第三話『北極星』(前)
八月の下旬。暦の上ではすでに秋の涼やかな気配が混ざり始める頃だというのに、東京の下町には、茹だるような厳しい残暑がねっとりと居座り続けていた。
ひび割れたアスファルトから立ち昇る陽炎が、古びた電柱や錆びたトタン屋根の景色をぐにゃりと歪ませている。路地裏の軒先に吊るされたガラスの風鈴が鳴っても、その涼しげな音色はすぐに、まとわりつくような重苦しい熱気と、遠くで鳴きしきる蝉の声の中に飲み込まれていった。息を吸い込むだけでも肺が熱くなるような、気怠い昼下がりだった。
骨董品店『時洲堂』の前に立った時洲美波は、アンティークの小ぶりなトランクを足元に置き、飴色に変色した古いガラス戸の鍵を確かな音を立てて閉めた。
その際、入り口に取り付けられた真鍮のドアベルが、いつものように涼やかで心地よい音を路地裏に響かせる。美波は首元の日焼けを防ぐための薄手のストールで額に滲んだ汗を軽く押さえると、少しだけ不安そうに、けれどどこか胸を高鳴らせて、自分がこれから二日間留守にする古い店構えを振り返る。
両親を不慮の事故で亡くし、祖父からこの店を引き継いで以来、ずっとこの時洲堂の奥で古いモノたちに囲まれて生きてきた美波にとって、一泊二日という外泊を伴う遠出の出張は、決して頻繁にあることではない。ガラス戸の向こう側、薄暗い店内に眠る無数の品々、大正時代のカットガラスのランプや、幕末の古時計、古い革張りのソファたちに向けて、「少しの間、お留守番をお願いね」と心の中で優しく語りかけながら、トランクの持ち手を握る手にきゅっと力を込める。
「戸締まりよし、火の元よし。では、行ってきます」
美波が自分に言い聞かせるように密やかに呟き、歩き出そうとした矢先のことだった。
「美波ちゃん。気をつけて行ってくるのよ」
路地の向こうから、かしましい足音とともに洋子の声が飛んでくる。
「はいこれ、バスの中で食べる用のおやつ」
近所で金物屋を営む、美波の母親代わりでもある三枝洋子が、手作りの大きなおにぎりや、容器に詰められた甘い卵焼き、さらには小分けにされたクッキーや塩飴などがぎっしりと詰まった紙袋を抱えて駆け寄ってきた。
そしてその半歩後ろには、作業用の分厚い前掛けを締めたままの夫、幸一が、腕を組んで仏頂面のまま、のっそりと歩いてくる。
「洋子さん、幸一さん。わざわざお見送りに来てくださったのですか。ありがとうございます、こんなにたくさんのおやつまでいただいてしまって」
「当たり前じゃないの。美波ちゃんが一人で、しかも一泊二日の遠出の出張だなんて。ほらお父さん、美波ちゃんに渡すものがあるんでしょう」
洋子に横腹を小突かれ、幸一は深く眉間を寄せたまま、無言で前掛けの深いポケットに厚い手を入れた。
無造作に美波の目の前に差し出されたのは、ずっしりと重い真鍮製の南京錠だった。ただの市販品ではない。金物職人である幸一が、極限まで滑らかに磨き上げ、絶対に壊れないようにと内部から独自に組み上げた、特注の防犯錠だった。鈍く光る真鍮の表面からは、金属を削った際の微かな油の匂いが漂ってくる。
「トランクに、つけろ」
低く、地を這うような短い一言。
幸一は美波と目を合わせようともせず、ただそれだけを言って、ひんやりと冷たい真鍮の錠前を美波の手に押し付けた。
「お父さんったら、昨日からずっと作業場でそわそわして南京錠を磨いていたのよ。言葉には出さないけれど、心配で心配で仕方ないのよね」
「ばっ、余計なこと言うな」
妻に本心を暴露され、幸一は顔を微かに赤らめてそっぽを向く。
そのひどく寡黙で、不器用で、けれど真っ直ぐすぎる父親のような愛情表現に、美波は大きな黒縁の丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を優しく細める。
「ありがとうございます、幸一さん。道中、絶対に誰にも開けさせませんからね。今回は長崎にある古い洋館の持ち主の方から、お父様が残された数々の海洋の品を査定してほしいという、きちんとしたご依頼ですから、心配しないでください。ただ、少しだけ移動に時間がかかってしまいますけれど」
美波が苦笑いしながらそう言うと、そっぽを向いていた幸一が、再び深く、長息を吐き出す。
「飛行機で行け。身体が、もたないぞ」
ぽつりと零れ落ちた、咎めるような、けれど底知れぬ心配の籠もった短い言葉。それに美波は「ううっ」と声を漏らして顔をしかめ、自分の両手で自身の二の腕をさすった。
「幸一さん、何度言ってもわかってくださらないのですね。私、空を飛ぶ乗り物だけは、どうしても駄目なんです。地面から足が離れて、分厚い鉄の塊が雲の上を飛ぶなんて、どうしても怖くて。足がしっかり地面についていないと、自分が今どこにいるのかフワフワしてしまって、息ができなくなってしまうんです」
美波の極端な飛行機嫌い。
それは、ただの高所恐怖症ではない。どんなに古いモノでも、地に足のついた確かな歴史と温もりを大切にする美波にとって、地面から完全に切り離されて宙に浮くという感覚は、どうしても許容できないものだったのだ。
「だからって、東京から長崎まで直通のバスなんてないのでしょう」
「はい。ですから、まずは新宿のターミナルから夜行バスに乗って、明日の朝に福岡県の博多まで行きます。そこからさらに、長崎行きの高速バスに乗り換える予定です」
「東京から福岡まで、十四時間も夜行バスに揺られるというの。あんた、そんな華奢な体で倒れてしまうわよ」
洋子が両手を頬に当てて悲鳴を上げる中、幸一は腕を組んだまま深くため息をつき、しょうがない頑固娘だと零した。口調こそ無愛想だが、そのしかめっ面には、そこまでして陸路にこだわる彼女の体を案じる、不器用な親心が滲み出ている。
「大丈夫ですよ、独立シートのいい座席を取りましたから。それじゃあ、行ってきますね。無事に帰ってきたら、長崎の美味しいカステラと、綺麗なビードロのお土産、たくさん買ってきますから」
幸一が作ってくれた真鍮の南京錠をトランクにしっかりと取り付け、美波は大きく手を振って、厳しい残暑の路地裏を抜けていく。
振り返ると、洋子が千切れんばかりに手を振り、その横で幸一が腕を組んだまま、じっと彼女の背中を見つめ続けていた。二人の姿が路地の角を曲がって完全に見えなくなるまで、美波の胸の奥は、太陽の熱とは違う温かさでじんわりと満たされていく。
***
その日の夜。
新宿のバスターミナルを出発した大型の夜行バスは、深夜の高速道路を西へ西へとひたすらに走り続けていた。
消灯された車内は、足元の微かな青いライトだけが、狭い通路をぼんやりと照らしている。空気清浄機の低い稼働音と、他の乗客たちの寝息だけが響く空間。美波は窓際に深く身を沈め、座席に備え付けられたブランケットにすっぽりと包まれていた。
出発してからすでに数時間が経過していた。窓の遮光カーテンのわずかな隙間から、高速道路のオレンジ色の街灯が等間隔で流れていくのをぼんやりと見つめる。
(やっぱり、遠いなあ)
巨大なタイヤがアスファルトの継ぎ目を越えるたびに、規則的で低い振動が、座席を通して身体の芯へと伝わってくる。
飛行機に乗ればたった数時間の距離を、あえて地上を這うようにして十時間以上もかけて移動する。同じ姿勢のまま座り続ける身体的な負担は計り知れない。足は次第に重くなり、血流が滞って靴がきつく感じられ、腰のあたりには鈍い疲労感がじわじわと溜まっていくのを感じる。
寝返りを打つこともできない狭い座席の中で、美波はそっと洋子からもらった紙袋を開け、塩飴を一つ口に放り込む。じんわりと広がる甘じょっぱさが、強張った神経を少しだけ和らげてくれる。
どれほど身体が痛くなろうとも、美波にとって、タイヤが確実に地面を踏みしめながら進んでいるというその事実だけが、奇妙なまでの絶対的な安心感を与えてくれる。
深夜のサービスエリアでの短い休憩。冷房の効きすぎた車内から外へ出ると、昼間の酷暑が嘘のように落ち着いた、夜のしっとりとした空気が肌を撫でる。冷房で少し冷えてしまった指先を温めるため、自動販売機であえて常温のお茶のペットボトルを買い、そのぬるい温度を両手で包み込みながら、屈伸をして固まった関節をほぐし、再びバスへと戻る。
愛知を抜け、関西の巨大な分岐点を通り過ぎる頃には、美波もようやく浅い眠りに落ちていた。
エンジンの唸り声と振動に揺られながら、幾度かの微睡みと覚醒を繰り返す。
次に目を覚ました時、バスはすでに本州の西の端、山口県の関門海峡を越えようとしているところだった。カーテンを少しだけ開けると、巨大な吊り橋の無骨な鉄骨の向こう側に、朝焼けにうっすらと染まる九州の広大な大地が広がっていた。海の水面が朝日を反射してきらきらと黄金色に輝き、自分が夜を徹して、遠く離れた全く別の土地へとやってきたことを、圧倒的なスケールの景色と共に実感する。
「着いた」
午前八時過ぎ。
ついに福岡県の博多バスターミナルに到着した美波は、バスのステップを降り立った瞬間、長時間の乗車による全身の関節の強張りにううっと小さく呻き声を上げる。
足はひどくむくみ、腰はまるで固まった鉄板のようで、肩には目に見えない重い石が乗っているかのようだった。疲労困憊で今すぐベッドに倒れ込みたい気分だったが、休んでいる暇はない。十四時間かけて辿り着いたこの博多の地すら、長崎へ向かうためのあくまで通過点に過ぎないのだ。
「急がないと、次のバスの時間になってしまう」
美波はトランクを重たそうに引きずりながら、通勤客でごった返すバスターミナル内を歩き、見つけたうどん屋に飛び込む。
テーブルに運ばれてきたのは、透明感のある黄金色の出汁に、丸く揚げられたサクサクのごぼう天が乗った博多うどんだった。ふんわりと柔らかい麺をすすると、アゴと昆布の深い旨味が溶け出した熱い出汁が、冷え切って強張っていた胃袋の隅々にまで染み渡っていく。
「美味しい」
出汁の香りと温かさでどうにか気力を回復させた美波は、息をつく暇もなく、今度は長崎行きの高速バスへと乗り込む。
博多を出発したバスは、都市部の喧騒を抜け、佐賀の平野部へと入っていく。
またバスか、と内心でため息をつきながらも、窓の外の景色は、東京の平坦なビル群とは全く違う様相を見せ始めていた。
波穏やかな大村湾の青い水面を横目に南下するにつれ、平野は次第に途切れ、険しい山々と深い緑が車窓を覆い尽くす。複雑に入り組んだリアス式海岸の青い海が顔を出し、バスは急峻なカーブを何度も曲がりながら進んでいく。山が海に迫り、その急な山の斜面には、まるでパズルを組み合わせたかのように無数の家々がへばりつくようにして建ち並んでいる。
「すごい。本当に、坂と階段ばかりの街なんだ」
正午近く。
博多からさらに三時間半。ついに最終目的地である長崎駅前に降り立った美波は、目の前に広がる異国情緒あふれる街並みと、海から吹き付けてくる潮の香りの混ざった生暖かい風に、長旅の蓄積した疲労も忘れて丸眼鏡の奥の瞳をきらきらと輝かせる。
路面電車がレトロな音を立てて走り抜け、遠くの港からは大型の客船が鳴らす、低く腹の底に響くような汽笛が聞こえてくる。
美波はタクシー乗り場へと向かい、トランクを運転手に積み込んでもらうと、行き先を告げる。
「南山手の、さらに奥。海を見下ろす高台にある『青風館』までお願いします」
「青風館かい。あそこは昔の貿易商の館でね、立派な建物だけど、道が細くて急だから、途中からは歩いてもらうことになるよ」
初老の運転手の言葉通り、タクシーは石畳の急な坂道を、エンジンを苦しそうに唸らせながら登っていく。
左右にはツタの絡まる赤レンガの塀や、下見板張りのレトロな洋館が次々と現れては消えていく。やがて車が入れない細い路地の前でタクシーを降りた美波は、額に汗を滲ませながら、トランクを抱え上げるようにして、最後の長い石段を登り切った。
そして、視界が一気に開けた。
「わあ」
思わず、感嘆の声が漏れる。
小高い丘の頂上。そこに建っていたのは、見事な白亜の外壁と、深い緑色の屋根を持つ、明治時代に建てられたという壮麗な洋館『青風館』だった。
アーチ型の窓には色鮮やかなステンドグラスがはめ込まれ、建物の周囲には南国特有のソテツやヤシの木が風に揺れていた。そして何より、その洋館の広いテラスの向こう側には、長崎の穏やかで透き通るようなコバルトブルーの海が、どこまでも果てしなく、空と溶け合うようにして広がっていたのだ。
「いらっしゃいませ。遠いところを、よくお越しくださいましたね」
洋館の重厚なマホガニーの扉が密やかに開き、中から上品で知的な面差しを残す婦人が姿を現した。
彼女こそが、この青風館の主であり、今回の出張鑑定の依頼人である進藤真希だった。仕立ての良いサマーワンピースをスマートに着こなした姿からは、この広大な洋館を現役で切り盛りする凛とした気品が漂っている。
そして彼女の傍らには、日焼けした健康的な肌に、シンプルなTシャツとデニムのショートパンツを合わせた、中学生くらいの活発そうな少女が、興味津々といった様子で寄り添っている。
「初めまして。東京の時洲堂から参りました、時洲美波と申します。本日はよろしくお願いいたします」
「まあ、聞いていたよりもずっとお若くて、素敵な方なのね。私は進藤真希。そしてこちらは、孫の美桜です。東京からの陸路の長旅でさぞお疲れでしょう。さあ、中へ入って冷たいものでも召し上がってちょうだい」
真希の温かい案内に従い、美波は青風館の敷居を跨いだ。
冷房のよく効いた館内に入った瞬間、美波の探偵としての、そして古物商としての血が、静かに、けれど熱く騒ぎ始める。
広いエントランスから奥のリビングに至るまで、そこはまさに大航海時代の記憶の宝庫だった。
真鍮でできた巨大な船の舵輪、オランダ製の古い羅針盤、重厚なヴィクトリア朝のアンティーク家具、そして長崎特有の繊細な色合いを放つビードロの数々。
それらがただの贅沢な飾りとしてではなく、かつて広大な海を渡り、激しい波風に耐え抜いてきた本物の歴史の痕跡を深く纏いながら、この洋館の中で密やかに呼吸を続けていたのだ。
「すごい。これほど保存状態が良く、歴史の息吹を感じる品々が揃っているなんて、立派な美術館でもなかなかお目にかかれません」
美波が感嘆の声を漏らすと、真希は嬉しそうに目を細め、静かに頷く。
「私の父が、貿易で財を成した船乗りだったんです。これらの品はすべて、父が世界中の荒波を越えて集め、大切に持ち帰ってきたもの。ですが、私もこれだけの規模のコレクションを一人で守っていくには限界を感じ始めていましてね。私が元気なうちに、これらの品々が持つ本当の歴史や価値、そして父がこれらをどう扱っていたのかを、きちんとした専門家の眼で読み解いて記録しておきたかったのです。時洲堂さんの、モノが語る声を聴くという評判を伺って、どうしてもあなたにお願いしたくて」
「光栄です。どんなに古くても、大切にされた記憶は決して消えませんから。お父様がこれらとどう向き合ってきたか、私にできる限り、優しく紐解かせていただきます」
美波は出された冷たい麦茶を一口飲み、深く呼吸を整える。
ポシェットの中から、使い込まれた古い革の手帳と、愛用の銀色のルーペを取り出す。
そして、大きな丸眼鏡のブリッジを、細い人差し指で静かに押し上げた。
その瞬間、長旅の疲労を見せていたあどけない女の子の気配から、モノに宿る記憶の糸をたぐり寄せ、見落とされた小さな痕跡から真実を見つけ出す冷徹な探偵の視座へと、彼女の意識が切り替わった。




