第29話 柳堀の人々
おクマがいきり立って松恵に突っかかっていく。嫌な予感がして、麻乃はこのあとどう出るべきか考えていた。
「ちょっとアンタ! うつるってなによ。あたしゃアンタと違って、性悪病なんざ持っちゃいないわよ」
松恵はちらりと横目でおクマを眺め、ふん、と鼻であしらって麻乃の髪をなでた。
「麻乃ちゃん、久しぶりじゃないの。食事ならうちに来なさいな。うちのほうがおいしいものを出すし、女の子たちもあんたの顔を見たら喜ぶわよ。鴇汰くんも、ずいぶんとご無沙汰じゃない。寄ってくれると理恵ちゃんが喜ぶわ」
にっこりと微笑む松恵の言葉に、麻乃は思わず鴇汰の横顔を確かめようとして、視線を上げた。
「理恵ちゃん……ね」
どの地区に行っても、鴇汰が女の子たちに人気なのは知っているけれど、特定の名前が出てくるとは思わなかった。理恵は松恵の店でも人気がある美人なのを、麻乃も知っている。
「ばっ……ちょっと姐さん! 違うぞ! 今は俺、誰ともなにもないからな!」
焦って言い訳をする鴇汰の肩の向こうからおクマが顔を出した。鴇汰の肩に手を回して抱き寄せ、挑発するように松恵を睨んでいる。
「嫌ねェ、この年増女ったら。鴇汰ちゃんは今、麻乃ちゃんを連れてるのよ? 女をあてがうようなことを言うなんてサイテーよねェ。こんな女のところで食事なんかしたら、それこそ性悪がうつるわよォ」
「お黙り! 熊吉! アンタはさっさと帰ってヒゲでも剃っといで!」
ぴしゃりと言った松恵の言葉に、おクマは両手で口を覆うと息を飲んで顔を真っ赤に染めた。
「ちょっと! 本名で呼ぶんじゃないわよ! ヒゲだなんて……まったく、なんてデリカシーのない女なの!」
二人の間に火花が散って見えた気がして、麻乃は目眩を覚えた。
「ちょっと……やめようよ、ね? みんなが見てるから……」
おろおろとしながら、止めに入ろうとした麻乃を押しのけ、鴇汰が割って入ってきた。三つ巴になりそうなこの状況、誰から止めればいいのか迷う。
「二人ともやめろって! 俺たちはこれから食材を買って家で食うよ。こいつの飯は俺が――」
麻乃はまず、鴇汰から止めることに決めた。鴇汰の鳩尾に肘鉄を食らわせて黙らせてから、睨み合う二人のあいだに割って入った。
おクマの腕を取って、その顔をのぞき込むようにして訴える。
「わかった! こうしよう。お昼ご飯は、松恵姐さんのところで食べる。おクマさんのところには、そのあと、お茶をしに行くよ。この間、巧さんにもらったチーズケーキ、本当においしかったもん。あたし、それが食べたい! 濃いコーヒーと一緒に。ね? それでいいよね?」
おクマの視線が松恵から麻乃に移ったのを確認してから、にっこり笑ってみせる。おクマが麻乃に弱いと知った上で、あえて甘えてみせた。これ以上、おクマの頭に血がのぼったらと思うと、これが最良だから。
「んもう……アンタがそう言うなら、いいわよ、それで」
仕方ないわね、そう言ってようやくおクマが微笑んだ。思った通り、おクマの怒りが鎮まって、麻乃は心の底から安堵した。あとは、松恵だけだ。できる限り柔らかな笑顔を作ってみせる。
「姐さんも、ね? 買い物を済ませたら店のほうに行くから」
「そう? それじゃあ支度して待ってるからね」
おクマと松恵は目を合わせると、フン、と互いに顔を逸らせて、いそいそと店に戻っていく。それを見送って大きなため息をつく麻乃を、鴇汰がお腹をさすりながら、納得のいかない顔つきで睨んできた。
「なんだよ、うまく逃げようと思ってたのによ」
「だって、あのままじゃ大変なことになったよ。あの二人はあれで剣術と武術じゃ、この国の一、二を争う腕前なんだから。喧嘩でも始まったら、あたし恐ろしくて止めになんか入れないよ」
「あ……熊吉って、もしかして榊熊吉? おクマさんって榊熊吉だったのか!」
鴇汰が思い出したようにあげた名前は、おクマの本名で、剣を学ぶ者ならその名を知らない者はいないほど有名だ。
「おまえ、すごいのに気に入られてんだな」
「おクマさんはあたしの亡くなった父親の友達だったんだ。だから可愛がってくれるの。松恵姐さんは、昔、酔っ払いに絡まれてた姐さんのところの女の子を助けてから良くしてもらってるんだよね」
とりあえず、買い物をしてから行くと言ってしまった手前、まずは買い物をしなければならない。渋る鴇汰を引っ張って市場へ足を向け、オレンジを買い込んだ。近々、オレンジを使うことになるからちょうどいい。
例年よりも安く売っていたので、つい大量に買い込んでしまった。
松恵の店に着くと、まだ人の少ない店内に入った。
入ってすぐの場所は食事ができるようになっていて、奥の間と、階段を上がった二階が妓楼として使われている。
松恵に促されてカウンターに座った。
出された料理を食べながら、鴇汰が小声で麻乃に言う。
「うまいけど、絶対に俺のほうが勝ってんだろ?」
「あんたの料理は破壊力、抜群だよね。あたし最近、お気に入りの店のご飯じゃちょっと物足りないもん」
「ほら見ろ。だから俺が作るって言ったじゃんかよ」
「いいじゃない。外で食べるのもさ。ちゃんとおいしいんだから」
得意げに言う鴇汰を、麻乃は軽くたしなめた。
「それにしても本当に久しぶりねぇ。たまには顔を出して、元気でいるところを見せてちょうだいよ」
松恵は麻乃の湯飲みに熱いお茶を注ぎながら言う。仕込みをしながらなのに、細やかな配慮ができるのを、麻乃は凄いと思った。
「うん、こっちに戻ってから忙しくて。これからは時間ができたら、時々、顔を出すよ。夕飯も毎回、同じところだと、ちょっと飽きちゃってさ」
「そりゃあそうでしょうよ。うちはいつでも来てくれて構わないんだからね」
「うん、ありがとう」
食事も済みかけた頃、奥の階段から姐さんたちの艶やかな声が響いてきた。
見るともなしに目を向けると、姐さんたちと一緒にいるのは、麻乃の隊員たちだ。
「あ……杉山」
視線が合い、麻乃はつい名前を呟いた。
「……え?」
名前を呼ばれたことで、麻乃に気づいた杉山と石場、山口に高尾の四人は、固まったように足を止めた。
「なんだ、あんたたちも来てたんだ?」
「あ……あ、麻乃隊長! なんでこんなところに!」
「うん? あたしはご飯を食べに来たんだけど」
「え……? 長田隊長!? あんた……うちの隊長をこんなところに連れてきて――!」
「一体、なにを考えてるんですかっ!」
「お……俺じゃねーよ! 俺も連れられてきたの!」
四人は横にいる鴇汰を見て、その前に駆け寄ると口々に鴇汰を責め立てた。あまりの勢いに鴇汰はたじろぎ、麻乃は呆然としてそれぞれを交互に見た。
「なにを怒ってんのよ? 別に恥ずかしいことでもないでしょうが。男の生理とか付き合いとか、いろいろあるんでしょ? そういうの、しょうがないことなんだから平気だって。修治も昔、そんなことを言ってたしね」
お茶に口をつけて麻乃がそう言うと、四人は真っ赤になってさらに固まった。隣に座る鴇汰も見たことがない表情をしている。
「おまえ、アホかよ! そういうこと、聞くな! 言うな!」
「だからなにをそんなに怒ってんのよ? 気にすることでも怒ることでもないでしょうが……」
四人と同じように真っ赤になった鴇汰が、憤慨した様子で怒鳴ったせいで、奥にいた姐さんたちが鴇汰に気づき、群がってきた。あっという間に囲まれて、周囲がいきなり賑やかになる。中に理恵ちゃんの姿も見えたので、麻乃は席を二つほど移動した。
「まあまあ、急に騒がしくなっちゃって……」
カウンターの向こう側で、松恵が困った顔で微笑んだ。
抱きつかれたり、手を握られたりしている鴇汰の姿を、眺めていた。麻乃はコーヒーに口をつけてから、松恵に尋ねてみる。
「鴇汰のやつ、結構人気があるんだ?」
「鴇汰くん? そうねぇ、人気はあるわよぉ。なかなかいい男じゃない? まあ、鴇汰くんに限らず、麻乃ちゃんのところの男衆は綺麗に遊ぶから、どの子も人気があるわね」
「へぇ……あたしはいつも一緒にいるから、全然わかんないけど」
「最近はちっとも姿を見せないけれど、修治くんも穂高くんも、みんな、いい男じゃない?」
素っ気なく答えた麻乃に、松恵はそう言ってほほほと笑った。
「それじゃあ姐さん、あたしそろそろ行くわ」
「もう? 絶対に、また来なさいよ? ああ、それから……ちょっといいお茶が手に入ったから、熊吉に持っていってくれる?」
なんだかんだといがみ合っても、結局、仲は良いらしい。立ち上がり、みんなの分も合わせてさっさと支払いを済ませ、賑やかな輪を通り抜けた。
「鴇汰。あんた、せっかくだから、もう少しいてあげるといいよ。それじゃあ姐さんがた、こいつらのこと、よろしくお願いします」
市場で買い込んだオレンジと、預かったお茶を抱え、急いで松恵の店をあとにした。
さすがに一人で持つにはオレンジの数が多すぎて、よたよたと歩き、おクマの店の前にたどり着いた。
店の入り口で待ち構えていた、松恵の店とは違う意味でのネエさんたちが、荷物を受け取ってくれて、中へと招かれる。
「松恵姐さんがね、いい茶葉が手に入ったから、おクマさんに、って」
「あらそう。麻乃ちゃんどうする? このお茶、飲んでみる? それともコーヒー?」
「ん~、最初はコーヒーもらおうかな」
おクマはカウンターにケーキを数種類と、コーヒーを並べた。
「鴇汰ちゃんはどうしたのよ?」
「なんだかモテてたから置いてきた」
目の前に出されたケーキを引き寄せると、麻乃は当たり前のように端から順番に口に運んだ。それを眺めながら、おクマは懐かしそうに目を細める。
「アンタってホントに麻美にそっくり。その癖毛は隆紀譲りだけどねェ」
麻乃は手の中のフォークを一瞬止めてから、また何事もなかったようにケーキを口に運んだ。
おクマの昔話は長い。
特に麻乃の両親の話ともなると、一晩中でも足りないほどだ。
子供の頃から何度となく聞かされてきた。
嫌じゃないけど、このあと、話がどう続くのかは容易に想像できる。
生返事をしながら、せっせとケーキを頬張った。
「もォ~、ママったら話長いんだから。麻乃ちゃん飽きてるわよォ」
後ろから、首に絡みつくように腕を巻きつけてきたネエさんに、まだ食べかけのところを引っ張られて、麻乃は奥の席に連れていかれた。




