第三話『北極星』(後)
美波は泣き崩れる美桜のすぐ隣で、足元に広がる長崎の美しい海と、寄せては返す波が作り出した、鏡のように滑らかな砂浜の境界線を、静かに、けれど鋭い観察眼で見渡した。
午後四時を回り、少しずつ夕暮れの気配を帯び始めた太陽の光が、引いていく波を黄金色に反射させていた。
「海という大自然の途方もない広さと、満ちてくる潮の力を前にすれば、波にさらわれて海の底に沈んでしまったと思い込んでしまうのも無理はありません。ですが、モノは決して嘘をつきません」
美波は静かに頷くと、ポシェットの代わりに持ってきた小さな防水ポーチの中から、愛用の純銀製のルーペを取り出す。水着姿にルーペという組み合わせだったが、そのレンズを覗き込む琥珀色の瞳には、一切の妥協を許さない真剣な光が宿っていた。
美波は波が引いて滑らかになった足元の濡れた砂浜を、細く白い指先で指し示す。
「あのカメオのブローチは、厚みのある硬質なメノウ石と、それを縁取るしっかりとしたゴールドの金細工でできています。見た目以上にずっしりとした重みを持っているんです」
美波の澄み切った声が、規則的な波の音に混ざって心地よく響いた。
「重い金属と石の塊が、もしこの水分をたっぷり含んだ柔らかい砂の上に落ちて波に洗われれば、砂が液状化してブローチは自重ですぐに沈み込みます。しかしその際、自然な波が作り出す規則的な『砂紋』の模様が、その一点だけ必ず局所的に乱れるんです。ですが、美桜ちゃんが遊んでいたこの波打ち際の砂紋は、どこまでも美しく平行なままで、異物が沈み込んだような密度の乱れは一切ありません」
美波の琥珀色の瞳は、波が引いた後の砂浜の表面に残る、微細な塩の結晶の並び方や、水が流れた極細い筋の形を、まるで古い文献を読み解くように正確に読み取っていった。
「それに、もし仮に奇跡的に強い引き波が発生してブローチが沖へさらわれたとするならば、今度は波の力に引っ張られ、重いブローチが砂の上を引きずられた線状の溝が残るはずです。ですが、そのような痕跡もどこにも存在しませんでした。波は、とても自然な形で、均等に砂浜を撫でているだけでした」
美波はそこで言葉を区切り、ルーペを下ろして、美桜の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「だから、ブローチは絶対に海には落ちていません。海の底にも流されていません」
それは慰めや気休めなどではない。絶対的な自然の理と流体力学に裏打ちされた、ごまかしの利かない真実を告げる確かな声だった。
「海に落ちていない。でも、じゃあどこに」
「美桜ちゃん。海に入る直前の行動を、もう一度一緒に思い出してみましょう」
美波は立ち上がり、砂浜の上の方、波が絶対に届かない乾いたエリアに設営された拠点、大きなパラソルと、その下に敷かれたタオルの周辺へと視線を移した。
「さっき美桜ちゃんは、海に入る前、あそこの日除けの下で白い上着を脱いで、大きなタオルを広げましたよね。答えは、あそこにあります」
二人は波打ち際を離れ、パラソルの下へと戻ってきた。
美波は、タオルの真ん中に無造作に放り投げられていた白い上着を手に取り、胸元の裏地をルーペで念入りに観察した。
「美桜ちゃん、ここを見てください。上着の左胸、ちょうど裏地のこの部分。繊維がほんのわずかですが、不自然に引き攣れてループ状に飛び出しています。まるで、何かの鋭い金具に引っかかって、無理やり引っ張られたかのように──」
「あっ」
美桜が息を呑んだ。美波は丸眼鏡の奥で静かに頷いた。
「美桜ちゃんは、上着のファスナーを下ろして勢いよく脱ぎ捨てました。その無造作な動きの最中、上着の裏地の繊維が、水着の胸元につけていたカメオのブローチの繊細な金細工の縁、あるいはアンティーク特有のストッパーのないC字クラスプに引っかかって、針のロックを外してしまったんです。そして、脱ぐ時の強い力に引っ張られ、ロックの外れたブローチは水着の生地を破ることもなく、スッと綺麗に抜け落ちてしまった。水着に針穴しか残っていなかったのがその証拠です」
「じゃ、じゃあ、上着と一緒に落ちたってこと。でも、タオルの上にも、この周りの砂浜にも落ちていないよ」
美桜が再び周囲の砂を掘り返そうとしたが、美波はゆっくりと首を横に振ってそれを制止した。
「タオルの上に落ちなかったのには、明確な物理的理由があるんです。美桜ちゃんは上着を脱いだ後、それを左手で掴んだまま、右手で大きなタオルを空中に振って敷きましたよね」
「う、うん。タオルに砂がついていたから、空気を入れてバサッと」
「その時、タオルを大きく振り下ろす反動で、上着を握っていた左腕も、無意識のうちに身体のバランスを取るために、下から上へと大きく跳ね上がっていたんです」
美波は自分の腕を使い、その時の美桜の動作をゆっくりと再現して見せる。
「繊維に引っかかっていただけのブローチは、その左腕の下から上へ向かう大きな振り上げによって生じた遠心力に逆らえませんでした。カメオは重い金属と石でできていますから、軽い布地よりも慣性の影響を強く受け、上着から分離して真上へと弾け飛んだんです」
「真上に、外れた」
「はい。重さのある金属と石が、腕の振りによって上方向へと一直線に弾け飛んだ。その向かった先は」
美波は真っ直ぐに上を指差した。
真上に広がっているのは、強烈な日差しを遮るために開かれた、巨大なパラソルだった。
「あの時、パラソルはすでに大きく開かれていました。下から弾け飛んだブローチは、パラソルの内側、その太い骨組みと分厚い布が重なり合う深いポケットのような隙間に向かって、飛び込んで入り込んだのです」
「パラソルの、中に」
美波の言葉を受け、美桜は恐る恐る背伸びをして、自分の頭上に広がるパラソルの内側を覗き込んだ。
太い金属の骨組みと、日差しを遮るための分厚い布が幾重にも重なり合い、そこには深い溝のような隙間がいくつも走っていた。
美桜は目を凝らし、その隙間の一つ一つを、震える指先で丁寧に探っていった。
布の重なりをめくり、奥へと指を入れた。
「あっ」
美桜の口から、短い悲鳴のような声が漏れた。
彼女は震える手をそっと伸ばし、骨組みと布の深い隙間から、何かを摘むようにして引きずり出した。
それは、長崎の強烈な日差しから逃れるようにして、無傷のままひっそりと隠れていたもの。乳白色と淡いブラウンが重なり合う美しい石に、気高い海の女神の横顔が彫り込まれた、カメオのブローチだった。
「あった。あったよ、お姉ちゃん」
美桜はブローチを両手で包み込むようにして胸に抱きしめ、そのままの勢いで美波に抱きつく。
「わあっ」と美波がバランスを崩しそうになるが、美桜は構わず、美波の華奢な肩に顔を完全に埋めて号泣し始めた。
「うわあああん。よかったあ。おばあちゃんの大切なお守り、なくしていなかった。海の底に沈んでなんか、いなかったよ」
今度の涙は、絶望のそれではなかった。心の底からの安堵と、永遠に失ったと思っていた大切な家族の絆を取り戻した、歓喜の涙だった。
美波はしゃがみ込み、ネイビーブルーの水着の胸元に美桜の顔を埋めさせ、その日焼けした背中を、まるで本当の姉のように優しく、何度も何度も撫でた。
「よかったですね、美桜ちゃん。おばあちゃんの大切な宝物、ちゃんと無事に帰ってきましたよ」
長崎の柔らかな海風が二人の濡れた髪を揺らし、波の音が優しく二人を祝福するように、穏やかなリズムを刻み続けていた。
***
青風館のリビング。
シャワーを浴びて涼しげなブラウスとエプロン姿に着替えた美波と、衣服に着替えた美桜は、真希の待つ部屋へと戻ってきていた。
海辺での顛末を聞き、無事に見つかったブローチを見て、真希もまあ、そんなところに隠れていたなんてと胸をなでおろした。
美波はポシェットから純銀製のルーペを取り出し、最後に、少しだけこのブローチを拝見してもよろしいですかと申し出た。
真希の快諾を得て、美波はルーペを通してカメオの精緻な彫刻を、そして裏側のゴールドの台座を息を詰めるようにして観察し始めた。
「真希さん、美桜ちゃん。このブローチは、航海の無事を祈るただの海難除けのお守りではありません」
美波は丸眼鏡の奥の瞳を優しく細め、台座の裏側、極めて細い金細工の隙間を指差した。
「ルーペでなければ決して見えないほど微細な文字で、裏側の台座の端に、イタリア語の彫り込みがありました。おそらく、お祖父様がイタリアの港町でこれを購入された際、現地の職人に依頼して特別に彫らせたものでしょう」
「イタリア語の、彫り込み」
真希と美桜が顔を見合わせた。真希でさえ、そんな文字が刻まれていることには何十年もの間、気がついていなかったのだ。
「はい。そこにはこう刻まれています。『海を越えて私を待つ、私の北極星へ』という意味です」
「北極星」
「船乗りにとって、北極星は決して動くことのない、己の現在地と帰るべき方向を教えてくれる絶対的な道標です。お祖父様にとって、どんなに荒れ狂う嵐の海にあっても、決して見失うことのない光。それは、南半球の嵐の空には決して見えないからこそ、お祖父様は自分の心の中にだけある『絶対に動かない北極星』、つまりお祖母様の顔を思い浮かべながら、船の無事を必死に祈り続けたのです」
美波はブローチをそっと真希の手に返した。
「このブローチは、ただ神頼みで航海の無事を祈るためのものではありません。必ず愛する人の元へ生きて帰るという、お祖父様の強固な決意と、お祖母様への深い愛情の証明そのものなのです」
その真のルーツを知り、真希は震える手で口元を押さえ、深い皺の刻まれた目頭から静かに涙をこぼした。美桜もまた、カメオに宿る途方もない愛の深さに触れ、ブローチを胸に強く抱きしめた。
進藤家の深い絆と歴史が、美波の眼によって、再び黄金色の輝きを取り戻した瞬間だった。
***
翌日の夕暮れ時。
青風館でのすべての鑑定を終え、美波は真希と美桜に見送られて洋館を後にすることになった。
「時洲さん、本当にありがとうございました。祖父の遺したモノたちが、あなたの眼によって再び息を吹き返しました。いつか、地下の保管庫の鍵を開く時が来たら、必ず、あなたにお願いしますね」
「はい。その時が来るのを、私も楽しみに待っています」
真希の言葉に、美波は深くお辞儀をした。美桜もまた絶対に長崎に来てねと大きく手を振ってくれた。
確かな絆を結び、美波は石段を下って帰途についた。
長崎駅。
夕暮れの空が、港の海と異国情緒あふれる街並みを、息を呑むほどに美しい色に染め上げていた。
高速バスの巨大なターミナルで、美波は手元の二枚のチケットを見つめた。
『博多行き』
『新宿行き夜行バス』
「うう。やはり、気が遠くなりそう」
これから再び待ち受ける過酷な陸路の長旅を想像し、美波はガクリと肩を落とし、少しだけ絶望的なため息を漏らした。
しかし、彼女の足元には、パンパンに膨れ上がった大きなお土産の紙袋がいくつも置かれていた。
底に砂糖がたっぷりとついた、最高級の長崎カステラ。
幸一と洋子のために選んだ、光にかざすと美しい色を放つ長崎ビードロのペアグラス。
自分を支えてくれる下町の大切な人たちの顔を思い浮かべながら、時間いっぱいまで一生懸命に選んだ数々の品々。
「でも、みんな喜んでくれるかな」
お土産のずっしりとした重みを感じながら、丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、ふわりと温かい笑顔の形に細められた。
遠い異国の風が吹く街で出会った、美しい海と、家族の深い愛情の痕跡。時洲堂という安心できる空間を飛び出した美波の初めての出張は、身体の疲労よりもはるかに大きな、優しくて温かい記憶を、彼女の心に深く刻み込んでいた。
それからさらに十六時間半の移動を経て、翌日の午前中に東京の下町へと帰り着き、長旅の片付けを終えてようやく迎えた静かな夜のこと。
時洲堂の奥、アンティークランプの柔らかな光に包まれた空間で、美波は長旅の疲れを癒やすように、お気に入りのロッキングチェアに深く腰を下ろした。
カウンターの上には、洋子がよく頑張ったわねと持ってきた温かいお茶と、長崎で買ってきたばかりのカステラが数切れ、綺麗に小皿に盛られていた。
美波は大きな丸眼鏡のブリッジを指先でそっと押し下げ、探偵としての空気を完全に解き放つと、いつものあどけない、女の子へと戻った。
そして、ポシェットの中から使い込まれた古い革の手帳と、ミッドナイトブルーのインクが入った万年筆を取り出した。
新しい真っ白なページを開き、インクの匂いを微かに感じながら、今日出逢った遠い異国の海での消失のルーツを、密やかに書き記していった。
『消えたカメオのブローチと、砂紋の足跡。
モノに込められた想いは決して消えない。
海の底に沈んだと思われた絶望は、
乱れのない砂の理と、遠心力が残した、ささやかな真実の欠片だった。
激しい嵐を越えた硬質な石と、
ルーペでしか見えないほどの小さな愛の言葉。
海難除けのお守りの真の姿は、
決して動かない北極星への、絶対的な祈りだった。
広大な海であっても、愛の痕跡は必ず残る。
遠い空の下で結ばれた確かな絆は、
今も変わらず、彼女たちの胸元で温かく輝き続けている。』
万年筆のペン先が紙を擦る心地よい音が、時洲堂の静かな夜の空気に溶け込んでいった。
美波はインクが乾くのをそっと息を吹きかけて待ち、革の手帳を閉じた。
外の世界では、秋の訪れを告げる涼やかな夜風が路地裏を吹き抜けていた。
琥珀色の光に包まれた古物商には、極上のカステラの甘い匂いと、大航海時代を駆け抜けた確かな愛の記憶が、いつまでも優しく漂っていた。




