第27話 遅い夕食
小走りで帰ってきて宿舎に駆け込むと、麻乃はまず鴇汰の部屋に向かった。廊下を走りながら時計を確認すると、針は七時四十分を指している。夕飯の時間としては少し遅い時刻になってしまった。
扉の前に立ってノックすると、中からばたばたと足音が響き、ドアが勢いよく開いた。麻乃は思わず一歩後退った。
「やっと来たか」
「ごめん、遅くなってるのに悪いんだけど、もう少しだけ時間ちょうだい」
「なんでよ?」
「走ってきたから汗をかいたんだ。シャワーと着替え、してきたいんだけど」
「あぁ、そういうことなら……」
鴇汰の答えにうなずくと、すぐにまた駆け出して自分の部屋に帰った。
数十分後、身支度を整えて鴇汰の部屋に戻ってくると、さっきは気づかなかったけれど、部屋の扉の外までいい匂いが漂っている。香ばしいような、食欲をそそるような匂いだ。
もう一度扉をノックすると、中から入れよ、と鴇汰の返事が聞こえ、麻乃はためらいつつドアを開けた。途端に美味しそうな匂いが勢いよく広がって食欲をくすぐり、おなかが小さく鳴る。
「待たせてごめん。思ったよりは早く済んだんだけど、夕飯には遅い時間になっちゃったよね」
「別に構わねーよ。待ってるって言ったのはこっちなんだし、麻乃が来てくれたことのほうが重要だから」
真っ直ぐそう言われて、麻乃は俯いた。耳たぶまで熱くなるのがわかって、どうしようもない。そういえば鴇汰は昔から、いつもそばに女の子を連れていた。綺麗な子もいれば、愛嬌のある子もいて、どの子も鴇汰ととても親しそうにしていたっけ。
それに鴇汰は元来、口がうまい。こんなふうに言われて嬉しくない女の子はいないと思う。きっと誰にでも同じようなことを言うのだろう――そう思った瞬間、さっきまで温かかった気持ちが、すうっと冷めていく気がした。胸の奥がちくりと痛む。自覚してしまってから、こういうときがいちばん厄介だ。
「お邪魔します……」
沈んだ気持ちのまま部屋に入ると、こちらを向いた鴇汰の動きが止まった。
「――えっ? なんでパジャマ?」
「うん。戻ったらすぐ寝るから」
「なんだよそれ? 麻乃って本当に変わってるよな。色気より食い気だしよ。髪も濡れたままじゃんか」
まくりあげた袖を戻しながら、鴇汰は呆れた顔を見せる。
「だって色気で腹が膨れるわけでもあるまいし。いいの。あたしはこれで」
椅子を引いてくれたので腰をおろすと、首にかけていたタオルで濡れた髪をわしわしと拭いた。
鴇汰が小さな調理場で忙しなく動いているあいだ、麻乃はあらためて部屋の中をぐるりと見回した。
本当に綺麗に片づいている。
壁際の棚を見ればいろいろと本や小物が整然と置いてあるから、ものがないわけじゃないのに少しも散らかっていないことが不思議だった。
(ほかにどんな人が、この部屋に招かれたんだろう。そのとき鴇汰は、どんな顔をして――)
思考がそこで止まる。先を考えようとして、麻乃は静かに首を振った。想像しても、いいことは何もない。
色気より食い気か、と言われてしまった。ごまかすつもりはないけれど、鴇汰の前でだけは、そう思われていることが情けなく感じる。女性らしさというものを、すべてどこかに置き忘れてきてしまったんだと思う。今更どうしろというのか。
麻乃はため息の手前で息を止め、箸を持ち直した。
朝、言っていたとおり、鴇汰はずいぶんと手の込んだ料理を次々と出してきてテーブルに丁寧に並べていく。白身魚の焼き物、貝を使った汁物、色鮮やかな野菜の和え物――どれも麻乃の好きなものばかりだ。湯気が立つ温かい料理と冷たい料理のバランスも考えられているようで、見た目も美しい。
どうして知っているのだろう、と思いかけて、すぐに気づく。ずっと、見ていてくれていたのだ。その事実を、麻乃はカップを両手で包むようにして、静かに受け止めた。
鴇汰が向かいの椅子に腰をおろすのを待ってから、麻乃は小さく手を合わせていただきます、と言って食べ始めた。
戦争ともなると大剣を振るっているその同じ手で、一体なんでこんなに繊細なものが作れるんだろう?
見た目だけじゃなく味も、西区でよく通っているお気に入りの店よりも美味しい。
(まぁ……そもそも、ほかのみんなも自炊やらなんやらでちゃんとしていて、人間の食べられないものを作るのは、あたしくらいか……)
口に運びながら、つい一人で苦笑いをした。
「そんで、どうだったのよ? 選別」
「うん、どうも今ひとつ、って感じかな」
「だって訓練生だろ? 経験が浅いんだし、しょうがねーよ。けど、あいつらは化けるからな。意外とあとで面白いことになるかもよ」
「うん、修治にも同じようなことを言われたんだよね」
「ふうん」
ちっ、と軽く舌打ちをして、そっぽを向いた鴇汰を上目遣いに見ると、麻乃は自分の気持ちを正直に打ち明けた。
「鍛え上げて育てるのもいいんだけど、時間がね……あたしは一日も早く部隊を立て直したいから」
鴇汰の目が驚いたように麻乃に向く。フッと小さく息をついて真面目な表情をした鴇汰から、今度は麻乃のほうが視線を外した。
「急ぐのもわかるけどよ、おまえの部隊は息が長いから、焦って選ぶとあとで後悔するぞ?」
「人数が多い分、経験の浅い子を増やすと動けない時間も増えそうでさ」
「そこは残ったやつらも協力してくれるんじゃねーの? 取る気がないと、いいやつも見逃すぜ」
「ん~、そうかなぁ?」
「まぁ、今日はあまり良くなくても、まだ三カ所も残ってんだし、まずは手広く見てだんだんと詰めていけよ……って、聞いてんのかよ?」
鴇汰が話しているあいだも、箸を休めず食べ続けていたからか眉をひそめ、麻乃の顔をのぞき込んできた。
「えっ? うん、ちゃんと聞いてるよ。そうだね……言われたとおり、手広く見てみることにするよ」
「いいよ、もう。食ってるおまえに真面目な話は無理だもんな。食い終わってからにするよ」
「そんなことはないよ、ちゃんと聞いてるってば。でも本音を言うと、話はあとのほうが嬉しいかも。だって、どれも凄く美味しいもん」
一度、箸を止めると姿勢を正し、むくれた顔でため息をついた鴇汰にそう言った。途端に鴇汰の表情がぱっと明るくなったように見えて、麻乃は思わず目を伏せた。こんな顔をされると、困る。
「マジで? これさ、時間がなくて結構手を抜いたのよ。うまかったんなら、よかった」
「手を抜いてこれ? あんたってホントに凄いよね」
鴇汰は照れ臭そうに笑いながら、自分のぶんを頬張っている。
ぽつりぽつりと、とりとめのない話をしながら食事を済ませ、鴇汰がコーヒーを入れてくれたころには、もう時計は十時を回っていた。
「すっかり遅くなっちゃったね。長居して本当にごめん」
「別に構わねーよ。俺が呼んだんだから。明日は昼前に出りゃあいいんだし」
「そっか。じゃあ、寝る時間は十分あるね」
休んでいるあいだの持ち回りを負担させていることで、体調を悪くされては困る。ほっとして言った麻乃の言葉に、鴇汰は片づけをしていた手を止め、不機嫌な顔で振り返った。
「まだ日付も変わってないんだぜ? 少しくらい朝早くたって、まだ寝なくても平気な時間だよ」
「そうは言ってもさ、あたしらのぶんまで持ち回りが増えてるんだもん、睡眠くらいはちゃんと取ってもらわないと心配だよ」
「だから、そういうの全然平気だって言ったろ? 嫌だったら呼ばないし、とっくに帰してるっての。睡眠だってちゃんと取ってるしよ」
がちゃがちゃと音を立てて食器を洗う鴇汰の背中を、麻乃は静かにじっと見つめた。幅のある肩、しっかりした背中。普段は戦闘服に隠れているが、こうして見ると改めて鴇汰の体格の良さがわかる。
麻乃の言葉は、なぜか鴇汰を苛立たせることが多いようだ。話していると鴇汰の表情にムッとした色が浮かぶのを、昔からよく見てきた。自分ではおかしなことを言っているつもりはない。だから何が原因なのかも、ずっとわからないまま。
さっきも、今もそうだ。
本当はもっと気軽に、楽しく話せたら良いのにと、麻乃はいつも思っているけれど、現実はなかなかうまくいかない。
(ほかの子が相手なら、もっと鴇汰は自然に笑うのかな……? 一体、どんな話しをして、どんな時間を過ごすんだろう?)
持ち回りや部隊のことばかり考えていると、普通というのがよくわからなくなる。巧はそれを普通だと言ってくれたけれど。
本当は鴇汰とも、もっとたくさん話をしたいと思っているのに、どうにもうまくいかなくて、つい思考が変な方向に偏ってしまう。コーヒーカップを両手で包んで俯いていると、湯気がふわりと頬に当たった。
鴇汰はすっかり後片付けを済ませて戻ってくると、改めて麻乃の向かい側に腰をかけた。不機嫌そうな表情はもう消えている。
「それより、俺、あさってまでの北詰所が終わったら、次の持ち回りは西詰所に一カ月なんだよ」
「へぇ……同じ詰所に一カ月ってずいぶんと長い期間だね。そんなの初めてじゃないの?」
「だよな。俺も驚いたし、みんなも驚いてた。で、西詰所って麻乃んトコから近いだろ? 俺さ、暇なときとか飯でも作りに行ってやるよ」
「ええっ! うちに?」
驚いてつい大きな声を出してしまうと、鴇汰は麻乃を見て眉をひそめ、探るような視線でたずねてくる。
「なんだよ? なにか問題でもあるのか?」
「いや、ホラ、あたし選別があるから家を空けることが多くなるし、それに今、道場に指導にも出てるからさ、来てもいないかも……」
突然の申し出にうろたえ、慌ててそう答えると、急に柔らかな表情で鴇汰が笑った。胸がうるさくなって、冷静に返事を考えられなくなる。鴇汰がこんな風に笑うのを見たのは、いつ以来のことだろう。
「――どーせ散らかしてんだろ? 家の中」
見透かしたような目で見つめられ、焦りと恥ずかしさで顔が熱くなる。違うと言えないほど、麻乃が部屋を散らかしているのは確かだ。そんなに物を動かしているつもりはないのに、気がつくとあちこちに物が置き去りにされて、修治に小言を言われている。
「大体、おまえんちが散らかってるだろう、ってのは見なくても想像がつくよ。ついでだから掃除もしてやるって。休みか暇なときだけな」
そう言いながら鴇汰は笑う。
笑い合って、楽しく過ごせたらいいと思ってはいるけれど、それはこういう感じではない。
とはいえ、この雰囲気は心地よくて嬉しくなる。今さら飾り立ててみせなければならない相手でもない。そう思うことにして、麻乃は真っ赤になったまま、黙ってうなずいた。カップを包んでいた指が、ほんの少しだけ強く、陶器を握り締めた。




