第二話『懺悔』(前)
夏という季節は、時としてひどく気まぐれで、残酷な表情を見せることがある。
ほんの三十分前まで、アスファルトを焦がすように照らしていた強烈な太陽は、突如として湧き上がった巨大な積乱雲によって完全に飲み込まれていた。
昼下がりであるにもかかわらず、空はまるで夜が前倒しでやってきたかのように薄暗く、鉛色に染まっている。開け放たれた窓から入り込む風は、つい先ほどまでの肺を焼くような熱風から一転して、生ぬるく湿った、水の匂いをたっぷりと孕んだ突風へと変わった。美波は降り出す直前の気配を察知し、慌てて窓を閉めた。
遠くで、地鳴りのような低い雷鳴が轟いた。
それを合図にしたかのように、空の底が抜け落ちた。バケツをひっくり返したという表現すら生ぬるい、暴力的なまでの激しい夕立。いわゆるゲリラ豪雨が、下町の古いトタン屋根やアスファルトを容赦なく打ち据え始めたのだ。
耳をつんざくような雨音が、外界のあらゆる生活音、蝉しぐれや車のエンジン音をすべてかき消し、世界を分厚い水の壁で隔絶していく。
そんな荒れ狂う外の世界から切り離されたように、古物商『時洲堂』の店内には、薄暗くも穏やかな、琥珀色の静寂が保たれていた。
飴色のガラス戸は雨風をしっかりと防ぎ、古い柱時計の秒針が時を刻む規則正しい音が、激しい雨音の隙間を縫うようにして店内に響いている。
店主の時洲美波は、店の奥にある使い込まれた桜材のカウンターに座り、卓上の小さな電熱器でとろ火にかけて保温している鉄瓶のお湯を使って、急須で丁寧にお茶を淹れていた。
この日の彼女は、薄手の白いブラウスを着ていたが、急に肌寒くなった空気に合わせ、淡い藤色のカーディガンを羽織った。美波は、大きな黒縁の丸眼鏡の奥にある瞳で、湯呑みから立ち昇る白い湯気を、少しぼんやりとしたあどけない表情で見つめている。
こんな土砂降りの中で、新しくお客さんが来ることはないだろう。そう考えた美波は、両手で温かい湯呑みを包み込むようにして持ち上げ、ふう、と息を吹きかけてから一口飲んだ。ほうじ茶の香ばしい匂いと温かさが、胸の奥へとじんわりと広がっていく。
古い骨董品や書物に囲まれた薄暗い店内で、雨音だけをBGMに過ごす一人きりの時間は、美波にとって決して嫌いなものではなかった。むしろ、外界の喧騒から守られているような、ささやかな安堵感すら覚えている。
しかし、その静けさは、不意に鳴った鈍い音によって破られた。
金物屋の三枝幸一が見事に調整し、指一本で滑るように開くはずの飴色のガラス戸が、何かに引っかかったように弱々しく、そして小刻みに震えながら横へとスライドしたのだ。
頭上の真鍮のベルが、雨音に負けそうなほどか細い音を立てる。
「いらっしゃいませ」
美波は湯呑みを置き、丸眼鏡の奥の瞳を瞬かせながら立ち上がった。
ガラス戸の隙間から、滝のような雨が店内の土間へと吹き込んでくる。
そして次の瞬間、その隙間から、一人の若い男性が文字通り転がり込むようにして店内へと倒れ込んできた。
「あっ」
美波は驚き、慌ててカウンターの奥から飛び出した。
土間にへたり込んだ青年は、二十代半ばほどだろうか。着ている白いシャツも、薄手のスラックスも、頭の先から靴の爪先に至るまで、床に水滴を滴らせるほどずぶ濡れだった。衣服が肌に張り付き、床にはあっという間に雨水の水たまりができている。
しかし、美波を何よりも驚かせたのは、青年の異常なまでの様子だった。
彼の顔面は、血の気が完全に失せ、まるで蝋人形のように真っ青だった。雨の冷たさだけが原因ではない。彼は床にうずくまったまま、膝を抱え込み、全身を激しく震わせている。その呼吸は浅く引きつっており、虚ろに見開かれた両目の焦点は定まっていない。
まるで、背後から迫り来る目に見えない恐ろしい怪物から、命からがら逃げ延びてきたような、極限の恐怖状態にあった。
「大丈夫ですか。しっかりしてください」
美波は青年のそばに膝をつき、彼の背中に手を当てた。氷のように冷たい身体が、微かに痙攣しているのが手のひらから伝わってくる。
その時、美波は青年の横顔を見て絶句した。雨水で張り付いた前髪の隙間から見えたその顔立ちには、はっきりと見覚えがあったのだ。
「あなたは、数日前にいらした、國府田さんですね」
國府田。間違いなく、数日前にこの時洲堂を訪れ、美波とあるやり取りを交わした青年だった。
なぜ彼が、こんな嵐のような土砂降りの中を、傘も差さずに、これほどまでに怯えきった姿で逃げ込んできたのか。
「どうされたのですか、こんなに濡れて。何があったのですか、國府田さん」
美波の呼びかけに対し、青年はビクッと肩を跳ねさせ、ひきつった目で美波を見上げる。しかし、その瞳には美波の姿が正しく映っていないようだった。
美波はこれ以上ここで問い詰めるのは危険だと判断し、すぐさま彼の腕を肩に掛け、立ち上がるのを手伝った。
「とにかく、このままでは本当に風邪を引いてしまいます。奥へ行きましょう」
美波は震える國府田の身体を支えながら、店の奥にある小上がりのスペースへと彼を導く。
古いながらもクッションの効いた革張りのソファに彼を座らせると、美波は店の奥から大きくて乾いたバスタオルを持ってきて、國府田の頭からすっぽりと被せた。
さらに、先ほど自分が淹れたばかりの、一番温かいほうじ茶を新しい湯呑みに注ぎ、彼の手へとそっと差し出した。
「温かいお茶です。ゆっくりでいいですから、少しずつ飲んで、落ち着いてください」
美波の静かで落ち着いた声に、國府田は身をすくませながらも、無傷の左手で湯呑みを庇うように持ち、右手は力なく添えるようにしてその温もりに縋りついた。
強張った指先が湯呑みを揺らし、微かに陶器の触れ合う音が鳴る。彼がフーフーと息を吹きかけて少し冷ましたお茶を、一口、二口と喉に流し込むと、ようやく呼吸の乱れが少しだけ落ち着きを取り戻し始めたようだった。
「國府田さん。少し、落ち着かれましたか」
美波がソファの対面に座り、極力相手を刺激しないように、静かで優しい声で問いかけた。
しかし、タオルの下から美波を見つめ返した國府田の瞳には、安堵の色ではなく、底知れぬ混乱と恐怖が渦巻いている。
「僕が、こうだ」
青年の口から漏れたのは、ひどく掠れ、そして自分の名前を他人のもののように発音する、奇妙な響きを持った言葉だった。
「え」
「あなたは、僕を知っているんですか。こうだというのが、僕の、名前なんですか」
その言葉を聞いた途端、美波の胸の奥で嫌な音がした。
背筋に冷たいものが走った。
國府田は、冗談を言っているわけでも、はぐらかしているわけでもなかった。彼の大きく見張られた両目は、まるで生まれたての赤ん坊のように、目の前にある世界の一切を理解できていない、純粋な空白に満ちていたのだ。
「國府田さん。あなた、ご自分の名前が」
「わからないんです」
國府田は、おぼつかない手で湯呑みをテーブルに置くと、泣き出しそうな声で首を横に振った。
「自分が誰なのか。何歳なのか。どんな仕事をしていて、今日、どこで何をしていたのか。どうしてこんなに雨に濡れて、どうしてこんなにも、心臓が張り裂けそうなくらい、何かに怯えているのか。何も、何も思い出せないんです」
美波ははっとした。
記憶喪失。ドラマや小説の中だけで起こるものだと思っていたそれが、今、目の前の青年に襲いかかっている。
頭部の打撲によるものか、あるいは精神的なショックによるものか。いずれにせよ、彼の記憶からは、自分の名前という自己の根幹すらもすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
「財布」
國府田はずぶ濡れになったズボンのポケットを探り、水を吸って重くなった二つ折りの革財布を取り出し、テーブルの上に置くと、左手だけで中から一枚のプラスチックのカードを不器用に抜き出した。運転免許証だった。
「これを、さっき見ました。顔写真は僕です。名前の欄には、國府田と書いてある。でも、文字を見ても、それが自分だという実感が全く湧かないんです。他人の証明書を見ているみたいで。自分の内側には、何一つ記憶が残っていない」
名前も、過去も、自分が生きてきたすべての証明が、一瞬にして頭の中から消え去ってしまった恐怖。それがどれほどの絶望と孤独を伴うものか、美波には想像するだけで胸が締め付けられる。
「では、どうしてこの時洲堂へ。ここは、大通りから外れた路地裏です。偶然雨宿りに入るには、少しわかりにくい場所ですが」
「これ、です」
國府田が、もう片方のポケットから、雨水で濡れてふやけ、ボロボロになった小さな紙切れを取り出して小さなテーブルの上に置いた。
それは、活版印刷で店名が印字された、厚紙のショップカードだった。
『古物商・探し物探偵 時洲堂。
迷子になったモノ、見つけます。』
美波が配っている、時洲堂の名刺だった。
「気がついたら、雨の中でこのカードを握りしめて立っていました。記憶はないのに、なぜかここへ行かなければならない、この場所に助けを求めなければならないという強い衝動だけがあって。スマートフォンの地図アプリで、この住所だけを頼りに、ずっと、ずっと走って逃げてきたんです」
無意識の領域で、彼が唯一握りしめていた命綱。それが、数日前に美波が渡した時洲堂のショップカードだったのだろう。
「國府田さん」
美波が言葉をかけようとした、その矢先のことだった。
膝の上に力なく置かれていた國府田の右手のひらから、雨水で薄まった血が指先を伝い、床へと滴り落ちたのだ。
「國府田さん、手が。血が流れています」
美波が慌てて身を乗り出し、彼の右手を取る。
雨水でふやけた彼の右手のひらには、何か鋭利な刃物を力任せに強く握りしめたことによってついた、深く生々しい切り傷が真横に走っている。傷口はパックリと開き、今もじわじわと赤い血が滲み出ている。
「傷の手当てをします。救急箱を」
「持っていたんです」
美波が立ち上がろうとしたのを、國府田の虚ろな声が引き止める。
「え」
「僕が、右手で。これを、力任せに握り潰したから、手が切れたんだ」
國府田は無傷である左手で不器用にジャケットのポケットを探り、何かを取り出すと、美波の目の前にある小さなテーブルの上に置く。
それは、彼の血と雨水に濡れた、奇妙な金属の塊だった。
美波は小上がりから素早く立ち上がり、カウンターの奥から救急箱を持って戻ってきた。消毒液を含ませたガーゼで國府田の右手の血を丁寧に拭き取り、きつく包帯を巻き終えると、テーブルの上に置かれた金属を見つめた。
銀色に鈍く光るその金属は、細いワイヤーのような素材でできているようだったが、元の形が何であったのか全く推測できないほどに、ぐちゃぐちゃに、いびつに捻じ曲げられ、複雑に絡み合って潰されている。
まるで、誰かが恐怖に駆られて、ポケットの中で握りこぶしを作り、そのまま力任せに握り潰したかのような、痛々しい形をしている。
「改めてこの金属を見ると」
國府田は、手当てを受けた右手のひらの痛みに耐えながら、テーブルの上の金属の塊を見つめ、吐き気を催すように口元を押さえる。
「腹の底から、とてつもない吐き気が込み上げてくるんです。思い出したくない。絶対に思い出しちゃいけない。何か、取り返しのつかない恐ろしいことがあったのだと、本能が警鐘を鳴らしている。僕の心は、きっと、この金属に関わる何かから逃げるために、耐えきれなくなって、自分自身の記憶をすべて消し飛ばしてしまったのだと思います」
國府田の目から、恐怖と絶望の涙が零れ落ちた。
「でも、自分が誰かもわからないまま、こんな真っ暗な恐怖だけを抱えて生きていくなんて、耐えられない。名刺に書いてありました。迷子になったモノ、見つけますと。お願いです。僕が失くしてしまった、僕の記憶を、僕自身を探してください」
それは、記憶喪失という名の暗闇に突き落とされた青年の、魂からの悲鳴だった。
自分自身を探してほしい。形のない、しかし何よりも重い依頼。
美波は、決して彼から目を逸らさなかった。
彼女はゆっくりと息を吸い込むと、胸元に下げていたクロスで丸眼鏡のレンズをもう一度拭き、再びかけ直してから、ブリッジを指先で密やかに押し上げる。
愛すべきお人好しな店主の顔から、モノに宿る記憶の糸をたぐり寄せ、見落とされた小さな痕跡から真実を見つけ出す冷徹な探偵の視座へと、彼女の空気が切り替わる。
「わかりました。そのご依頼、時洲堂がお受けいたします」
美波は澱みなく宣言すると、エプロンのポケットから銀色のルーペを取り出し、テーブルの上に置かれた無残に握り潰された金属の塊へと顔を近づける。
ルーペ越しに金属の表面を観察する美波の瞳が、驚きに大きく見張られる。
「これは」
美波の脳裏に、あの日の記憶が鮮明に蘇ってくる。
数日前の午後。
時洲堂のガラス戸が開き、ひどく思い詰めたような顔をした一人の青年がやってきた。それが國府田だった。
彼はカウンターの前に立つと、ポケットから小さなベルベットの小箱を取り出し、わななく手で美波に差し出した。
『これ、いくらになりますか。急ぎで、現金が必要なんです。いくらでもいいから、買い取ってください』
そう言って、身分を証明する運転免許証も一緒にカウンターへ置いた。
小箱の中に入っていたのは、古びたプラチナのリングに、小さな誕生石があしらわれた指輪だった。
しかし、美波の眼は誤魔化せなかった。プラチナのリングの内側には、摩耗して消えかかっているものの、イニシャルの刻印があった。そして何より、指輪全体から伝わってくる、長年大切に身につけられていた柔らかな傷の数々。
『お母様の、形見ですね』
美波の言葉に、國府田はハッとして俯く。
彼は事業か何かの借金に追われ、精神的に追い詰められており、金策のために亡き母のたった一つの形見を手放そうとしていたのだ。
『これには、お母様のあなたに対する、とても温かい想いが宿っています。モノは、持ち主の心を記憶するんです』
美波は指輪を小箱に戻し、静かに國府田へと押し返す。
『今のあなたは、ひどく焦り、自分を見失っています。そんな状態でこの指輪を手放せば、あなたは一生後悔することになる。本当に手放す覚悟ができるまで、これを売ってはいけません。私は、買い取りません』
美波の凛とした、しかしどこまでも優しい言葉に、國府田はカウンターに突っ伏して少しの間だけ声を殺して泣いた。
そして、指輪を持ち帰り、なんとか別の方法を考えてみると言って立ち上がったのだ。
その帰り際。美波は少しでも彼のお守りになればと、時洲堂のショップカードと共に、売り物にはならないようなジャンク品の箱から、ある小さな金属の装飾を彼の手のひらに乗せた。
『お守り代わりです。持っていてください』
あの日、美波が國府田の手に渡した金属。
それは、細いワイヤーを曲げて作られた、綺麗な星の形をしたチャームだった。
「國府田さん」
美波はルーペを下ろし、血に染まった歪な金属の塊から顔を上げる。
数日前に渡した時は、あんなにも綺麗な星の形をしていたのだ。
しかし、美波の視線は金属ではなく、包帯を巻かれた國府田の右手のひらへと向けられている。
「國府田さんは先ほど、この金属を力任せに握り潰したせいで、手が切れたとおっしゃいましたね」
「はい。そうです。ポケットの中で、血が出るほど強く握りしめて」
「いいえ。人間の記憶や恐怖というものは、時として事実をすり替えてしまいます」
美波は、優しい声色で、しかし冷徹に言葉を続ける。
「この金属のチャームは、非常に細く、角の丸いワイヤーでできています。人間がどれほど異常な力で握り潰そうとも、素手の肉がこれほどパックリと深く裂けるような鋭利な切断面は、この金属のどこにも存在しません」
「え」
「あなたの手のひらにあるその傷は、チャームで切れたのではありません。もっと鋭利なもの、例えば『ナイフの刃』などを、素手でギュッと握りしめて防いだ際につく、典型的な防御創です」
國府田が息を呑む。
ナイフ。防いだ。その言葉が、彼の頭の奥で硬い扉をガンガンと叩き始める。
「あなたは何か恐ろしい出来事に巻き込まれ、刃物から身を守るために素手でそれを握りしめて手を切り裂いた。そして、その血まみれの手で逃げ出し、恐怖のあまりポケットの中にあったこのチャームを無意識に強く握りしめ、原型をとどめないほどに歪めてしまったのです」
國府田は、自分の右手の傷を呆然と見つめる。
この傷は、チャームで切ったのではない。刃物を、握ったというのか。
いったい誰の刃物を。そして、どうして。
「國府田さん。あなたが無理やり歪めてしまったこの金属に、そしてあなたの心に、本来の形を取り戻す準備をしましょう」
美波は静かに、けれど強い覚悟を込めた声で告げる。
彼女は一度カウンターに戻り、耐熱ガラスでできた小さな浅い鉢と、電熱器の上でシュンシュンと湯気を立てていた鉄瓶を木のお盆に乗せ、テーブルへと運んでくる。鉄瓶の中には、八十度以上の高温を保った熱湯がたっぷりと残っていた。




