第42話 交錯する想い
体じゅうの痛みで麻乃は目を覚まし、薬を飲もうと体を起こすと、軽い目眩がした。
まだ熱がさがらないのか、頭がふらつく。
爺ちゃん先生は、熱がさがるまでは絶対に戻ることは許さない、と麻乃に言った。
(こんなんじゃ、いつまでたっても戻れないじゃないか……)
ぱたっとうつぶせると、枕もとに置いた資料に手を乗せ、読み返した。
浜には特に変化はないようだ。
諜報の内容も、あの赤い髪の女に関することは、まだなにもあがってきていない。
資料のはしが涙で濡れて波打っている。
このあいだ、思い切り泣いて、もう当分は泣くことなどないと思っていたのに。
(多香子姉さん……変に思われただろうな。きっと心配させちゃったに違いない)
はき出したいモヤモヤが、胸の中でくすぶっているのに、出どころが見つからないでいた。
「あーっ! もう!!」
枕に顔を押しつけて、一人で叫んでみたとき、ドアが開いた。
「なに雄たけびをあげているんだよ」
入ってきた穂高が目を丸くしている。
「あれ? こんな早くにどうしたの?」
「早くはないだろう? もう九時を回ったよ。ずいぶんと深く眠っていたみたいだね。看護の人が何度か様子を見に来たけど、全然起きないって言っていたよ」
体を起こしたその手に、穂高は小さめの水筒を差し出してきた。
「これ、比佐子から」
「チャコから?」
穂高の妻、比佐子は麻乃の一つ年上で、かつては巧の部隊の所属だった。
麻乃とはやけに気が合い、宿舎では部屋が隣同士だったこともあり、親しくしていた。
「比佐子特製の薬膳スープ。解熱に効くんだよ」
「ふうん……でもあたし、今はあまり食欲がないんだよね」
穂高は椅子に腰をおろして言いにくそうに話し始めた。
「実はね、余計なことだと思ったけどさ、演習、麻乃が抜けた穴埋めに、比佐子を入れてもらったんだよ」
「なにそれ? どういうこと?」
「師範の方の中にも女性がいないし、女手が必要かと思って、修治さんに聞いてみたんだよね。そうしたら麻乃の部隊に女の子がいるって言うだろう?」
「そりゃあ……確かにいるけど……」
「修治さんもちょっと困ってる様子だったし……なにより、麻乃に休む時間ができるかと思ったんだ」
「どうしてそんな……気持ちはありがたいけど、本当に余計なことだよ」
「怒るなよ、とりあえず最後まで聞いて。比佐子にも同じことを言われたんだ。麻乃にとっては余計なことだって。だけど、『すぐに戻るのは無理だろうから参加する』って。それで麻乃には『まずは早く熱を下げて、それから演習場に戻ってきな』って伝えてくれってさ。それで来たんだよ」
少し首をかしげると、麻乃は受け取った水筒を見つめた。
「それでこのスープ? でも、チャコが参加してるなら、あたし居場所がない……」
「俺にはよくわからないんだけど、もう一つ伝言があってね。『昨夜、女の子には引き継ぎを一回、済ませた』って。それから、『熱さえさがれば、戻ってからの怪我のことは比佐子が引き受けるから』ってさ。麻乃には、何のことだかわかるかい?」
「引き継ぎ……? あっ! そうか! うんうん、わかった。そっかぁ、どうして思い出さなかったんだろう」
麻乃はぎゅっと水筒を握りしめた。つい、顔がほころんでしまう。
「そうとなったら、食欲がないとか言っていられないね。これを飲んで、ご飯もちゃんと食べて大人しく寝ることにするよ。チャコには面倒かけるけど、よろしく頼むって伝えてよ」
「わかったよ」
穂高は小さく息をつき、組んだ指先を見つめている。
「それからさ、昨日のことだけど……鴇汰が言ったこと、あまり気にしないでほしいんだ」
勢いよく開けた水筒の蓋が、からからと音を立てて落ち、穂高がそれを拾って手渡してくれた。
「あいつ、最近ちょっと疲れがたまってるせいか、変に苛立つことがあってさ。あれも本気で思って言っているわけじゃないと思うんだよ」
「どうかな? あんなふうにサラッと言ってのけるんだもん、あれが本音なんだよ」
蓋をカップの替わりにして、まだ熱いスープにそっと口をつけた。
「もう何年も普通に話をしていたし、一応、仲良くやってきたつもりで、すっかり忘れてたけどさ、鴇汰はそもそも、あたしのことをよく思ってなかったんだよね」
「それは誤解だって!」
「まぁ、穂高も知ってのとおり、最初の印象を悪くしたのは、あたし自身だったから仕方ないんだけどさ。昔はこっぴどくやられたし。昨日、あらためてそれを思い出したよ」
「二人とも、一度ちゃんと話したほうがいいよ。どっちもなにか誤解してるみたいだから」
「だから、もういいんだってば。目も向けたくないほど嫌われてるとは思いもしなかったけど……まぁ、顔を合わせずに済むようにすればいいことでしょ……それについては、あたしもちゃんと考えて決めたからさ」
「決めた、って……一体なにをだよ?」
問いかけには答えずに、一瞬、外に目を向けてから、麻乃は穂高に視線を戻した。
穂高は困ったような顔をして視線を避けて下を向くと、小さな声で聞いてきた。
「あのさ、怒らずに聞いてほしいんだけど、もしかして、まだ修治さんと……」
「はぁ?」
思わず麻乃は素っ頓狂な声をあげて穂高の顔を見た。
「ありえないよ。そりゃあ、子どものころは単純に修治のお嫁さんになるんだ、なんてことを思っていたし、そういう時期もあったけど、あたしたちのあいだにはもう、兄妹っていうか、家族としての感情しかないよ。それに言っとくけど、修治、嫁さんがいるよ」
「えっ! 嫁さん?」
今度は穂高が驚いた声をあげ、麻乃はあわてて付け加えた。
「あ……いや、ごめん、そうじゃないの。正確に言うと婚約者がいるんだよ。うちの道場のね、先生の娘さんで、あたしの姉さんのような人なんだ」
穂高は放心したように、ぽかんと口を開いたまま動かない。
「穂高はほかの人にあれこれ話すやつじゃないから言うけどさ、修治は今度の豊穣の儀が済んだら、その人と祝言を挙げるんだ」
「祝言って……」
「無事に戻ってきたら、修治が自分でみんなに話すだろうから、それまで黙っていてよね」
「そんな大事なこと、それはもちろん、誰にも話したりはしないけど……そうなんだ、修治さん結婚……そうか、そんな相手が麻乃じゃなくて、ちゃんといたんだ」
椅子の背もたれに寄りかかり、頭の後ろで腕を組んでぼんやり天井を見あげた穂高は、独り言のようにつぶやいている。
「待てよ? それならなおさら、なんの問題もないじゃないか。麻乃、鴇汰の気持ちはちゃんと聞いただろう?」
そう言って麻乃に向き直り、今度はしっかりと目を見つめてきた。
「気持ち……聞いただろ、って……でも、あれはないでしょ? だってありえないでしょ。違う?」
「どうしてありえないの? 俺はあいつとは子どものころからのつき合いだから知ってるけど、嘘や冗談半分でそんなこというやつじゃないよ?」
ムッとして麻乃は穂高を睨み、逆に問いかけた。
「冗談じゃないならなんなの? 嫌がらせだっての? あたしだって馬鹿じゃないよ。あることとないことくらい、区別はつくよ」
「だからさ、どうしてないことが前提なんだい? なにかそう思う理由がある? それで返事もしなかったっていうのか?」
「理由もなにも、それはさ――」
穂高がいつになく真剣に喰らいついてくる。
鴇汰の言葉に嘘がないと頭から信じて疑っていないようだ。
「ねぇ、穂高はもしかして、なにも聞いてないの……?」
眉をひそめて穂高の表情を見た。
「なにも、って一体なにを?」
その表情を見て麻乃は悟った。
穂高はなにも聞いていない。
知らないんだ、と。
「そっか……」
「鴇汰の気持ちが本気じゃないって思うようななにかがあるっていうのかい?」
「あいつ自身が穂高にも言ってないなら、あたしの口からはなにも言えない。そのうち、鴇汰がちゃんと話してくれるよ」
そう言ってうつむいた頬を、また涙が伝って落ちた。
昨日、あれだけ泣いたのに。
まただ。
体じゅうの水分がなくなっちゃうんじゃないだろうか?
水筒の口を閉め、体をよじって机に置いた隙に麻乃は頬を拭った。
「とにかく、もうそのことについては、なにも話すことはないよ。これ以上、なにか言うつもりなら、あたしはもう穂高とは口を聞かない」
「わかったよ……麻乃がそうまで言うなら、もう、この話はやめにしよう」
眉間を指先で押さえてなにか考えるように下を向いてから、穂高は諦めたように言った。
「じゃあ、俺はこれから比佐子に伝えてくるよ。それ、ちゃんと全部飲んで、今日のところはしっかり休んでいるんだよ」
「うん、わかった。穂高、本当にありがとう」
「効き目は保証できるよ。明日には熱がさがってるはずだ。昼前に様子を見にくるからさ。そのときに平熱になっていたら、俺が演習場まで送っていくから」
そう言うと、穂高は病室を出ていった。
午後からは持てあました時間に資料を読んで過ごした。
比佐子の差し入れてくれたスープを全部飲み干した途端に体の芯がぽかぽかしてきて、ひどく汗をかいたのには閉口したけれど……。
包帯を変えるときに爺ちゃん先生に事情を話すと、渋々ながらも熱さえさがれば演習場に戻っても良いと、許可を取りつけることができた。
あとは体力を温存するために、ひたすら横になっていればいい。
治るまではいかなくとも動けるところまで持っていき、どうにか隊を動かせるまでにならなければ。
相変わらず焦りは感じるものの、見通しが立ったぶん、気が楽になったからか、麻乃は睡魔に襲われて眠りについた。
闇の中を走っていた――。
追ってくるのはシタラで、どういうわけか炎魔刀を下げ、どうやら麻乃の左腕を狙っている。
(冗談じゃない――!)
左腕をどうにかされた日には、あたしはもう戦士として機能できなくなってしまう。
あたしが戦士を下りるときは、この命がなくなるときだ。
必死で走って、麻乃はいつの間にか森の泉にたどり着いた。湖畔でシタラを振り返ると、麻乃の意志に反して左腕が動いた。
その手はシタラの首をつかむと、思いきり締め上げた。
――腕が痛む。
青黒く残った痣から力があふれ出るように、シタラの首を絞める麻乃の手にさらに力がこもった。
苦しそうに呻くシタラの表情、その小さな体がのたうったとき、見開かれた瞳が淡く青く光った。
心臓がばくんと大きく鳴ったのと同時に目が覚めた。
(夢――?)
目が覚めてもまだ心臓が激しく鳴っているし、体が震える。
夢の中で左腕が痛んだけれど、そういえばここ数日はまったく痛まない。
今もなんともない。
うつぶせたままの格好で、左腕を伸縮させてみた。
(大丈夫、痛みもないし、ちゃんと動く……)
外はもう真っ暗だ。
変な夢のせいで、余計に汗をかいた。
着替えをしたくて看護係を呼ぼうと、体を起こした瞬間、視界のはしに人影が見えた。驚いて飛び起きたせいで背中に痛みが走り、麻乃は悶絶した。
顔を上げると部屋の隅のほうで椅子に腰をかけたまま、寝入っている修治の姿がある。
疲れがたまっているんだろうか?
麻乃がこれだけ動いても目を覚ます気配がない。
その姿にほっとするような腹が立つような、そんな気分になり、松葉杖を取ると、その先で頭を軽く小突いてやった。
「そんなところで、なにをサボってんのさ」
「ん……? ああ、なんだ、起きたのか?」
「起きたのか、はこっちのセリフだよ。いつからそこにいたの?」
修治は自分の腕時計に目をやる。
「五時ごろから……もう八時か。マズイな」
そう言って苦笑いをした。麻乃もつられて笑ってしまう。
「チャコが参加してくれているんだってね」
「ああ、昨夜からな。相変わらず凄い女だ。ブランクが長いぶん、何度かやられたようだがな。それで、体のほうはどうだ? 戻れそうか?」
「なんだか凄く汗をかいてさ、熱、下がった感じかな。ずいぶんすっきりしたよ。ねぇ、着替えたいんだけど看護の人、呼んでくれないかな」




