第2話 泉翔国
シタラは子どもたちを見渡してから、ゆっくりと話を続けた。
「さて——女神さまの奇跡でこの島が生まれ、人々が戦う力を身につけようと決意したあと、また女神さまからご神託が降りたのだよ」
子どもたちがまた静まり返る。麻乃も、隣に座った修治も、その言葉に耳を傾けた。
シタラの声が、わずかに低く、厳かになった。
『十六の歳に洗礼を受けた者の中から、戦士を選ぶ。選ばれし者には三日月の守護印を授けよう。また、印を受けた者たちが迷わぬよう率いる力を持つ者を八人選び、蓮華の花の印を授けよう。ただしこれは、守る思いにのみ発揮される守護の証である。決してそれ以外のことに向けてはならぬ。毎年収穫の時期には収穫祭を執り行い、大陸に眠る女神の兄神のもとへ、蓮華の印を持つ者が奉納に赴くこと。それを守ることで、守護の力はより確固たるものとなる』
神の言葉を語るとき、シタラの声はいつもと少し違う。低く、遠く、この世ならぬものが混じり込んでくるような響きがある。麻乃は背筋がぞくっとするのを感じながら、それでも目を逸らさなかった。
「洗礼の儀が行われたのだよ。すると——選ばれた者たちの肌に、三日月の形をした痣が浮かび出たのだよ」
子どもたちがざわめいた。
「その中に、さらに蓮華の花を象った痣を持つ者が八人。八人だけだよ。この蓮華の印を持つ者は、特別な存在の証として、いつの世も八人を超えることはない。病気や不慮の事故、あるいは老齢で亡くなったときにだけ、翌年の洗礼で新たな蓮華の印を持つ者が現れるのだよ」
「じゃあ、今の八人の隊長さんたちが……?」
子どもたちの誰かが声を上げた。シタラは静かに頷いた。
「そうだよ。今の蓮華の印を持つ者たちは、みんな女神さまに選ばれた戦士だよ」
麻乃は黙ったまま、自分の手のひらを見た。まだ何もない、普通の手だ。この手に、いつかあの印が浮かぶのだろうか。浮かばないかもしれない。それでも——戦士になることだけは、絶対に諦めない。
「それからのことを話しましょうかのう」
シタラは少し姿勢を変えて、語り続けた。
戦士たちが生まれたことで、人々の心に確かな安心が宿った。万が一にも襲撃されるような事態に陥っても、何もできずに戸惑い逃げることなく立ち向かえる。戦士たちだけでは対応が出来なかったとしても、誰もが十六歳まで鍛錬を続けているのだから、易々とやられることはないだろう。
徐々に確立されていく人々の生活の中で、信仰もさらに発展していった。
島の人々は女神さまを『泉の女神』と呼び、その教えを女神信仰として守り続けた。収穫祭と奉納を執り行い、親から子へ、子から孫へと約束を語り継ぎ、それぞれが自らを鍛えながら大地を育み暮らした。
蓮華の印を持つ戦士たちだけは、毎年、収穫祭の時期が来るたびにひっそりと島を離れ、供物を手に何日もかけて大陸へと忍んだ。決して大陸の人間に見つからないよう、四つの国の中にある兄神さまたちの祠を探しだし、人目につかないように供物と祈りを捧げ続けた。そこで目にするのは、言い伝えに聞く通りの荒れ果てた土地であり、争いを続ける四つの国の人々だった。
「島の人々はやがて一つに結束し、泉翔という国を作ったのだよ」
シタラはそこで言葉を切り、子どもたちの顔をゆっくりと見渡した。
「この国の名前がどこから来たか、知っているかい?」
子どもたちが首を横に振る。麻乃も、考えたことがなかった。
「泉の女神さまが翔けてこの島を守った——それが泉翔の由来だよ。女神さまへの感謝と、この国が女神さまとともにあることへの誓いが、名前に込められているのだよ」
泉翔。麻乃は心の中でその名前を繰り返した。ただの国名だと思っていたものが、急に重みを持って感じられた。
四方を海で囲まれた泉翔国は、城のある中央をはじめ、東、西、南、北の五つの区域に分けられた——とシタラは語った。
中央区には王城と神殿があり、北区は漁業が盛んで新鮮な海の幸が豊富だった。東区は手工芸が発達し、美しい織物や陶器、また戦士たちのための武器や防具の製造が多く発達した。西区は稲作や野菜、果樹栽培が盛んで、南区は山間部を活かした林業と鉱業が主要産業となった。
生活の基盤が発達してどんなに豊かになろうとも、人々は平和な日々を送りながら、いつか来るかもしれない脅威に備えて、日々鍛錬を怠らなかった。
またある時期から、ひっそりと大陸へ渡り土地に慣れ親しみ、四つの国の情報を泉翔へ伝える機関も生まれた。危険を承知で役目を引き受けた彼らは、各国で虐げられる生活を送りながらも、着実に根を張り、やがては密かな集落を築くことに成功した。各国に散った仲間たちとも連絡を絶やさず、収穫祭に訪れる蓮華の印の戦士たちを支えていった。
「命を懸けて、大陸に残った人たちがいたのか……」
子どもたちの誰かが呟いた。シタラは静かに頷いた。
「そうだよ。みんながみんな、戦士として戦うことだけが、この国を守ることではないのだよ。それぞれの場所で、それぞれにできることを全力でやる——それがこの国の強さなのだからね」
麻乃はその言葉を、胸の奥にそっとしまった。
「時が経ち、文明が発達すると大陸の人々は動き出し、海を渡り、ついにこの島を目にすることとなった——」
シタラの語りに、子どもたちの顔が再び緊張に染まる。
北のロマジェリカ、南のジャセンベル、西のヘイト、東の庸儀。四つの国がそれぞれの思惑をもって泉翔国を手に入れんとし、進軍を始めた。
ロマジェリカは厳しい寒さに苦しみ、温暖な土地を求めていた。ジャセンベルは砂漠化が進み、水源を必要としていた。ヘイトは人口増加に苦しみ、新天地を探していた。庸儀は資源の枯渇に悩み、豊かな鉱物資源を狙っていた。
「それぞれに事情があるのはわかる。でもね——」
シタラの目が細くなった。
「この島は、女神さまが命を賭けて守ってくださった場所だよ。易々と渡すわけにはいかないのだよ」
泉翔国の戦士たちは、長い時をかけて鍛え上げた力によって、それを阻んだ。戦士たちは決して流されず、すべての行動を防衛のためだけに働かせている。侵略者を撃退しても、決して追撃はしない。報復もしない。ただひたすら、故郷を守ることだけに専念していた——。
「その戦いは、今も続いているのだよ」
シタラは静かにそう言って、語りを締めくくった。
子どもたちが顔を見合わせる。誰も口を開かなかった。遠く、神殿の方から風が吹いて、梢を揺らした。
しばらくして、シタラが立ち上がった。その場にいた子どもたちも全員が立ち上がり、麻乃も修治とともに慌ててそれにならった。
ふと、シタラの視線が麻乃に向く。
またあの目だ、と麻乃は思った。冷たく、憂いを含んだ、どこか申し訳なさそうな——それでいてどこか諦めたような、言いようのない色をした目。
(おまえは違うのだよ——)
やっぱり、そう言われているような気がした。
麻乃はその目を避けてうつむいた。指先、つま先から、全身が冷えていくようだ。他のみんなと何かが違うのだとしたら、それは――。
今、麻乃はその理由を知っている。自分ではどうすることもできない。ただ、胸の内だけがざわめいた。小刻みに震えた手を修治がぐっと握り締めてきた。
「俺がいる。おまえは大丈夫だ」
小さくうなずいて唇を噛み、泣きそうになるのをこらえた。修治がここにいる。それだけが支えだった。だからいつでも立っていられた。
数年の時を経て、麻乃も修治もこの国の戦士となった。
厳しい訓練を乗り越え、洗礼の儀式で守護の印を授けられた。麻乃は小柄で華奢な体つきだったが、その分、俊敏性と集中力に優れていた。修治は誰よりも早く道場に来て、誰よりも遅くまで鍛錬を続ける男だった。仲間が音を上げても、修治だけは黙って型を繰り返す。面倒見が良いのも、感情からではなく信念からくるものだった。守るべきものがある以上、できることを全力でやる。それだけのことだ、と彼は思っているようだった。
二人は共に部隊を持ち、ほとんどの任務を一緒にこなした。戦士になりたての不安な時期も、修治が共にいることが麻乃にとって大きな安心に繋がっていた。
過ごす時間が多くなればなるほど、自分の部隊の隊員たちとの距離が近づく。それは両親を失っている麻乃にとって、新たな家族の形として大切にしたいと思える関係だった。決して誰にも崩されることも、壊されることもないように守りたい。
その思いが、麻乃をここに立たせ続けている。すべてのものから、すべての不穏から守るために。
海風を背に受け、麻乃は大きく振り返った。
背後には愛する故郷、泉翔国が広がっている。緑豊かな森、清らかな泉、平和に暮らす人々。シタラの語りの中で何度も聞いてきた、あの奇跡の朝から続くこの島を、今度は自分たちが守る番だ。
修治が隣に立ち、いつものように静かな目で麻乃を見た。
「行くぞ、麻乃」
「うん」
二人は剣を抜き、迫り来る敵船に向かって駆け出した。




