第41話 すれ違う想い
麻乃が車椅子に乗せられて、病室を出て行くのを見送っている鴇汰の顔は、青ざめて見える。穂高は廊下に出ると、近くにいた看護係を呼び止めて麻乃の傷の具合を聞いてみた。
「背中はそれほどじゃないんですけど、足が酷いようで、当分は歩くのも大変だそうですよ。傷のせいで昨夜は発熱もしちゃって辛そうでしたし。今日もまだ、熱が下がっていないんじゃなかったかしら?」
「そんなに酷かったんですか? まさか歩けないほどとは思わず……容体もちゃんと聞いてなかったから助かりました。どうもありがとうございます」
お礼を言って鴇汰を促し、医療所を出た。
車に乗ると、鴇汰はシートに体を預け、前を向いたまま放心している。この様子だと、さっきのことを後悔しているんだろう。
「見た目より大した怪我じゃないどころか、見た目より酷い怪我じゃないか。足だけかと思ったら背中もだなんてさ」
穂高はエンジンをかけながら、ミラー越しに鴇汰に目をやった。
「今日の鴇汰は最低だ」
穂高の言葉に、鴇汰はふて腐れた顔で窓の外に目を向けてしまう。
「あんな酷い言い方、よくもできたものだよ。さっきの麻乃の表情、鴇汰は見たか?」
「――どうせ腹を立てて、むっとした顔でもしてたんだろ?」
鴇汰の答えに、わざと大きなため息をつく。
「もう何年も蓮華として一緒にやってきているけど、俺はね、あんなに切なそうな表情をした麻乃を、初めて見たよ」
車を走らせながら、もう鴇汰に目も向けず話し続けた。
「おおかた、修治さんの名前が出て頭にきたんだろう? だからって、あんなふうに八つ当たりして、あれじゃあ麻乃が可哀想だ。だいいち、あの二人はとっくに終わっているじゃないか」
「終わってるかどうかなんて、わかんねーじゃんか」
「おまえなぁ――」
「俺は麻乃にちゃんと伝えたんだぜ? 変なタイミングで邪魔が入って、返事は聞けなかったんだけどさ、そのあとずっと、まるでなにもなかったみたいに、あいつ……なにも言わねーんだよ。その癖、なにかあるたびに修治が修治が、って……頭にもくるだろうが!」
それまでシートに深く預けていた体を鴇汰は急に勢いよく起こし、一息で言い切った。まるでつかみかかってきそうな勢いに、思わずハンドルをぐっと握りなおした。
「それで? 頭にきた鴇汰は、昔みたいに麻乃をいじめて、拗ねて妓楼に入り浸るわけだ?」
「そんなことはもうしねーよ。俺だって、あの頃と同じガキのままじゃない」
鴇汰は、ふっと視線を外して小さく呟いた。
まだ少し顔色が悪く見える。眉根を寄せたまま、唇をわずかに噛んでいる。
「そんなに心配なら、あんな酷いことを言わずに素直になればいいのに」
西詰所に着くと、鴇汰を降ろし、荷物も下ろした。
「鴇汰が今、やらなければいけないのは、麻乃に悪態をつくことじゃなく、もう一度ちゃんと話をすることだと思うよ」
「…………」
「さっき鴇汰は聞く耳を持たなかったけれど、麻乃は違うと言っていたじゃないか。返事ができないのにも、なにか理由があるのかもしれないだろう?」
穂高は鴇汰にそう言うと、また車に乗り込む。
「俺は用を思い出したから、もう一度出かけるけれど、頭を冷やして自分がなにをするべきか、よく考えてみるといい」
アを閉めてエンジンをかけ、鴇汰をそのままにして来た道を戻った。
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静かな病室で横たわっていると、天井を眺めるでもなく視線が漂い、落ち着かない。じっとしていると、余計なことばかりが麻乃の頭に浮かぶ。痛かろうが辛かろうが、今は体を動かしたかった。
さっきも戻る戻らないで、麻乃は爺ちゃん先生と一悶着起こしたところだ。傷が痛むだけなら我慢してしまえばほかの誰にもわからないのに、熱を計られると一目瞭然だから誤魔化すこともできない。
思い通りにならなくて、暴れ出したいほど苛立ちが募る。
夕暮れ時で薄暗くなった病室のドアを、誰かがノックする。
「麻乃ちゃん、起きてる?」
その声に思わず麻乃は跳ね起きた。ずきんと背中に痛みが走ったけれど、必死にそれを堪えた。
「多香子姉さん、どうしたの?」
体を起こしてベッドの脇に座ると、乱れた髪を慌てて手でなでつけた。
「横になっていて構わないのに」
「うん、でもね、横になるとうつ伏せてないと駄目だから、話をするには起きていたほうが楽なんだ」
「そうなの? 怪我したって聞いたから様子を見に来たついでに、ご飯も持ってきたのよ」
多香子は小さな机の上に、手にした包みを乗せて開き、重箱を出した。
食欲がない、とは言いにくい雰囲気だ。
「傷、酷かったみたいね。痛む?」
「ううん。今はもう平気だよ」
薬が効いている間は、と、これも言えない。
心配をかけたくなくて、麻乃はわざと明るく振る舞ってみせた。
「あら? これは?」
そう言って多香子が手にした紙袋は、さっき鴇汰から受け取ったものとは別のもののようだ。
枕もとに置いた荷物がちゃんとあるのを確認して、首をかしげた。
「あれ……? なんだろう? わかんない」
「開けてみるわね」
紙袋を開け、あら、と多香子が驚いたような声を出した。首を伸ばしてその手もとを覗き込むと、小さめの箱が目に入り、ほんのりオレンジの匂いが漂ってきた。
(――鴇汰だ)
中身はオレンジケーキ。見なくてもわかる。
「多香子姉さん、それ、持って帰って食べていいよ。それから、これも」
差し入れと言っていた袋も差し出した。
中から良い匂いがしていたことを考えると、たぶん、弁当だろうと予想はつく。
今は何も欲しくなかった。
さっきのことを思い出させるものは、全部この部屋の中からなくしてしまいたい。
多香子は不思議そうに麻乃を見つめてきた。
「どうして? 麻乃ちゃん、これ、好きでしょう?」
「……欲しくないんだもん」
「持って帰るのは構わないけど、一切れは絶対に食べなさい。これは麻乃ちゃんがいただいたものでしょう?」
「でも……」
「嫌いなものなら仕方ないけれど、そうじゃないんだから、持ってきてくれた人に対して失礼よ」
「うん……」
そう言われると弱い。
高田と同様で、多香子も礼儀などにはとても厳しい。
「こっちも食べるもの? 食欲、ないの?」
「あんまり。お弁当、せっかく持ってきてくれたのにごめんなさい。でも、あとで食べるから、これはそのまま置いといてもらっていいかな?」
「いいのよ。じゃあ、いただきもののほうは、持って帰るわね」
手渡した袋を端に寄せ、多香子はオレンジケーキを持って部屋を出て行くと、数分後に戻ってきた。
切り分けたケーキを乗せた皿を両手に持ち、一つを麻乃に手渡し、もう一つを机に置いた。
「ちょうどね、看護係の女の子たちがいたから、みんなで分けてきたの。これは私たちの分。せっかくだからここでいただいて行こうと思って」
多香子はまた部屋を出て行くと、今度はすぐに戻ってきた。
その手にはコーヒーを持っている。
「さ、それじゃあいただきましょうか」
目の前の椅子に腰掛けられると食べないわけにもいかない。
のろのろと手を動かして、仕方なく口へ運んだ。
おクマが焼いたケーキよりも、美味しく感じる。
多香子もしきりに感心しながら食べている。
(まったく、なんだってこんなに美味しいものを作れるんだか――)
「麻乃ちゃん? ちょっと……どうしたの? どこか痛む?」
「えっ?」
多香子の言葉に、ふと顔をあげた瞬間、手にした皿にぱたぱたと涙が零れて驚いた。
泣いたつもりも泣くつもりもなかったのに、なぜかあふれて止まらない。
「傷が痛む? ちょっと待ってて、すぐ先生を呼んでくるから」
立ち上がった多香子を慌てて止めた。
「違うよ。大丈夫、どこも痛まないから。変だな? 目にゴミが入っただけかも」
「本当に? 我慢してるんじゃないでしょうね?」
「ううん、本当だよ、本当に平気。なんだろうな、これ」
麻乃はちょっと笑ってみせ、机に皿を置くと、袖口で頬を拭った。
何度拭っても、どうにも涙が止まらなくて焦る。
心配そうに麻乃の顔を覗き込んで、ハンカチで頬を押さえてくれた多香子を見て、不意に思った。
二十四にもなって、袖口で涙を拭う情けない自分。
一方は、ちゃんとハンカチを持ち歩いて、人に差し出せる優しさを持ったしっかりした女性。
麻乃には到底なれないその姿。
人として、どうしてこうも違うものなのか。
胸にきゅっと締めつけられるような痛みが走った。
「ごめんなさい、ハンカチ、汚しちゃったね」
「馬鹿ね、いいのよ、そんなこと」
「ね、もう時間も遅いよ? あたし今、こんなだから送って行けないでしょ、心配だからさ、そろそろ戻って」
まだ心配そうに見つめている多香子に、大丈夫だからと、精一杯笑ってみせた。
また様子を見に来るからねと言って出て行く姿を見送ってから、麻乃は布団に潜り込んだ。
今度こそ、一人きりの静かな部屋の中、いろいろなことを考えた。
蘇ってくる鴇汰の言葉が、昔から麻乃に向けられてきた拒絶を思い起こさせ、胸が詰まる。
それに、こんなにも、何もかもが思い通りにならないのが、苛立ちを募らせ、押し潰されそうだ。
せめて動くことだけでも可能なら、この場から抜け出してしまうこともできるのに――。
薄暗い感情があふれて止まらない。
ざわつくような感覚に急かされている気がする。
一つの思いが頭に浮かび、考えを定める。
その次の瞬間に思い直しては、また考える。
そんなことを何度も何度も繰り返し、最後にはためらいながらも決意した。
それから穂高に手渡された封筒を開け、中身を取り出して資料を読む。
書かれているのは大事なことだとわかっていても、内容がまるで頭に入ってこない。
枕もとに放り投げると、そのまま目を閉じた。
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「シュウちゃん」
修治が拠点で食事の支度をしていると、突然、多香子に呼ばれた。
師範たちに挨拶をしてから、なにか言いたそうな多香子をテントへ促した。
「どうしたんだ? こんな夜遅くにここまで。なにかあったのか?」
「うん、父さんに言われて、麻乃ちゃんの様子を見に行ってきたんだけど、あの子、なにかあったの?」
「なにかもなにも、見てのとおり、あの怪我だ」
「違うのよ、そうじゃないの」
大きく首を振った多香子は、心配そうな表情で修治を見つめてくる。
「それがね、あの子……突然、泣き出しちゃって……」
「泣いた?」
「いただきものを食べていたら、本当に突然。傷が痛むのかと思ったんだけど、そうじゃないみたいで……自分でも涙に驚いていたようで。なによりあんなに静かに泣くなんて、よほどのことがあったんじゃあないかと思うのよね。シュウちゃんは、なにも聞いてないの?」
「いや、なにも。だけど、よほどのこと、か。弱ったな……怪我が長引きそうだから、今夜からあいつが抜けた穴埋めに参加してくれる人が来るんだよ。俺も抜けるわけにはいかないんだ」
「だって――」
「いや、いい。わかった。今から、おまえを送りがてら様子を見てくるよ」
立ち上がると、ほっと息をついて頷いた多香子の手を取った。
聞いてみると、すぐに帰るつもりで歩いてきたと言う。辺りはすっかり暗くなっていると言うのに、不用心にもほどがある。
車を用意して多香子を助手席に乗せると、修治は真っ直ぐ道場に向かい、多香子が母屋に入るのを確認してから医療所へ向かった。
静まり返った医療所の廊下を急いで麻乃の病室に向かって歩いた。
すりガラスの小窓から明かりが漏れている。ノックをしても返事はなく、そっとドアを開けて中に入ると、ベッドにうつ伏せている姿が見えた。
「寝てるのか?」
声をかけても返事はない。
近づいてみると、枕もとに読みかけたままの資料が広げられていた。
小さく寝息を立てている頬が濡れている。
(泣き寝入りしやがったのか……)
その頬に触れると、妙に熱い。傷のせいで発熱したのか――。
布団をかけ直して、病室を出た。
結局、なにも聞けず、なにもわからないまま。長居をするわけにもいかず、修治は仕方なしに演習に戻った。




