第二話『懺悔』(後)
外の世界では、空の底が抜けたような暴力的な豪雨が、狂ったように下町のアスファルトを叩きつけ続けている。
分厚い雨雲に覆われた空は、まだ午後だというのに夜のように暗い。雷鳴が遠くで低い唸り声を上げ、凄まじい雨音が、古い木造建築である時洲堂を外界のすべてから完全に隔絶している。
しかし、その薄暗く閉ざされた密室の中で、探偵の静かなる物理実験が幕を開ける。
「金属というものは、とても正直な素材です。鉄、銅、アルミニウム。それぞれが異なる性質を持っていますが、あなたが恐怖で歪めてしまったこの金属は、少しだけ特殊な理を持った合金なのです」
美波はピンセットを手に取り、テーブルの上の血まみれの金属の塊をそっと挟み上げ、耐熱ガラスの中央に置く。
「この金属は、一般的に『形状記憶合金』と呼ばれる素材なんです」
「形状、記憶」
「はい。通常の金属は、強い力を加えてぐちゃぐちゃに曲げると、金属の結晶構造そのものが滑ってズレてしまい、二度と元の形には戻りません。しかし、この形状記憶合金は、人間が手で握り潰す程度の変形であれば、結晶構造が壊れずに粘り強く耐え抜く限界点を持っています」
美波は鉄瓶を傾け、ガラスの鉢の中へと、静かに熱湯を注ぎ入れ始める。
「この合金は、どんなに外から凄まじい力を加えられ、形を歪められたとしても、金属内部にある『自分自身の本当の形』という記憶までは決して壊れないんです。そして、一定の温度……このチャームの場合は、約六十度から七十度以上の温かい熱を与えられることで、その記憶が目を覚まします」
熱湯が注がれ、湯気が立ち昇る。
次の瞬間だった。
「あっ」
國府田の口から、信じられないものを見るような驚愕の声が漏れる。
熱湯の中に沈んだぐちゃぐちゃの金属の塊が、まるで自らの意志を持った生き物のように、不気味に蠢き始めたのだ。
恐怖と圧力によって複雑に絡み合い、鋭く折り曲げられていたワイヤーが、熱湯の温度を吸収した途端、目に見えない職人の手によって解きほぐされるかのように、自らその結び目をスルスルと解いていく。
ねじれが戻り、ひしゃげていた直線が伸び、歪んでいた曲線が滑らかな弧を描く。
ほんの数秒の出来事だった。
お湯の中で踊るように形を変えたその金属は、やがて完全に動きを止め、お湯の底に一つの完成された美しいシルエットを描き出して鎮座する。
それは、五つの角を持った、見事な星型のチャームだった。
数日前。美波が『お守り代わりです』と言って、國府田の手に渡した、あの小さな星の形。
どれほどの絶望と恐怖で握り潰されようとも、金属は決して自分の本来の姿を忘れてはいなかったのだ。
「冷たい恐怖で、どんなにいびつに自分を歪めて、記憶を心の奥底に封じ込めたとしても」
美波は、鉄瓶を静かに置く。
そして、お湯の底で鈍い光を放つ星型の金属から、ソファで硬直している國府田へと、その琥珀色の瞳を真っ直ぐに向ける。
「温かい熱を与えれば、心もまた、必ず本来の姿に戻ろうとします。さあ、國府田さん。もう、目を逸らさないで。あなたが失くしてしまった、あなたの本当の記憶を、受け止めてください」
美波のその言葉と、お湯の底で元の姿を取り戻した星型の金属の姿が、國府田の脳の奥底にある、分厚い扉の鍵を開け放つ。
國府田の視界が歪み、耳障りなノイズと共に、封印されていた忌まわしい記憶が、真っ黒な濁流となって彼の脳内へと一気に流れ込んでくる。
『そうだ。僕は、あの日』
記憶の奔流に飲み込まれた國府田の目は見開かれ、焦点は時洲堂の店内から、数日前のあの夜へと完全に引き戻されていく。
あの日。時洲堂で美波の言葉に諭され、母の形見の指輪を売るのを思いとどまった國府田だったが、彼を追い詰めていた借金の期限は消えてはくれなかった。
切羽詰まった彼は、金策の最終手段として、絶対に手を出してはいけない領域に足を踏み入れてしまった。地元の悪友から持ちかけられた、資産家宅への空き巣の誘いに乗ってしまったのだ。
『大丈夫だって。家族全員、一週間の海外旅行中で家は完全にもぬけの殻だ。俺たちはただ入って、金庫から現金だけ頂いてずらかる。誰も傷つけないし、誰にも見られない。ただのボーナスゲームだよ』
悪友のその言葉を、愚かにも信じてしまった。
深夜。彼らは計画通り、郊外にある広大な邸宅に忍び込んだ。家の中は静まり返り、本当に誰もいなかった。震える手で懐中電灯を握りしめ、悪友が用意した工具で金庫をこじ開け、中に入っていた帯封のついた数百万円の現金をバッグに詰め込んだ。
ここまでは、完璧だった。誰も傷つけず、ただお金だけを盗んで、彼らは無事に邸宅から逃げ出すことに成功したのだ。
しかし、本当の地獄は、逃走後に身を隠した、人気のない廃工場の隠れ家で待っていた。
『おい、話が違うぞ。なんで俺の取り分がたったの二割なんだよ。リスクは同じだったはずだろ』
『うるさいな。計画立てたのも、金庫開けたのも俺だ。お前はただ怯えて突っ立っていただけじゃないか。文句あるなら、一円もやらないぞ』
大量の現金を目の前にして、人間の醜い欲望が剥き出しになる。
取り分を巡る口論は、瞬く間に取っ組み合いへと発展する。そして、金に目が眩み、興奮状態にあった悪友が、狂気を宿した目でポケットから折りたたみナイフを取り出し、刃を閃かせたのだ。
『殺す。お前を消して、金は全部俺がもらう』
悪友は本気だった。殺意に満ちた絶叫と共に、鋭い刃が國府田の心臓めがけて振り下ろされる。
殺される。
その極限の恐怖の中で、國府田の身体は無我夢中で動いた。
振り下ろされるナイフを、思わず素手の右手でギュッと握りしめて防ぐ。
その時、手のひらの肉が裂け、激痛と生温かい血が溢れ出した。
『やめろ。やめてくれ』
國府田は、血だらけの手で悪友の手首を払い除け、渾身の力を込めて、覆い被さってくる悪友の身体を力任せに前方へと突き飛ばした。
鈍い音がして、悪友の身体が宙を舞う。
しかし、廃工場の床には、錆びた太い鉄骨が剥き出しになって転がっていた。
バランスを崩して後ろに倒れ込んだ悪友は、その鉄骨の角に、自らの後頭部を凄まじい勢いで打ち付けた。
人間の体から鳴ってはいけない鈍く、湿った音が響く。
悪友の身体は、一度だけ大きく痙攣し、その後、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
後頭部から、どす黒い血が水たまりのように広がり始める。
國府田は荒い息を吐きながら、信じられない思いでその光景を見下ろしていた。
ナイフは床に転がり、悪友の目は虚空を見つめたまま、微動だにしない。
『あ、ぁ』
死んでいた。
自分の手で、突き飛ばして、殺してしまったのだ。
その強烈な絶望と罪悪感が、國府田の精神を完全に破壊した。
彼は狂ったように悲鳴を上げながら、ガタガタと震え、血まみれの右手を、無意識のうちにズボンのポケットに突っ込んでいた。
そして、ポケットの中に入っていた、美波からもらった星型の金属を、手が裂けた痛みに縋るように、限界を超える力で、ぐちゃぐちゃに握り潰したのだ。
物理的な痛みに縋ることでしか、精神の崩壊を止めることができなかった。
しかし、それでも罪の意識には耐えきれず。
彼の脳は自己防衛のために、すべての記憶を遮断し、自分自身の名前すらも消し飛ばした。気がついた時には、もう一つのポケットに入っていた時洲堂のカードだけを頼りに、土砂降りの雨の中を、宛もなく逃げ彷徨っていたのだった。
「あああぁぁぁぁぁぁっ」
時洲堂の店内に、國府田の獣のような絶叫が響き渡る。
すべての真実を思い出した彼は、ソファから転げ落ちるようにして床に這いつくばり、自分の頭を両手で無我夢中で掻きむしる。
「思い出した。思い出したくなかった。僕は、僕は、人の家に泥棒に入って、あいつを、この手で突き飛ばして」
國府田は床に額を打ち付け、大粒の涙をこぼしながら泣き叫ぶ。
「人殺しだ。僕は人殺しなんだ。お母さんの指輪を売らずに済んだのに、結局、お金に目が眩んで、あいつを殺して、自分の人生も全部終わらせてしまった。こんな記憶、ない方がよかった。自分が殺人鬼だなんて知りたくなかった。あああっ」
それは、地獄の業火に焼かれる亡者のような、凄絶な慟哭だった。
真実を知ることは、彼にとって救いなどではなく、逃げ場のない絶望の底へ叩き落とされることと同義だったのだ。
記憶がないまま、自分が何者かわからないままでいた方が、どれほど幸せだったか。自分が殺人者であるという現実を受け止めるには、彼の精神はあまりにも弱く、そして優しすぎた。
「僕はもう終わりだ。死ぬしかない。生きてる価値なんてないんだ」
國府田が狂乱し、自分の首を締めようと震える手を伸ばした、その時だった。
美波は、決して彼から逃げなかった。
探偵として残酷な真実を突きつけた彼女は、凄まじい絶望に狂い泣く國府田の前に静かに膝をつき、彼の背中へと、両手を優しく回す。
「逃げてはいけません、國府田さん」
美波の澄み切った声が、國府田の耳元に静かに降り注ぐ。
彼女は、血と雨水に汚れた國府田の身体を少しも嫌悪することなく、母親が子供をあやすように、彼の背中を一定のリズムで優しく撫で続ける。
「記憶を消して、すべてを忘れて逃げようとしても。あなたの右手には、ナイフを素手で握った深い傷が残っていました」
美波はそっと身体を離すと、國府田の血まみれの右手を両手で優しく取り、その痛みを分かち合うように包み込む。
「あなたがこの金属を握り潰したのは、人を殺してしまったという罪の重さに、あなたの心が耐えられなかったからです。自分の犯した過ちに、あなたの良心が、悲痛な悲鳴を上げていたからです。でも、國府田さん。勘違いしないでください」
美波は、決して譲らない強い光を瞳に宿し、はっきりと告げる。
「あなたは泥棒という罪は犯しました。それは法で裁かれるべき事実です。でも、あなたは『殺人鬼』ではありません」
國府田の動きが止まる。
美波の琥珀色の瞳が、涙でぐしゃぐしゃになった國府田の瞳を真っ直ぐに捉える。
「あなたがご友人を突き飛ばしたのは、殺意を持ってナイフを振り下ろしてきた相手から、自分の命を守るためだったのですよね。相手を殺すために突き飛ばしたのではなく、生き延びるためのとっさの抵抗だった。それは刑法において『正当防衛』、あるいは過剰防衛と呼ばれるものであり、殺人罪には問われません。背負う必要のない架空の罪の重さまで背負って、自分自身を壊さないでください」
美波の提示した法的な事実と論理が、國府田の脳裏にへばりついていた『自分は殺人鬼である』という絶望の鎖を、鋭く断ち切った。
「僕は、殺人鬼じゃ、ない?」
「本当に救いようのない冷酷な人間なら、正当防衛で相手が死んでも何とも思いません。記憶を消して逃げようとすらしない。國府田さん。あなたが記憶を失うほどに追い詰められたのは、あなたが、他人の死という重さに耐えきれない、心優しい人間だからです」
美波は、ガラス鉢の中で美しい星の形を取り戻した金属を指差す。
「冷たい恐怖で、どんなにいびつに自分を歪めても。温かい熱を与えれば、本来の姿に戻る。あなたも同じです。あなたは今、罪から目を背けていた空白の時間を終えて、自分が背負うべき『正しい罪の重さ』と向き合い、涙を流して苦しむことができる本来のあなた自身の姿を取り戻したのですよ」
美波のその言葉は、國府田の魂の最も深い部分へと染み込んでいく。
自分は冷血な怪物ではない。愚かな罪を犯してしまった、弱い一人の人間なのだと。
探偵としての真実の解明だけでなく、法的な事実を用いて彼が背負うべき荷物の重さを正しく整理し、人間としての尊厳を決して見捨てずに包み込んでくれた美波の圧倒的な優しさに、國府田の心は完全に解きほぐされていった。
「う、ううっ。あああああっ」
國府田は、美波の肩に顔を埋め、まるで母親に縋りつく幼子のように、声を上げて大泣きする。
死の恐怖。逃げ続けた孤独。そして、自分は殺人鬼ではなかったのだという安堵。
すべての感情が涙となって溢れ出し、時洲堂の店内に、彼の浄化の嗚咽がいつまでも、いつまでも響き渡っていた。美波はただ黙って、彼が泣き止むまで、その背中を優しく撫で続けた。
***
どれほどの時間が経っただろうか。
気がつけば、あれほど狂ったように下町を叩きつけていた夕立は、嘘のようにピタリと止んでいる。
分厚い鉛色の雲が割れ、その隙間から、燃えるようなオレンジ色の西日が、飴色のガラス戸を通して時洲堂の店内へと長く、美しい光の道筋を作り出している。
「時洲さん。本当に、ありがとうございました」
洗面所で顔を洗い、美波が奥から出してきた祖父・仙次郎の古いシャツに着替えた國府田は、カウンターの前に立ち、深く、深く頭を下げる。
彼の顔はまだ青白く、目の周りは真っ赤に腫れ上がっていたが、そこに先ほどまでの狂乱や怯えは微塵もなかった。
罪から逃げることをやめ、自分の犯した過ちと正面から向き合う覚悟を決めた人間の、静かで確かな意志が宿っていた。
「僕自身を、僕の記憶を見つけてくれて、本当に感謝します。もし、あのまま記憶がないまま生きていたら、僕は一生、見えない何かに怯えるだけの亡霊になっていたと思います」
國府田は、美波が傷の手当てをしてくれた右手のひらを、そっと左手で包み込む。
痛みはある。しかしそれは、自分が命を守り抜いた痛みであり、背負っていくべき罪の証でもあった。
「これから、警察に行ってきます。僕が空き巣をして、自分の命を守るためにかつての友人を突き飛ばして死なせてしまったこと、すべて正直に話して、罪を償ってきます」
「はい。國府田さんなら、必ずやり直せます。お母様の指輪が、あなたを待っていますよ」
美波がふわりと微笑むと、國府田もまた、泣き出しそうな顔で小さく微笑み返す。
彼はもう一度深く一礼すると、時洲堂の滑らかなガラス戸を静かに開け、西日が眩しく輝く水たまりの路地裏へと、自らの足でしっかりと歩み出していく。
雨上がりの澄んだ空気が、彼の背中を優しく押しているように見えた。
***
夕暮れの時洲堂。
ガラス鉢の中のお湯はすっかり冷めてしまったが、その底には、元の美しい形を取り戻した星型のチャームが、静かに横たわっている。
美波は革の手帳を開き、万年筆を抜き取ると、ミッドナイトブルーのインクで、今日出逢った迷子と、金属のルーツについて静かに書き記していった。
『形状記憶合金と、防御創。
極限の恐怖と暴力によって、どんなにその形を歪められようとも。
温かい熱を与えられれば、内部の記憶が目覚め、
必ず元々持っていた美しい姿へと自ら戻っていく。
人間の心も、きっと同じだ。
絶望に耐えきれず、自分自身を壊して記憶を封じ込めてしまっても。
正しい罪の重さと向き合い、誰かの温かい手が寄り添えば、
心は必ず本来の形を取り戻す。
罪の重さに涙を流し、苦しむことができるということが、
彼が心優しい人間であるという何よりの証明だった。
いつか彼が罪を償い終え、もう一度この星の輝きを、
自分の手で握れる日が来ますように。』
書き終えた美波は万年筆を置き、革の手帳を閉じた。
丸眼鏡を外してクロスで拭うと、ランプの光に照らされた彼女の横顔は、探偵としての役目を終え、ただの時洲美波というあどけなく可憐な女性のそれに戻っていた。




