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蓮華 ― 鬼神の血を継ぐ戦士は護るために戦う ―  作者: 釜瑪秋摩
第一章 稼働

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第36話 オレンジケーキ

 手綱を引いて敷地を出るときにすれ違った車から、名前を呼ばれて振り返ると、乗っていたのは鴇汰(ときた)梁瀬(やなせ)だった。


麻乃(あさの)さん、こんな時間にどうしたの?」


「不足している備品を取りに来たんだ。それと、家の片づけとゴミ出し」


「あ、演習もう始まったんだ?」


「うん、今日からね」


「備品、急ぐんじゃないの? これは僕が先に届けてあげるから、片づけを済ませてきちゃいなよ」


 梁瀬はそう言って車から降りてくると、強引に手綱を奪い取りにきた。麻乃は思わずぎゅっと手綱を強く握り、自分の方へと引き寄せる。ところが梁瀬はにっこりと微笑みながら、手綱から麻乃の手を引き離した。


「ちょっと梁瀬さん……いいよ、急がなくても大丈夫だから。片づけだってすぐに済むんだし……」


「まぁまぁ、いいじゃない。今は暇だし、僕も体を動かしたいし。鴇汰さん、麻乃さんを送ってあげてね」


 麻乃の返事を待たずに、梁瀬は馬にまたがると駆け出していってしまった。夜の闇に消えていく梁瀬の背中を見送りながら、麻乃は小さく溜息をついた。直後、背後から大きなため息が聞こえ、振り返ると鴇汰がハンドルにうつ伏せになっている。その疲れた様子を見て、麻乃の胸にずきんと痛みが走る。


「乗れよ」


 そう言われて、また、胸がぎゅっと締めつけられる。


「いいよ。ここから道場まで、そう遠くないし歩いていくよ。そこまで行っちゃえば、あとは馬を借りて戻ればいいだけだから。じゃあね、おやすみ」


 きっと鴇汰は、疲れているところに面倒ごとを振られて、不機嫌な顔をしているだろう。そんな顔、見たくない。振り返るのが怖くて、麻乃は一息でそう言うと、速足で歩き出した。

 車のドアが開く音がして、麻乃はさらに足を速めたが、追いかけてきた鴇汰に腕を掴まれた。


「なんで逃げんのよ?」


「別に逃げてなんか……面倒をかけたくないから」


「こんなことくらいで面倒とか迷惑とか俺は思わねーよ! いいから黙って乗っていけって!」


 そのまま腕を引っ張られ、助手席に押し込まれると、鴇汰はすぐに車を走らせた。

 面倒とか迷惑と思わないと言いつつも、不機嫌さを隠しもしないのは、やっぱりこの間、柳堀で言われたことを、うやむやにしているからだろうか?


 でもあれに、何をどう答えたらいいのか、まったくわからない。答えられるはずもない。

 こんなこと、修治(しゅうじ)には話せないし――。


 ふと、市原(いちはら)を思い出した。


(そうだ。今度、市原先生に、さり気なく相談してみようかな……)


 一人でいろいろと考えているうちに、家の前に着いてしまった。車のヘッドライトが、見慣れた我が家の玄関を照らしている。

 お礼を言って車を降りると、玄関に鍵を差し込む。


 車が走り去る音が聞こえないので、不思議に思って振り返ってみると、すぐ後ろに鴇汰が立っていて、麻乃はどきりとした。


「なに……? どうしたの?」


「どうもこうも、演習場まで麻乃を送って、梁瀬さん連れてこないとなんねーじゃん。一人より二人の方が早いだろ。さっさと片づけちまおうぜ」


「……入るの?」


 問いかけに、鴇汰は怪訝な表情で見つめ返してくると、あっ、と声を上げた。


「おまえ、何か変なもん、置きっ放しか出しっ放しにして演習に出たな? だから演習が始まったばかりなのに片づけなんかしに来たんだろ! やべーだろ? 早く開けろよ!」


「出しっ放しって言うか……多分、まだ大丈夫かな~? って思うんだけど、駄目な気もするかなぁ~? って……」


「いいから早く開けろって!」


 急かされて、しぶしぶドアを開け、中に入って電気をつけた。久しぶりに帰った家の中は、ひんやりとした空気が漂っている。

 奥の部屋に入り、両親の写真の前に置いたオレンジケーキを見ると、見た目には怪しい変化はない。

 飾った百合の花はしおれてしまっている。


「何だよ。思ったより綺麗にしてんじゃん。台所にも、何もないぜ?」


「うん、そっちには何も出してないから」


「その部屋、俺が入っちゃマズイ部屋?」


 鴇汰が部屋の前で、そう聞いてきた。


「いや、平気だよ」


 中に入ってくると、鴇汰は麻乃の手元を見た。


「あ、オレンジケーキ? もしかして、この間、柳堀で買ったオレンジを使ったのか?」


「うん。おクマさんに頼んで焼いてもらったの」


「ふうん……へぇ、麻乃って母親似なんだな」


 棚に飾ってある写真と麻乃を交互に見て、一人でうなずいている。

 気恥ずかしくて、麻乃は視線を逸らした。


「で、そのケーキは……って聞いちゃマズかったか?」


「ううん、平気。これは二人の好きだったものなんだよね。毎年、おクマさんに焼いてもらって、命日にお供えしてるんだ」


 萎れてしまった百合の花が入った花瓶を手にした鴇汰は、不意に動きを止めた。


「命日、っていつよ?」


「ん? おとといだけど?」


「おととい……そっか……」


 考え込むように俯いて、何かを呟いたようだったけれど、麻乃にはよく聞き取れなかった。問いかけようとして、麻乃は口を閉じた。


「花、もう萎れてるし、片づけてもいいよな?」


「うん、ありがとう。これ、もう駄目だよね」


「食う気かよ? 腹を壊して演習に出られなくなりました、なんてシャレになんねーよ。やめとけって」


「だよね。もったいないことをしちゃったな」


 好きな食べ物を食べずに処分するのは心苦しいけれど、鴇汰の言うとおり、腹痛でも起こしたら隊員たちに対しても、演習に参加してくれている師範の方々に対しても、示しがつかない。仕方なく残りのゴミと一緒にまとめた。


 家の裏手にある小さな焼却炉に放り込み、量が少ないから、燃えるまでに時間もかからないだろうと、火を点ける。


 ぱちぱちと音を立てて燃える様子を、ぼんやりと見ていると、目の前にカップが差し出された。湯気が立ち上り、コーヒーの香りが夜の空気に広がる。


「コーヒー、勝手に入れさせてもらった。このくらい飲む時間、あるよな?」


「あ……うん、ありがとう」


「食いたいんなら、今度、俺が作ってやるよ」


「ん?」


「オレンジケーキ」


 カップに口をつけて、俯き加減になった鴇汰の横顔が、炎に照らされて、オレンジ色と影の部分をくっきりと分けている。つい見入ってしまいそうになるのを、意識して視線を逸らした。

 燃え尽きて燻り始めた焼却炉の中をかき回して火を消す。ほんの少しの時間だけれど、演習で感じていた苛立ちが、いつの間にか消えていた。鴇汰が余計なことを聞かずにいてくれるから、だと気づく。


 鴇汰といると、それがない。黙っていても平気な空間があるだけで、麻乃は安心できた。


「そろそろ戻らないと」


「じゃあ、俺は食器と花瓶、洗っとくから、おまえは戸締まり確認してこいよ」


 鴇汰がさっと洗い物を済ませて外に出ていく間に、麻乃は家中の戸締まりを確認した。

 最後に玄関の鍵をかけると、エンジンをかけて待っている鴇汰の車に乗り込んだ。


 詰所を出たときのような、不機嫌な雰囲気はもうなくなっていたけれど、話しかける言葉が見つからないまま、麻乃は黙って真っ暗な外を眺めた。車窓の向こうに見える街の明かりが、ゆっくりと流れていく。


 こういうとき、鴇汰は変に話を始めたり問いかけたりしてこない。

 いつもそれをありがたいと思う。

 話したくても言葉が見つからないときに、あれこれ問われると、ますます言葉を探せなくて自己嫌悪に陥ってしまうから。


 鴇汰といると、それがない。

 無理に話さなくても黙っていても平気な空間があるだけで、麻乃は安心できた。鴇汰の存在そのものが、麻乃にとって心地よい沈黙を作り出してくれる。


 演習場に着き、森の入り口で車を止めると、拠点の辺りから賑やかな笑い声が聞こえてきた。

 向かってみると拠点に残った師範たちと一緒に、修治と梁瀬も大鍋を囲んでいる。


「何をやってんだ、あのおっさんは……」


 鴇汰が呆れたように呟き、それに気づいた修治がこちらを向いた。


「やっと帰ってきたか。荷物が先に届いたから何事かと思ったぞ。で、家の方はどうだった?」


「うん、変なことにはなってなかったよ。一応、捨てて燃やしてきたけどね」


「そうか、問題なかったならそれでいい。おまえ、飯はまだだったろ? 早く食っておけ。鴇汰、手間をかけさせてすまなかったな」


「別に。こんなこと、手間でも何でもねーよ。梁瀬さん、あんたさっき飯、食ったばかりだろ? まだ食うのかよ? もう帰ろうぜ」


「ごめんごめん、今、行くから」


 梁瀬は立ち上がると、師範たちに挨拶をして輪から離れ、鴇汰を促して車へ向かっていった。


「梁瀬さん、ありがとうね。鴇汰も。気をつけて帰ってよね」


「俺が運転すんだから大丈夫だよ。麻乃も、無理すんなよな。じゃあな」


 二人は麻乃に向かって手を振って帰っていった。テールランプの赤い光が、夜の闇に吸い込まれていく。

 それを見送ってから食事を済ませ、少し体を休めた。


 深夜に二陣の師範が三陣と入れ替わったときに、麻乃も一緒に森へ入った。

 こちらは三交代で、それぞれ仮眠や食事を取っているけれど、隊員たちは出ずっぱりになっている。今はまだ、食事も睡眠もままならない状態だろう。


 一日目は、それでもどうにかやっていける。

 二日目、三日目と日が経つにつれ、疲労が重なって神経が研ぎ澄まされていく。


 その中で少しずつ、どうしたら食事を取る余裕や睡眠時間が取れるのかを考え始め、だんだんと、自分たちの気配を抑えてその時間を作ろうとする。

 みんながそうすると、今度は相手の気配を探ることが難しくなり、わずかな気配をも感じようと集中して探り始める。


 そこまでくると、あとは早い。古株の隊員たちは感覚を取り戻すのが早いはず。新人たちもそれを見て、自分たちの行動に足りていないものが何なのか、考えて掴むだろう。


 そして、そこから先は、いかに自分の存在を消して相手を探し出せるかに重点を置き、その感覚を自分でコントロールできるくらいにまで力をつけていく。

 対峙しながら隊員たちの成長を確認し、見守るのも、隊長としての大切な役割だ。


 さて、何日目で次の段階に進めるのか――。


 それを考えると、少しだけワクワクしてくるのは、麻乃の性分だから仕方がない。森の奥から聞こえる夜の音に耳を澄ませながら、麻乃は静かに微笑んだ。

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