第1話 凪の朝
*** 麻乃
夜明けの色がまだ空に残っているうちから、西浜の詰所には、麻乃の姿があった。
誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残る。隊長になってからずっと、それがあたりまえになっていた。
詰所の裏手へ回ると、堤防の向こうに海が広がっているのが見える。西浜。朝凪の水面が、白みかけた空をぼんやりと映していた。麻乃は腰の紅華炎刀を抜き、ゆっくりと構えた。刃を朝の光にかざし、そのまま静かに振り下ろす。空を裂く音が、まだ誰もいない浜辺に短く響いた。
――先んじる者が、いちばん多くを背負う。
誰かの言葉だったか、師範の教えだったか、今ではもう、どちらだったか思い出せない。ただ、その一言だけが、体の芯に残っている。六歳の、あの日から。
麻乃は一度だけ、腰のもう一振りに触れた。炎魔刀・炎。母の形見だ。戦いで使うことはない。ただ、いつもそばに置いている。それだけで、なんとなく、心細さが薄れる気がした。
(……らしくない)
小さく頭を振って、麻乃は刀を鞘に納めた。感傷は、隊長の顔には似合わない。
「隊長、また眠れなかったんですか」
詰所に戻った麻乃に、目ざとくそう言ったのは、すぐ隣の宿舎から出てきた葛西だった。麻乃のわずかな顔色の変化を、この男はいつも見抜く。一緒に談話室へ向かいながら、口を尖らせて言いわけじみたことを呟く。
「そんなことないよ。……ちょっと早く目が覚めたから、刀の手入れをしてただけ」
「はいはい。そういうことにしておきますよ」
葛西が笑う。談話室の片隅で、辺見が黙々と隊員たちの得物を検めていた。口数は少ないが、辺見が「異常なし」と言えば、それだけで隊の全員が安心する。そういう男だ。
「相変わらず、辺見は喋らねえなあ」
矢萩が、へらへらと笑って肩をすくめる。古株のくせに、隊でいちばん口が軽い。
「おまえが喋りすぎなんだよ」
小坂が、あくびを噛み殺しながら返した。七番部隊でいちばんの古株で、麻乃より一回りも年上の男だ。
――この古株たちとは、もう長い。
麻乃がまだ蓮華になりたてだったころ、右も左もわからないまま先陣を切ろうとして、何度この男たちに襟首を掴んで引き戻されたか、数えきれない。両親のいない麻乃にとって、いつのまにか、この五十人は家族のようなものになっていた。誰ひとり、欠けさせるつもりはない。
やがて、宿舎のほうから隊員たちが三々五々集まってくる。
あの日、蓮華の印を受けてから、もう八年……。
隊員たちのほとんどは、その時から一緒に戦ってきている。
守りたいものがあるから、戦士になった。そう言ったときだけ、隊員たちの目は固さが取れて、まっすぐになる。麻乃はいつでも、その目を黙って見返す。
この浜の向こうから来る者を、堤防の内側へは、一歩も入れない。それができるかぎり、隊員たちの家族は、この泉翔で普通の朝を迎える。辺見は変わらず無口なままで、葛西は麻乃の顔色をまた見抜くのだろうし、矢萩の軽口も、明日には隊のどこかで聞こえる。
――そのために、あたしたちがいる。
麻乃は談話室の隅で椅子に腰を下ろし、雑談に花を咲かせる隊員たちを眺めた。もう、何年も続いてきた、いつも通りの日常。
「そういや隊長、これ」
小坂が鞄から布包みを取り出した。中身はおにぎりだった。
「五番隊の長田隊長が、余ったからって。隊長のぶんもあるって、俺が中央を出るときに、わざわざ」
麻乃は一瞬、返事に詰まった。
「……え、貰っていいの? あたしだけ? なんか……悪いね」
と言いながら、しっかり受け取っている自分に、我ながら呆れる。
同じ蓮華でもある、五番部隊隊長の長田鴇汰の作るものは、腹立たしいくらいに美味しい。ただのおにぎりだとしても。
「……なに?」
「いえ。別に」
小坂がにやにやしているのを、麻乃は横目で睨んだ。
「朝から騒がしいな」
宿舎のほうから、安倍修治が歩いてきた。四番部隊の隊長で、麻乃の幼なじみであり、兄同然の人。二つ年上で背が高く、無駄口をきかない。今日の持ち回りも、麻乃たちと同じ組だ。
「修治」
その名を呼ぶだけで、張っていた気が、わずかに緩む。物心つく前から、ずっとそばにいた人。修治がいれば、たいていのことは何とかなる。長いあいだ、そう思ってきた。
――思ってきた、けれど。
麻乃はその先を、いつものように呑み込んだ。
「なんだよ、じろじろ見て」
「いや。……なんでもない」
修治は、それ以上は聞かなかった。昔から、そういう男だった。
そのときだった。
空の低いところを、鳥のかたちをした式神が、まっすぐに詰所へ降りてきた。監視隊からの急報だ。修治が腕を掲げると、そこへ止まった鳥がメモに姿を変える。
『西浜、監視隊より各隊長へ。沖に、敵艦。数、確認中。ただし、これまでとは、比較になりません』
朝凪の海が、ざわりと色を変えた気がした。
軽口を叩いていた矢萩が口をつぐみ、葛西が表情を引き締める。辺見は無言のまま、刀の柄に手をかけた。まだ若い隊員の川上の喉が、こくりと鳴る。麻乃は紅華炎刀の柄を握り、隊員たちを振り返った。ついさっきまでの、やわらかな空気は、もうどこにもない。
「――全員、準備を」
その声は、もう隊長のものだった。




