第四話『愛情』(前)
カレンダーが秋の深まりを告げる十月の半ば。
高く澄み渡った空からは、どこまでも透き通るような秋の陽光が降り注ぎ、下町の路地裏を柔らかな黄金色に染め上げていた。
夏の間、じりじりと照りつける苛烈な日差しから古物商『時洲堂』を守っていた入り口の葦簀はすでに片付けられ、遮るもののなくなった穏やかな朝の光が、ガラス戸越しに店内へとたっぷりと流れ込んでいた。
店内にうず高く積まれた古物の森は、秋の涼やかな空気を吸い込んで心地よさそうに静かな呼吸を繰り返していた。大正時代のカットガラスが朝の光を複雑に乱反射させて壁に繊細な水模様を描き、錆びついた真鍮の羅針盤や、色褪せた古い革の背表紙たちが、それぞれの過ごしてきた長い歳月の匂いを漂わせていた。
そして、その空間の中心にどっしりと鎮座する、時洲堂の象徴とも言える重厚なマホガニーのカウンター。長年の手入れによって鏡のように磨き上げられたその赤茶色の天板は、差し込む陽光を受けて、まるで深い湖の底のように静かで鈍い光を放っていた。
その時、店の最奥にある薄暗い書庫の中から、乾いた紙の擦れる音が断続的に響いてきた。
店主の時洲美波は、秋らしい落ち着いたマスタード色の薄手ニットの上に、いつもの丈夫な帆布の作業用エプロンを身につけ、木製の踏み台の上に爪先立ちになって古い和綴じの文献の束と格闘していた。
大きな丸眼鏡を少しずらし、指先を古い埃で薄黒く汚しながら、昨日来客から問い合わせのあった幕末の下町の絵図面が記された記録帳を必死に探し求めているところだった。
「うーん、あの資料、確かこの棚の二段目の奥にしまったはずなんだけどな。あ、あった。よかった、湿気でカビに隠されてしまう前で見つかって」
美波は目当ての古い冊子を他の古書の間から慎重に引き抜き、ほっとしたように小さく白い吐息を漏らした。
美波には血の繋がった家族がいない。十歳の頃に両親を不慮の事故で同時に亡くして以来、この歴史の詰まった古い店で、たった一人で記憶の欠片を守るようにして生きてきた。けれど、彼女は決して孤独ではなかった。この店に眠る無数のモノたちと、そして、この下町で彼女を本当の娘のように見守ってくれる温かい人々がいたからだ。
美波が埃を払うために冊子を軽く叩いた、まさにその瞬間のことだった。
時洲堂の静寂を弾くように、入り口の古いガラス戸が勢いよく開かれ、真鍮のドアベルが涼やかで小気味よい音を立てて店内に響き渡った。秋の冷たくて乾いた風が、路地裏の生活の匂いと一緒に心地よく滑り込んできた。
「美波ちゃん。朝ごはん持ってきたわよ。しっかり起きているかしら」
吹き込んできた秋風よりも何倍も賑やかで、底抜けに明るい声が店内に響き渡った。
声の主は、この路地裏で長年金物屋を営んでおり、美波にとっては実の親も同然の存在である三枝洋子だった。
彼女は遠くからでも一目でわかるような、鮮やかな葡萄色のキルティングベストを羽織り、いつものようにさばさばとした足取りで時洲堂の三和土を踏みしめた。そのふくよかな顔には向日葵のような満面の笑みが浮かんでおり、彼女が足を踏み入れただけで、少し薄暗かった時洲堂の空気が一瞬にしてパッと華やかに、そして温かく塗り替えられていった
「あら、洋子さん。はい、起きていますよ。今、ちょっと奥の書庫で探し物をしていて、すぐに行きますね」
美波は慌てて和綴じの文献を踏み台の上に置き、エプロンの埃を払うのももどかしく書庫の入り口から顔を出した。
カウンターの前に立った洋子は、両手で何やら四角くてずっしりとした重みのある深い藍色の布包みを、まるで大切な宝物でも掲げるようにして胸の前に抱えていた。
結び目を解いてもいないというのに、その布包みからはお腹の虫を直接刺激するような、どうしようもなく食欲をそそる甘辛い出汁の香りがふわりと漂ってきた。
「ほら、これ。今朝はお父さんが朝早くからご近所のシャッターの修理仕事に出かけてしまってね。一人で朝ごはんを食べるのも味気ないから、美波ちゃんの分も一緒に作ってきたのよ。秋の味覚、里芋の煮っころがし。昨日、市場で丸々と太った立派な泥付きの里芋が手に入ったから、じっくり時間をかけて転がしながら煮含めたのだから」
「まあ、里芋の煮っころがし。洋子さんの煮物、大好きなんです。お醤油とお砂糖の焦げるようないい匂いが、ここまで伝わってきました。いつもいつも、本当にありがとうございます」
美波は大きな丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳をきらきらと輝かせ、嬉しそうに声を弾ませた。
元料理教室の先生であった洋子の作るご飯は、どれも絶品だ。特に煮物は、素材の味を極限まで引き出し、芯までしっかりと味が染み込んでいるのに決して煮崩れしていないという、プロ顔負けの仕上がりだった。
「いいのよ、美波ちゃんが美味しそうに食べてくれるのが、私の一番の元気の源なんだから。あ、そうそう。美波ちゃん、食べる前にこれ、ちょっと見てちょうだい。お父さんがね、先週から作業場にこもりっきりになって、私のためにと作ってくれたのよ」
洋子は嬉しそうに自慢げな声を上げながら、カウンターの上に藍色の布包みをそっと置き、その結び目を器用な手つきで解いていった。
四方に広がった布の中から姿を現したのは、手のひらを二つ並べたくらいの大きさの、円筒形をした真新しい金属容器だった。
全体は曇りのない、見事な鏡面仕上げが施された上質な純銅で作られていた。
その表面には、時洲堂のアンティークランプの光や、天井の古い梁の木目が、歪み一つなく美しく映り込んでいた。市販されているアルミやステンレスの弁当箱とは明らかに一線を画す、圧倒的な金属の厚みと重量感。そして何より、熟練の金物職人が手作業で限界まで研磨し尽くしたことが一目でわかる、息を呑むほどの機能美を放つ代物だった。
容器の蓋には、金属製の頑丈な留め具が三箇所に均等に取り付けられていた。洋子がその留め具を弾くようにして外し、蓋を少し持ち上げると、中からは真っ白な湯気と共に、醤油と砂糖、そして鰹出汁が絶妙に絡み合った極上の香りが室内に一気に解き放たれた。
中には、照り照りと黄金色の漆を塗ったかのように美しく輝く、小ぶりの里芋が上品に敷き詰められていた。
「これね、お父さんが作ってくれた特製の、純銅製無水おひつなの。分厚い銅の無垢材を削り出して、蓋と本体の隙間をミクロン単位で完璧に噛み合わせることで、中の蒸気や熱を絶対に逃がさないように細工したのだって。金物職人としての誇りにかけて、一生使える究極の蓄熱鍋を証明してやると、夜中まで作業場で火花を散らして削っていたのよ」
洋子は呆れたように首を振りながらも、その目元には、夫の不器用で高すぎる技術力に対する深い信頼と、誇らしげな愛情が隠しきれずに滲んでいた。
「まあ、本当に素晴らしい出来栄えですね。熱伝導と蓄熱性に優れた銅をこれだけ分厚く使えば、料理全体が均等に温まり続けますね。それに、底面から側面にかけてのこの滑らかな曲面。ただの保温容器ではなくて、洗いやすさや使い勝手まで、使う人のために完璧に考えられています。さすがは幸一さんです」
美波は感嘆の声を漏らしながら、その芸術品のような金属容器を見つめた。
頑固で口下手な三枝幸一は、決して洋子に甘い言葉をかけたりはしない。しかし、妻が作った温かい料理を最高の状態で保つために、己の持つ最高の技術を注ぎ込んでこんなにも美しい道具を無言で作り上げるのだ。その不器用で真っ直ぐな愛情の形が、美波にはたまらなく愛おしく感じられた。
「本当にあのお父さんったら。職人としては一人前だけど、家ではちっとも優しい言葉一つかけてくれないのだから。でもね、こういうモノを作らせたら、世界一なのだから」
洋子は楽しそうに小言を言いながら、おひつの蓋を再び被せ、三箇所の金属の留め具を固く締め直した。熱々の里芋が閉じ込められた分厚い銅の容器は、まるで精密な部品のように寸分の隙間もなく密閉された。
「美波ちゃん、お茶を用意してくれるなら、私はその間にカウンターの真ん中を少し片付けるわね」
洋子はキルティングベストのポケットから、いつも持ち歩いている使い込んだお気に入りの濡れ布巾を取り出す。
そして、マホガニーのカウンターの上にわずかに残っていた埃を払うように、おひつを置く予定の場所をサッと手際よく拭き上げた。
朝の光を浴びた赤茶色の天板の上に、水分の薄い膜がごくわずかに形成され、マホガニーの木目がしっとりと濡れた深い色合いへと変化する。洋子はその少し湿った場所のど真ん中へ、出来立ての煮っころがしが入って全体が熱々になっている、ずっしりと重たく底面が真っ平らな金属容器をそっと置く。
「よし、これで準備万端。あ、美波ちゃん。お茶が淹れ上がるまで、少しだけ待ってもいいかしら。私、最近近所の奥さんたちと始めたヨガ教室にすっかりはまってしまってね。朝のこの澄んだ空気の中で精神統一をするのが、何よりの健康の秘訣なのよ」
「えっ、ヨガですか。素敵ですね。私はお茶の準備にあと少しだけかかりそうですから、どうぞゆっくりやっていてください」
美波は書庫の奥の棚から、上質な静岡の深蒸し茶の茶葉を取り出しながら、お茶目な笑顔で応えた。
「じゃあ、ちょっと失礼して」
洋子はカウンターのすぐ横、広いスペースへと一歩移動すると、大きく一つ深呼吸をした。
そしてゆっくりと、両目を静かに閉じた。
彼女は右足の膝を曲げて真横に開き、その足の裏を左太ももの内側へとぴったりと押し当てた。そのまま、胸の前でふくよかな両手を合わせて、静かに合掌した。ヨガにおける最も代表的な精神統一の型である、立木のポーズだった。
時洲堂の店内に、完全な静寂が戻ってきた。
聞こえるのは、少し肌寒くなった店内で点けられたストーブの上のやかんが細い湯気を上げる音と、奥の書庫で美波がお茶の準備をする微かな物音、そして、洋子が規則正しく繰り返す、深くて穏やかな呼吸の音だけだった。
洋子は目を閉じた暗闇の中で、下腹部に意識を集中させ、片足立ちのまま動きを止める。日頃の家事の慌ただしさや、金物屋の経理の計算など、頭の中の雑音を一つずつ消し去っていく。時洲堂のノスタルジックな空気と、すぐそばに置かれたおひつから微かに漂う煮っころがしの幸せな匂いを感じながら、洋子は深い瞑想状態に入っていった。
ほんの数十秒。
時間にして、およそ四十秒ほどの、極めて短くも深い空白の時間だった。
その間に、書庫の奥で、美波が急須に熱湯を注ぎ、茶葉がゆっくりと開いていくのを待ってから、二つの湯呑みに鮮やかな緑色のお茶を均等に満たした。
「お待たせしました、洋子さん。お茶が入りましたよ」
美波がトレイに二つの湯呑みを乗せ、書庫の脇からカウンターへと戻ってきた。
その穏やかな声に導かれるように、洋子は長い息を吐き出しながらゆっくりと両目を開けた。曲げていた右足を床に下ろし、胸の前で合わせていた手を離して、心地よい充実感と共に大きく伸びをした。
「ああ、すっきりした。やはり朝の精神統一は最高ね。さあ、美波ちゃん、熱いうちに里芋を食べましょう。お父さんの作ったおひつが、どれくらい温かさを保てているか試してみて」
洋子はそう言って、自慢げにマホガニーのカウンターの上をビシッと人差し指で指し示した。
美波はトレイを抱えたまま、洋子が指し示したその場所へと視線を向けた。
「えっ」
美波の動きが、完全に凍りついた。
トレイの上で、湯呑みの中の緑色のお茶が微かに波紋を立てて揺れた。
「どうしたの、美波ちゃん。早く開けてみてよ。お父さんの自信作なのだから」
不思議そうに小首を傾げる洋子に対し、美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を大きく見開いたまま、掠れた声で呟いた。
「あの、洋子さん。おひつは、どこですか」
「何言っているのよ、そこに置いてあるじゃない、私が今さっき」
洋子は笑いながらカウンターの上へと視線を戻し、そして、言葉を完全に失った。
そこには、何もなかった。
朝の光を浴びて、滑らかに輝くマホガニーの赤茶色の天板が、ただただ静かに広がっているだけだった。
先ほど洋子が濡れ布巾で拭いた場所は、ごくわずかに水分の跡が残っているものの、その上に置かれていたはずの、あのピカピカに磨き上げられた重厚な銅製の特製おひつが、跡形もなく消え失せている。
中に入っていた熱々の里芋の煮っころがしも、容器ごと、文字通り影も形もなくなっていた。
「嘘、でしょ」
洋子は自分の目を疑うように、何度も激しく瞬きを繰り返した。
しかし、何度見ても結果は同じだった。カウンターの上は完全に空っぽであり、重たい金属の塊はどこにも存在していなかった。
「えっ。ちょっと、どういうこと。どこに行ったのよ、私のおひつは」
洋子は混乱に陥り、短い悲鳴を上げながらカウンターの周りを狂ったようにぐるぐると回った。
カウンターの下を覗き込み、板張りの床の上に落ちていないかを確認するが、当然、そこには何も落ちていない。時洲堂の狭い店内を隅々まで見回し、棚の陰や古い家具の隙間まで手当たり次第に覗き込んだが、あの大きな金属容器が見つかるはずもなかった。
「ドアのベルは鳴らなかったわよね。美波ちゃん、誰か店に入ってきたのを見ていないかしら」
「いいえ、私はずっと奥でお茶を淹れていましたが、ベルの音は一度も聞こえませんでした。ガラス戸も閉まったままです」
美波はトレイを安全な場所へ置き、静かに答えた。
時洲堂の入り口は、先ほど幸一が修理したばかりの引き戸が一つあるだけだ。誰かが侵入して、カウンターの上の重たいおひつを盗み出すためには、必ずその戸を開けなければならない。そして戸が開けば、あの真鍮のベルが涼やかな音を立てて鳴るはずなのだ。
裏口の扉も内側から頑丈な閂が掛けられており、外部からの侵入経路は完全に遮断されていた。
店の中にいたのは、お茶を淹れていた美波と、目を閉じてヨガをしていた洋子の二人だけだった。
そして、洋子が目を閉じていた時間は、わずか分単位にも満たない、たったの四十秒間。
その間に、中身の詰まった二キロ近くはある重たい金属の塊が、音もなく空中に溶けるように消え去ってしまったのだ。
「じゃあ、どうして消えるのよ。猫がくわえて持っていけるような重さじゃないのよ、あれは。たったの数十秒、私が目を閉じていただけなのに、そんな重たいものが忽然と消えるなんて、絶対にあり得ないわ」
洋子の顔からさっと血の気が引き、その大きな目が恐怖で涙目になり始めた。
下町の太陽のようにいつも明るく、怪異や幽霊の存在などこれっぽっちも信じないはずの現実的な彼女が、目の前で起きたあまりにも不条理な密室の消失の前に、完全に足元をすくわれて震えていた。
「美波ちゃん、まさか、この時洲堂には、本当に幽霊がいるの。古いモノがいっぱいあるから、何かの呪いとか。それとも、あのお父さんが私を驚かせるために、おひつに何かリモコンで勝手に動く変な仕掛けでも施したというの」
洋子はカウンターにしがみつき、本当に泣き出しそうな顔で美波の袖を強く握りしめた。
せっかく美波のために作った温かい料理が、そして夫が自分のために夜を徹して作ってくれた大切な容器が、自分のほんのわずかな不注意のせいで、得体の知れない怪奇現象によって奪われてしまった。その強い後悔と恐怖が、彼女の心を芯から締め付けていた。
「洋子さん。大丈夫です、落ち着いてください。幽霊なんて、この店にはいませんよ」
美波は洋子の強張った肩を両手でそっと包み込み、その目元を覗き込むようにして、ひどく穏やかで、どこまでも澄み切った優しい声で語りかけた。
相手を拒絶するわけでも、混乱に同調するわけでもない。ただそこにいるだけで周囲の動揺をすっと凪がせてしまうような、圧倒的な安心感を伴った響きだった。
「幸一さんの仕掛けでも、幽霊の悪戯でもありません。煮っころがしは、どこにも逃げていませんよ」
洋子が息を呑み、涙目のまま美波の顔を見つめ返した。
美波は洋子の手を優しく離すと、マホガニーのカウンターの前に真っ直ぐに立ち、細く白い人差し指を丸眼鏡のブリッジへとそっと添えた。
その瞬間。
先ほどまで大好物の里芋を前にして目を輝かせていたあどけなく温厚な古物商の気配が、すっと霧が晴れるように完璧に消え失せる。
彼女の纏う空気は、物事の深淵を静かに覗き込み、絡まった真実の糸を鋭く手繰り寄せる、探偵のそれへと完全に切り替わっていた。
「遠野さんの猫ちゃんの時も、そうでした。人間の記憶や思い込みは、焦燥に駆られると簡単に事実を捻じ曲げて、そこに神隠しや怪奇現象を作り上げてしまうんです」
美波は丸眼鏡の奥にある琥珀色の瞳をわずかに細め、おひつが消えたマホガニーのカウンターの天板を、静かに、そして鋭く見透かすように見つめた。
「でも、モノに込められた想いや記憶は絶対に消えたりしません。無機質な金属が辿った軌跡も、自然の理に従って、そこへ確実に物理的な足跡を残しているんです」
静かで、けれどごまかしの利かない真実を告げる美波の声が、時洲堂の暖かな空気の中に凛と響き渡った。
「洋子さん。幽霊の仕業か、それともこの世界にある確かな自然の悪戯か。消えたおひつが残した沈黙の痕跡に、今から直接聞いてみましょう」
探偵、時洲美波の、温かくも不思議な優しい失せ物探しの幕が、秋のひだまりの中で静かに上がった。




