第30話 過去と現在
鴇汰が店のドアを開けると、おクマが煙草の煙をたゆらせながら、こちらを見た。
「アラ、来たわね色男。遊んでくるのかと思ったら、ずいぶんと早いじゃない」
「なに言ってんだよ。遊んでくるわけがないじゃんか……」
「へぇ、あちこちの歓楽街で、さんざん遊び回っていた男のセリフとは思えないことを言うじゃないの」
ちらりと横目で鴇汰を軽く睨んだおクマは、煙草を灰皿に押しつけた。
「そんなの六年も前の話じゃねーの……俺はもうそういうのはやめたんだよ」
店内を見回して、奥の席でネエさんたちに遊ばれている麻乃の姿を見つけると、カウンター席に腰かけた。
「ったく麻乃のやつ、人を置き去りにして、勝手に出ていっちまうんだからよ」
「あの子なりに気をつかったんでしょ。あそこにはアンタに気のある女がいるんだものねェ? だからてっきり、遊んでくると思ったんだけどね」
「そんなの気づかいでもなんでもねーよ。俺はね、もう昔みたいなことはしないの!」
「男はみんな、同じコトを言うわよねェ」
おクマは意地悪な目つきでそう言って笑う。
「だからっ……! ったく……そう決めて遊ぶのをやめて、もう六年もたってるってのに……まだ言われんのかよ……」
「アンタの場合は特別よォ。派手にやってサ、目立ってたんだもの。だいたい、今さら誰かに勘違いされて困るって訳でもないでしょ?」
「困るから言ってんだよ!」
口を尖らせてむくれた鴇汰の前に、コーヒーが置かれた。
「ねェ、あの子ったら……絶対に戦士になるなんて言っちゃってサ、見ていて辛くなるほど、それこそ泣きながら鍛錬を重ねて血反吐まで吐いて、蓮華の印なんかもらっちゃったときは、どうなることかと思ったけど――」
キャアキャアと笑い声の響く奥の席を見ながら、おクマがつぶやく。
「なかなかの女になったと思わない? 色気は足りないけど腕は立つし……アタシがもう少し若くて男だったら、放っておかないんだけどねェ」
「男だったら、って――」
(あんた外側は男じゃねーかよ)と思いながらコーヒーに口をつけ、あまりの濃さに顔をしかめた。湯気の向こうで、おクマがくすくすと笑っているのが見えた。
「ママ、ホラこれ! 見てちょうだいよ」
奥にいたネエさんが、麻乃の腕を引っ張ってきた。
「アラ、いいじゃないの。見違えるわァ」
「ちょっとネエさんたち、もう本当に勘弁してよ……」
麻乃があまりにも情けない声を出しているので、一体、なにをされたのか気になってのぞき込むと、その顔にはしっかり化粧が施されている。
カップに口をつけていたせいで、鴇汰は思い切り吹き出してしまった。
にっこりと微笑んで振り向いた麻乃の目は笑っていない。
「おかしくて悪かったね。あんた、こいつの最初の獲物になりたいようだね」
鬼灯の柄に手をかけている。どこまで本気なのかわからない辺りが怖い。
「笑ったんじゃねーよ! ちょっと驚いただけだって」
「いいよ別に。自分でも似合ってないのはわかってるからさ」
「そんなことないぜ? 俺はいいと思うしよ」
「もういいってば。それ以上言うと本当に抜くよ」
麻乃は本気で鴇汰を睨んでいる。
これ以上言うと喧嘩に発展しそうな気がして、鴇汰は黙った。麻乃はタオルで化粧を拭き落として椅子に腰かけると、食べかけのままになっていたケーキに手を伸ばしている。
(あれだけしっかり飯を食ってたくせに、まだ食うのかよ?)
鴇汰が呆れてみていると、麻乃は目線を落としたまま、小さな声でぼそっと言った。
「松恵姐さんのところで、ゆっくりしてくれば良かったのに」
「あんなトコに取り残されたって、俺は困るの」
「まぁ、それもそうか……彼女にも悪いだろうしね」
「そんなもん、いないから別に関係ねーけどな」
「……いない?」
麻乃はいぶかし気な目で見つめてきた。麻乃にまで信用されてないのかと思うと、さすがに鴇汰もショックだ。理恵とのことを疑っているんだろうか?
変な言い訳をするつもりはないけれど、誤解されたままじゃ嫌だと思った。
「自慢できることじゃないけどよ、生まれてこのかた、彼女なんざいた試しがねーもん」
おクマが新しく淹れ直しているコーヒーの香りが、店中に広がっている。カウンターに頬杖をついて、鴇汰は食べる手を休めない麻乃を眺めた。
「俺はガキのころに、一緒になるならコイツだ、って決めた相手がいるわけよ」
言いながら、鴇汰の目は麻乃の横顔を追っていた。
まだ幼かったころ、大人を相手に立ち回る小さな女の子の姿に、ひと目で惹き付けられた。あれが麻乃だったと知ったのは、もう少し後のことだ。
戦士になりたいと思ったのも、剣を握ったのも、あの日から始まっている。隣に立てるようになりたかった。ただそれだけが、ずっと鴇汰を動かし続けてきた。
「へぇ、そうなんだ」
気のない返事が返ってきた。麻乃はケーキの方を見たまま、鴇汰の顔すら見ていない。
「けど気づいたらそいつ、身近にいた男と付き合ってやがって……。知ったときは、しばらく何もする気になれなかった」
鴇汰は前髪を掻き上げるようにして頭に触れた。
気づいたら花街に向かっていた。どれだけほかの女と過ごしても、帰る部屋には麻乃がいなかった。それだけのことで、ちっともうまくいかなかった。
それなのに――。
「しばらくして、どうやら別れたらしいって知って、チャンスかと思ったけど……焦るのもどうかって思ってのんびり距離を縮めてたんだよな」
麻乃が別れたと聞いた時、今度こそはと思った。ただ、傷ついているであろう麻乃の気持ちにつけ込むような真似は、なんだか卑怯な気がした。麻乃の心が癒えるのを待ち、自然に距離を縮めていこうと決めた。
「そしたらそいつ、ポッと出てきたくだらねぇ野郎に、あっさりたぶらかされて放り出されて……最近は最初の男とまた、なんだかやけに接近してるしよ」
「あ~、なんか面倒臭そうな相手だね。あたしが口を出すのもなんだけど、あんたならその気になれば、いくらでもいい子がみつかるんじゃないの?」
なにもわかっていない――。
鴇汰を見ることもなく、的外れなことをいう麻乃に、苦笑いをするしかなかった。この話をしているあいだ、麻乃は一度も鴇汰の顔を見ていない。ケーキを口に運ぶ手だけが、きちんと動き続けている。
「俺もそう思って、ほかの女の子に目を向けてみたりもしたけどな。駄目なんだよな。どうしてもそいつじゃないと駄目だって言うのよ。心がさ」
言いながら、鴇汰は自分の手元を見た。コーヒーカップを持つ指先が、僅かに白くなっている。気づかないうちに、力が入っていたらしい。
鴇汰が麻乃に向き直ると、ようやく麻乃が顔を上げた。
目が合った瞬間、麻乃はきょとんとした顔をした。こんな話をされるとは思っていない、そういう顔だ。
麻乃の目を真っすぐに見て一呼吸、置いてから、思い切って言う。
「ほかの誰かなんて駄目なんだ。どうしても、麻乃じゃないと駄目なんだよ」
言葉が口から出た瞬間、鴇汰は息を止めていた。ついに言ってしまった。長い間、胸の奥に押し込めてきた言葉を。
麻乃はケーキを持った手を止めたまま、鴇汰を見ている。なにも言わない。
聞こえていなかったのだろうか。それとも——。
「そこで黙るなよ……ってか、食ってるなよ。なにか言えって」
麻乃はまだ、ケーキのフォークを中途半端に持ったままだ。食べていいのか止めるべきなのか、そこから迷っているようにも見えた。
はっとわれに返ったように麻乃は驚いた表情をすると食べていた手を止め、おずおずと聞いてきた。
「あ、あぁ……えっ? だけどあんた、それじゃあ……」
「ヤダー! 鴇汰ちゃんたら、こんなところで愛の告白ゥ?」
いつの間に側に来てどこから聞いていたのか、麻乃の言葉に被せるように、ネエさんたちが騒ぎ出す。
「駄目よォ、こんなところじゃ。そういう告白はねぇ、もっとムードのある場所でしなきゃ」
「そうそう、花束の一つでも抱えて、ねェ」
「スタイルだって、ばっちり決めないと」
「ちょっと! ネエさんたち、頼むから今は邪魔すんなって! 俺――」
口々に話し合っているのをさえぎって言いかけたとき、店のドアが勢いよく開いて岱胡の隊員が駆け込んできた。
「長田隊長、探しましたよ! 沖に敵艦が現れました! うちの隊長がすぐに戻ってほしいって……」
「なんだって? 来るかよ、普通……このタイミングで……あーっ、クソッ!」
鴇汰は頭をかきむしると、立ち上がった。まだ状況を把握していない様子の麻乃が、相変わらずきょとんとした顔でこちらを見上げている。
その顔を見ていると、変な笑いが込み上げた。よりによって、このタイミングで。
ぽんぽんと麻乃の頭をたたいてから、鴇汰は言った。
「俺、行くわ。また今度な。それからおまえ、謹慎中なんだから浜には来るなよ」
迎えに来た隊員をうながし、鴇汰は店を飛び出した。
走りながら、麻乃の言いかけた言葉が頭を離れなかった。
(だけどあんた、それじゃあ——)
続きを聞けなかった。一体、なにを言おうとしたんだろうか。




