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蓮華 ― 鬼神の血を継ぐ戦士は護るために戦う ―  作者: 釜瑪秋摩
第一章 柳堀

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第31話 腕の痛み

「せわしない事……」


 おクマは鴇汰が飛び出していったドアを見ながら、松恵からもらったお茶を入れてくれた。

 口をつけてみても味が全くわからない。


「そうそう麻乃ちゃん、オレンジだけど」


「あ、それ。今年もまた、おクマさんにオレンジケーキを作ってほしくて」


「もちろんいいわョ。材料なんか買ってこなくたって、そのくらい、お安い御用なのに」


「うん、でもこれは、自分でちゃんとしたいから」


「あぁ、そうね。もうそんな時期なのよねェ」


 おクマは少しだけ寂しげな表情をすると、また煙草に火を付けてドアに視線を向けている。その口元が僅かに釣り上がり、ふっと煙を吐いた。


「それにしても、重大発言だったわねェ。さっきのアレ。アンタどうするのよ? ア・イ・ノ・コ・ク・ハ・ク」


「どうもこうも……好きだとか愛してるとか言われたんならともかく、そんなんじゃなかったでしょ。告白なんかじゃない、ただの冗談に決まってるよ。鴇汰ってば口がうまいから」


 言いながら、麻乃はカップを両手で包んだ。あり得ない。——それなのに、胸の奥がざわついて、鴇汰の言葉がどこかに引っかかって離れない。


「アタシにはそうは見えなかったけどねェ? まぁ、アンタにその気がないんじゃ仕方ないけど」


 麻乃は大きく肩で息をつくと、おクマから視線を逸らした。なんだって突然、あんなことを言い出したんだか……。

 立ち上がって財布からお金を出すと、カウンターの上にそっと置いた。会計、と言えば、おクマは絶対に受け取ってくれないから。


「ケーキ、どれもおいしかったよ。あたし、荷物も届くし、なんだかちょっと疲れたからもう帰るね。ネエさんたちも今日はありがとう。また来ますね」


 絶対またくるのよ、と言うおクマの声を背中に、麻乃は柳堀を後にした。


 一旦、家に戻り、荷物が届くのを待ってから道場へと向かった。

 本当は西浜の敵襲が気になったけれど、謹慎中だから来るなと言われた。ただ、正直なことを言えば——今は鴇汰と顔を合わせたくなかった。鴇汰の言葉をどう受け止めたらいいのか、まだわからないまま。


 日が傾き始め、道場には子どもたちの姿はない。裏口へ回り挨拶をして中に入ると、調理場から多香子(たかこ)が顔を出した。


「あら、麻乃ちゃん。どうしたの?」


「多香子姉さん、先生はいらっしゃいますか?」


「奥にいるから、入ってちょうだい」


 麻乃はうなずくと高田(たかだ)の部屋に向かい、襖の前で姿勢を正して座り、声をかける。


「先生、麻乃です」


「おう、入れ」


「失礼します」


 高田は文机に向かい、手紙を書いていたようだ。その手を止めて振り返ると、麻乃の向かい側に座り直した。


「こんな時間にどうした?」


「今日、新しい刀を買ってきました。一度、見ていただこうと思って。黒塗りが夜光(やこう)、朱塗りが鬼灯(ほおずき)です」


 高田の前に二刀を並べて置いた。高田はまず夜光を手にして抜くと、隅々まで眺めた。正面に掲げてから僅かに頷き、鞘に収めると麻乃の前に戻す。


「これは、おまえには少し長めに感じるが、間合いをしっかり覚えれば扱いやすそうでいいと思うぞ。いいものを選んだじゃないか」


 次に鬼灯を手にした高田は、一瞬、顔をしかめ、ためらいがちに抜いた。


「こいつはまた……おまえ、ずいぶんと癖のあるものを選んできたな」


「いえ、それは周防(すおう)の爺さまが、あたしが夜光を選んだら、一緒に持っていくようにと言っていたらしいんです。お孫さんにそう言われました」


「爺さまが、か。おまえはこれをどう思う?」


「あたしは特に嫌な感じはしません。それとなら、辛い状態でも踏ん張りが利きそうな、そんな気がするんですけど……」


「ふむ。私はどうも相性が良くないようだが、おまえがそう感じるならば、おまえには合うのだろう。しばらくは様子を見ながら使ってみるといい」


 鞘に納め、高田は鬼灯も麻乃に戻した。周防のお孫さんは鬼灯を癖があると言っていた。それが、相性が良くないと高田に感じさせた原因だろうか。


「選別は済んだそうだな?」


「はい。近々、中央で顔合わせをする予定です」


「当分はそっちが忙しくなりそうだな。道場のことは気にせず、新しい隊にしっかり集中するといい」


「ありがとうございます。それじゃあ、あたしはこれで」


 座礼をして夜光と鬼灯を手にすると、麻乃は立ち上がって早々に部屋を出ようとした。


「なんだ、もう帰るか? 夕飯はもうすぐだ。食べていけ」


「いえ、今日は帰ります。失礼しました」


 襖を開けてもう一度礼をすると、そのまま道場を出た。歩く足取りがだんだんと速くなり、麻乃はついに駆け出した。


 また腕が痛む。


 刺すような痛みについ顔が険しくなる。右腕はもうすっかり良くなり、痛みも引きつれも感じない。

 なのに左腕は相変わらずだ。

 傷跡を見ても、青黒い痣が残っているだけでほかにはなにもない。こんなことは、誰にも言えやしない。考えないようにしようとしても、腕が利かなくなるかもしれないという思いが痛むたびに麻乃の頭の隅をかすめる。


 不意に誰かがついてくる気がして、麻乃は足を止めた。振り返ると、伸びた影の映る道には誰の姿もない。息を詰めたまま、しばらくそこから動けなかった。

 陽が沈み、空がオレンジと紫に染まっていく。

 やがて麻乃は踵を返し、ひたすら家に向かって走り続けた。



-----



 日が落ちた頃、鴇汰は麻乃の家の前に立った。


 柳堀では勢いであんなことを言ってしまって、少し顔を合わせづらかったけれど、なぜか急に麻乃のことが気になって訪ねてきた。

 もう辺りは真っ暗なのに、明かりがついていない。


(まだ柳堀にいるんだろうか?)


 ノックをしてみても返事はない。がっかりして帰ろうとしたとき、中でなにかが落ちたような鈍い音が響いた。


(誰かいる――?)


 鴇汰は背負った大剣の柄を握り、ドアノブに手をかけると、ゆっくりと回してみた。カチャリと音を立ててドアが動いた。鍵がかかっていないのか。押してみると、かすかに軋む音を立てて開き、鴇汰は気配を殺して、そっと中へと入る。


 暗い部屋の中はひどく乱雑で、散らかっているだけなのか荒らされたのか、鴇汰には判別がつかなかった。


(どうなってんだ……? まさか麻乃の留守中に泥棒でも入ったのか?)


 昼間、麻乃はここに自分が住んでいるから強盗も来ない、などとうそぶいていたけれど、誰もいなければ忍び込むやつがいたって不思議じゃない。


 殺気は感じないけれど、人のいる気配はする。息を殺して周囲を見回すと、低くうめくような声が奥から聞こえた。声のしたほうへと暗闇の中を辿っていき、奥の部屋を覗くと、体を丸めてベッドに横たわっている麻乃を見つけた。


「麻乃! どうしたんだよ!」


 急いで近寄り、麻乃の肩に触れた。他に人の気配はない。襲われた様子もなかった。ほっとして、肩の力が抜けた。


「なんだ鴇汰か……ちょっと腕が痛むだけ。なんでもないよ……」


 辛そうな表情を浮かべた麻乃は、またうめくと、左腕を強く押さえてさらに体を丸めた。


「なんでもないわけがねーだろ! 見せてみろよ!」


「触らないで!」


 腕を取ろうとした瞬間、麻乃に思いきり怒鳴られ、その勢いに驚いて手が止まった。


「ごめん、今は触れられるだけでキツイ……でも平気だから。じっとしていればすぐ治まるから」


「そんな状態で平気じゃねーだろ……医療所行くか?」


 嫌がるように、麻乃は首をかすかに横に振る。見た感じでは無理に連れていくのも難しそうだ。


「じゃあ、痛み止めか何かないか?」


「……テーブルに……ある」


 背負っていた大剣を降ろして床に立てかけ、明かりをつけた。テーブルの上から痛み止めを探し出すと、水を汲んで麻乃に飲ませた。

 効き始めるまで少し時間がかかるだろう。


 それにしてもひどい痛がりようだ。

 西浜での防衛戦のときに受けた傷のせいなんだろうか?

 そばに座って様子を見ていることしかできないのがもどかしい。


 しばらくして麻乃は少し落ち着いたのか、左腕を押さえている右手を緩めた。

 麻乃の手が伸びてきて、鴇汰の手首を掴んだ。思わずぎくりとする。


「……修治には黙ってて」


 と、麻乃は言った。

 こんなときにも修治の名前が出ることに腹が立ったけれど、今はそれどころじゃないとわかっていた。——わかった、という意味で、麻乃の手をぎゅっと握った。


 部屋の中が荒れてるのは単に散らかしてるだけじゃなく、痛みで暴れたのかもしれない。

 ふと、そんな気がして、今にも眠りそうな麻乃の頬にそっと触れた。


 今日、柳堀で黙っていれば、隠したり誤魔化したりしてやり過ごせた。けれど、想いを口に出してしまった以上、もう気持ちは止まれない。麻乃が未だに修治を気にしていることも、さっきの告白の返事を聞いていないことも、今は問題じゃない。


 大陸からは相変わらず妙な攻撃が続いているし、麻乃はこれから訓練で忙しくなる。そうなると、同じ西区にいたところで顔を合わせる暇もないだろう。

 鴇汰には、こんな時間でさえも大切に思えた。たった今、麻乃のそばにいられること、それだけが重要に感じる。


 辛そうな表情を浮かべて浅い呼吸を繰り返している麻乃の背中をそっとさすりながら、鴇汰は黙ったまま見守った。このまま痛みが治まるようならそれでいいし、続くようなら無理やりにでも医療所へ連れて行こう。


 どのくらい時間が経っただろうか。


 麻乃は眠りについたようで安定した寝息を立てている。顔にかかった髪を撫でて払い、そっと頬に唇を寄せてから、静かに身を起こした。


 麻乃の部屋の明かりを落とし、音を立てないようにドアを引いて居間へ出ると、部屋をぐるりと見回す。入ってすぐは荒らされたのかと思ったほどの散らかりように、変な笑いが込み上げてきた。


 食器を片づけ、あちこちに置き去りにされた本を書棚へしまった。読みさしになっていた本は、それぞれに(しおり)を挟んだ。


「よくもまぁ……こんだけ散らかせるもんだよな」


 独り言を呟きながらテーブルや床を雑巾で拭き、ゴミをまとめて捨てた。冷蔵庫の中を確認すると、一人暮らしには十分な量の食材が残っている。それを使って温めればすぐに食べられるものを作り、テーブルへ並べた。


「まぁ、こんなところか……」


 あまり物音を立てては、麻乃が目を覚ましてしまうかもしれない。細かな汚れや整頓は、そのうち時間を作って片づけに来てやればいいだろう。


『防衛成功、清掃任務完了。飯は作り置きもあるから、しっかり食っとけよ』


 鴇汰はメモ書きを残してテーブルへ置き、玄関の鍵を閉めてから、それを郵便受けへ落とし、麻乃の家をあとにした。

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