第37話 獣との対決と覚醒の予兆
四日目の朝――。
麻乃は深夜から森の中を探り続け、疲れ気味だった。隊員たちはどの班も、気配を殺すのが上手くなってきている。麻乃と修治は見つけにくい班を選んで探り、ほかの班は師範たちに任せて、追い立てた。
演習場の雰囲気もざわついた気配が消え始め、初日に比べてかなり変化してきている。毎日、攻防を繰り返しているせいで手応えも出てきて、追うのも迎え撃つのも楽しみになった。
女の子たちの様子を時々見に行くと、多少は辛そうだけれど、体調を崩すこともなく、無事にやっているようだ。
今、気配を抑えて走る麻乃の後から、どこかの班が追ってきている。
程々に距離を置いて移動を続けた。
川沿いの泥濘が多くて足場の悪い場所を敢えて選んで立ち止まると、麻乃は森を振り返った。
現れたのは修治の隊員たちで、何人かは予備隊で顔を合わせたことのある連中だ。麻乃の姿に一瞬の躊躇いを見せたものの、すぐに勢いよく武器を構えた。けれど勢いとは裏腹に、粘土質の泥濘に足元を取られて、腰の据わらない打ち込みをしてくる。
想像通りの動きに麻乃は苦笑しながら、次々に打ち倒した。これも慣れれば動きのコツを掴んで、もっと踏み込んでくるようになるだろう。
七人目を倒したところで、突然、森の奥から強い殺気が溢れ出してきた。
「ちょっと待て! なにか来る……」
古株の一人が振り下ろしてきた刀を避け、その腕を取ると麻乃は意識を集中した。
残っている三人も殺気に気付き、同じ方向に目を向けている。
「殺気……? 藤川隊長、近づいてきますよ」
「なんかヤバい。あんたたち、倒れてる奴らを向こうの茂みに運んで! 今すぐ!」
ざわざわとうなじの辺りを嫌な感覚が撫でていく。
気を失って倒れている隊員を、残った三人が担ぎ上げたとき、黒い塊が木立の陰から飛び出してきた。
「嘘……どうして……?」
山奥に生息している肉食の猛獣が入り込まないように、演習場は敷地を高いフェンスが巡らせてある。
それなのに今、麻乃の目の前に泉翔で一番凶暴な牙獣、ガルバスがいる。
麻乃の倍はありそうな大きな体躯、低い唸り声を出して身を屈め、今にも飛び掛かってきそうだ。
黒い毛皮に覆われた筋肉質の四肢、鋭い牙を剥き出しにした口元からは、獰猛な野生の殺気が立ち昇っている。腹が減っているのか、どこかに怪我でも負っているのか、その瞳が射るように麻乃たちを見つめている。
「早く! 早くみんなを!」
声を抑えて指示をすると、弾かれたように三人は走り出した。
麻乃の背後には、まだ四人も倒れ伏している。
泉翔の男はみんな体が大きい。麻乃の身長では担げたところで素早く逃げることも、そのまま戦うこともできない。三人が倒れた奴らを助けるまで、一人でガルバスを食い止めなければ。
武器は演習用の刀だけだ。果たしてこれが通用するのか――?
考えても仕方がない。麻乃は電流を最大まで上げて構えた。緊張で鼓動が速くなり、じわりと汗が滲む。戻ってきた隊員たちが次の三人を抱えたのと同時に、ガルバスが飛び掛かってきた。
「来た! 早く連れて行け! それから誰か、信号弾を撃て!」
目の前まで迫った大きな体に思い切り打ち込むと、ばちっと乾いた音と僅かに毛が焦げた臭いが漂う。分厚い毛皮で覆われた体には、最大にしても電流が届き難いのか、咆哮を上げただけでびくともしない。
鋭い牙を剥き、麻乃を目掛けて突進してきた。
倒れている隊員から距離を取ろうと横へ走ると、前を塞ぐように回り込んでくる。とにかく、みんなの方へ近づけないよう庇いながら動くしかない。
飛び掛かってくるのを避けながら、その背中や腹に次々と打ち付けても効いていないのか、弱る様子も逃げる素振りも見せない。
こちらの武器に殺傷能力がないことが分かったのか、ガルバスは麻乃から視線を外した。
その視線の先には、まだ一人残っている隊員と、それを助けに戻ってきた隊員がいる。
(――不味い!)
ジャンプをしようと、ガルバスが前足を深く沈めた瞬間を狙って、大きく振り被ると、その脳天を叩いた。ガルバスが声を上げたのと同時に、信号弾が二発上がり、周囲の景色が赤く染まった。
(信号弾が上がった! 誰か早く……修治……!)
今の一撃に怒りを増したのか、ガルバスは麻乃だけに狙いを付けて飛び掛かってきた。泥濘に足を取られ、転げた傍に隊員たちが落とした武器を見付けた。
それを掴み取ると、喰い付いてこようとしたガルバスの牙を一刀で弾き、もう一刀を喉元から突き上げた。
もんどり打って倒れたガルバスは、すぐに起き上がると、大きく長い咆哮を上げた。怒りに満ちた獣の目にぞっとして麻乃の手が震える。
さっき、牙を食い止めたせいで、武器が噛み砕かれて使い物にならなくなった。それを投げ捨て、まだ数本、落ちたままになっている武器に飛び付いた。信号弾は上がったのに、まだ誰も来る気配がない。
もしや今、この近くには誰もいないのだろうか?
二刀でガルバスを相手にしながら目線を移すと、最後の一人も抱えられて森の中へ消えるのが見えた。それを見てほっとしたけれど、どうやらこいつを一人で倒すのは難しいようだ。
かと言って、残った三人の隊員たちを巻き込むことはできない。麻乃自身でも難しいと考えているガルバスの強さに、彼らが対応できると思えないからだ。
(みんなが隠れている場所に近づけないようにしながら、誰かが来るのを待つしかない――)
一瞬よそ見をしたその隙に、ガルバスは高く飛び上がり、麻乃の頭上を越えて前足で背中を叩き付けてきた。
勢い良く弾き飛ばされて川に転げ落ち、目の前が一瞬、暗くなった。意識が朦朧として景色が揺れる。
頭を振って立ち上がった視界の端に、麻乃が弾かれたのを見て、森から駆け出してくる隊員と信号弾がもう一発上がったのが見えた。川の水が赤く染まって見えるのは、信号弾のせいなのか、麻乃の血の色なのか分からない。
「出てきちゃ駄目だ! あんたたちの腕じゃ――!」
そう叫んで走り出したときにはもう遅く、一人は麻乃と同じように弾き飛ばされ、一人は飛び掛かられて倒れた。
(あいつら、喰われる!)
川に落ちた弾みで一刀は川底に落とし、もう一刀は先端が三分の一ほど折れている。新しい武器を拾っている暇はない。
体中の毛穴が開いたようなざわざわとした不快な感覚に、髪が逆立った気がした。頭の奥が痺れ、心臓が体の外に剥き出しになっているかと思うほど激しく鼓動が鳴り響く。
(来る――)
走りながら麻乃自身の中に覚醒する瞬間を感じ取った。いつものように、迷っている暇はない。今、この時に覚醒しなければ、みすみす隊員たちを危険に晒してしまう。麻乃の中で覚悟を決めたその瞬間――。
『まだ……早いでしょう?』
息遣いを感じるほどの近さで、耳元に囁くような誰かの声が聞こえた。
どくんと爆発したかと思うくらいに大きく胸が鳴ったのと同時に、全身から大きな力が抜けた気がした。
それでも走り出した勢いは止まらない。
倒れた隊員に牙を剥くガルバスの横腹に向かい、折れた刀に満身の力を込めて突き刺した。壊れているから今度は電流が流れない。けれど、その分しっかりと、その刃は肉を抉って食い込んでいく。
「くっ……倒れろぉーっ!」
両手に握った柄に全体重を掛け、大きな体を抑え込むようにして、麻乃は全力で武器を押し刺した。
暴れて悶え苦しむ爪が、何度か麻乃の足を裂く。倒れていた隊員は自力で前足の下から這い出し、離れた場所に横たわっている。今、手を離したらみんな終わりだ。
どんなに暴れられても傷付けられても、手を離さずに力を込め、満身の力で真一文字に腹を切り裂いた。
激しく藻掻いていた巨体が徐々に力を弱め、動きが止まって倒れた。それでもまだ力を抜くことができずに、麻乃は膝をつき、ぎゅっと柄を握り続けた。
急に周囲がざわつき、たくさんの足音と怒鳴り声が遠くに響く。朧げな意識の中、誰かが名前を呼んだような気がした。
「――おい、分かるか? 麻乃?」
だんだんと感覚が戻ってくると、頬を軽く打つ刺激と修治が目の前にいるのが分かった。視線が合ったとき、一瞬だけ修治の顔が強張った。
「麻乃、もういい。もう大丈夫だから、手を離せ」
「とどめを……」
「大丈夫。もう死んでいる」
息を荒くして、全身の力を柄に込めたままの麻乃の手を、修治がそっと包んでくれた。
「みんなは……?」
「無事だ。多少の怪我はあるが、擦り傷程度だ」
それを聞いてようやく体から力が抜けた。
「駄目かと思った……みんな喰われちゃうかと……だ、誰も来る気配がないし……」
落ち着いた途端に震えが止まらなくなり、自分でも驚くほど奥歯が噛み合わないでいる。膝から崩れ落ちて、修治に支えてもらわないと上半身を起こしていられないくらい、体に力が入らない。一度、口を閉じた。それでも出てきた言葉は正直なものだった。
「い……言いたくない……けど、本当に……怖かった」
「ちょうど交代で、先生方も俺も、拠点に戻っていたんだ。立て続けに信号弾が上がったからおかしいと思った。総出で来て正解だったな」
修治はそう言いながら、麻乃の足の傷にタオルを巻き付けて、きつく縛ってくれた。
隊員たちも師範の方々の手で応急処置をされ、意識を失っていた隊員たちも、茂みで無事が確認されていた。
「よく耐えたな。お前が持ち堪えてくれたから、俺の隊員たちは全員が無事だった」
「大丈夫か?」
上から覗き込むように、昨日から市原に代わって参加している塚本が顔を出した。麻乃を見るなり、塚本もはっと驚いた表情をする。
「傷が酷いな。修治、急いで医療所へ連れて行け。背中も血塗れだ」
そう言われて初めて傷の痛みを感じ始めた。今度は足に心臓があるみたいに、傷口が脈打っている。まだ演習は中盤にも差しかかっていないのに、怪我をしてしまったのは痛い。それでも、治療をして立ち上がることさえできれば問題はないはず。
塚本は傷が酷いというけれど、きっとそんなに大袈裟な怪我ではないと思う。怪我を負ったばかりだから痛いのは当然で、明日には痛みも和らぐに違いない。修治に抱きかかえられたまま、いったん拠点へと戻った。




