから、だからあたしは……」
「昨日、岩場での様子を見ていたが、隊のものたちとはうまくやっているようだな」
突然話題が変わって、麻乃は戸惑った。
「あいつらは……みんなとは少し違うんです」
「以前はあのように、蓮華の連中とも関わっていたのじゃないか?」
「カサネさまには、一人になるなと言われました……でも、一人になれって、みんなを……蓮華を信用するな、って!」
思わず口調が荒くなり、身を乗り出していることに気づいた麻乃はあわてて座り直した。感情が抑えられなくなるのは、こういう時だった。
高田が目を見張って麻乃を見てから、眉をひそめた。
「一体、誰がおまえにそんなことを――みんなを信用するな、などと言った? カサネさまがそう仰ったのか?」
「いえ、カサネさまは、あたしに、なるべく一人の時間を持たないようにしなさい、って言いました。背中をさすってくれて、とても暖かくて……」
麻乃は口もとを手で覆うと、誰に言われたのかを考えた。
カサネでなかったことは確かだ。
霧の向こう側に姿があるように、ぼんやりと輪郭だけしか思い浮かばない。記憶の奥で、確かに誰かの声が響いているのに、その正体がつかめない。
どうにか思い出そうと記憶をたどってみても、眉間の奥が痺れて集中できずに、なにも思い出せない。頭の中に霞がかかったようで、もどかしくてたまらなかった。
確かに誰かがこの手を取って、蓮華のものたちを信用するなと、そう言ったのに。
「市原が、おまえが誰かの声を聞いたようだと言っていたが、それか?」
「それとは違います。でも、思い出せないんです」
麻乃の混乱が、高田にも伝わったのだろう。
「そうか……自分の感情を持てあましたうえに、そんな言葉を聞かされて、おまえは蓮華の連中から遠ざかろうと思ったのか? 修治からさえも」
突然、修治の名前が出て、麻乃はどきりとした。
「それもあります。でも、修治のことはそれだけじゃなくて、頼ってばかりじゃなく、いい加減、独り立ちをしたかったんです。それだけです……」
本当にそれだけなのか、自分でも分からなかった。
「そんなに焦ってなにもかも手放してどうする。だから感情が偏って整理がつかなくなるのではないか? 独り立ちをしようと思うのはいいことだと思うぞ。だが、結果、今の状態になるようではどうしようもないだろう」
「でも……」
高田が腕組をして、大きく息をついた。
「焦らず、もう一度ゆっくり考えてみるといい」
「……はい」
麻乃の返事にうなずくと、高田は立ち上がって部屋を出ていき、数分後にお茶を手にして戻ってきた。
「おまえを呼んだのは、ほかに頼みもあってな」
「頼み、ですか?」
目の前に出された湯飲みに、麻乃はそっと口をつけた。温かいお茶が、張り詰めていた気持ちを和らげてくれる。
「ああ。近々、東で地区別演習があるのだが、私や塚本は付き添いで数日、道場を空けることになる」
「そうか。もうすぐ洗礼……最後の地区別演習ですね」
時の流れの早さを、麻乃は改めて実感した。
「次の中央での会議が済んだら、三日ほど道場に顔を出してほしいのだよ。今回はほかの道場から出る人数も多くてな。残って指導する師範が足りないのだ。市原一人では大変だろうからな」
「わかりました」
膝を正して高田の頼みを受けると、ようやく高田の顔がほころんだ。
「まだ柳堀の出入り禁止も解けないだろう? どうせなら隊員たちも呼んで、ここで一緒に食事をとればいい」
「でも、それじゃあ、ここにも多香子姉さんにも、迷惑がかかってしまいますから」
麻乃は遠慮がちに言った。これ以上、お世話になるわけにはいかない。
「そのくらいの人数が出かけるのだ。いつもと変わりやしない。残る門弟たちも戦士たちに触れることができるのは、いい経験になるしな」
ありがたい申し出だけれど、負担をかけてしまうと思うと、どうしても麻乃は首を縦に振ることができない。
「たまには隊のものたちも休ませてやれ。昨日も見ていたが、どうせ釣れやしないのだろう?」
高田が豪快に笑いながら竿を振る真似をしたのを見て、岩場で全部見られていたことを思い出し、苦笑いをした。
確かに狩りは楽で、肉類は調達しやすい。
けれど、釣りはどうも全員がうまくなく、魚類の調達はひどく難しい。
川で乱獲するわけにもいかず、仕方なく海へ出ても、そんな日は十分な量が獲れないことばかりだ。
「食事だけはきちんととっていないと、いざというときに困ることになるだろう。ここは素直に聞いておけ。その代わり、多香子の買い出しが減るように、中央の帰りに花丘で野菜類をたっぷり買ってきてやってくれないか」
「そういうことでしたら、ありがたく受けさせていただきます」
気持ちが軽くなった気がして、自然と笑みがこぼれた。




