↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と消えないぬくもり―』  作者: 長月有希


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/16

第一話『叫び』(中)

 時洲堂の使い込まれたカウンターに、暴力的なまでの重さを持った二つの異物が叩きつけられた。鈍く冷たい音が、静寂に包まれていた薄暗い店内の空気を震わせる。

 美波は丸眼鏡の奥の瞳をわずかに見開き、カウンターの上に置かれた二つのモノを見つめた。


 一つは、真鍮製の丸いフレームに嵌め込まれた円形のアクリル板だった。

 大きさは、大人の手のひらにちょうど収まる程度。外枠の真鍮は長い年月を経て緑青が浮き、所々に傷が刻まれている。しかし、何よりも異様なのは、中央に嵌め込まれた板そのものだ。それはただの黒色ではない。店内に差し込むわずかな自然光も、天井から下がるオレンジ色のランプの光も、一切を反射することなくすべてを飲み込んでしまうような、底なしの漆黒だった。


 そしてもう一つ。漆黒の板の横に転がされたのは、工事現場などで使われるような、ずっしりと重い鉄のハンマーである。錆の浮いた無骨な鉄の塊は、周囲のアンティーク品が放つ温もりを拒絶するように、凶器としての冷え冷えとした殺気を漂わせていた。


「これは」


 美波の喉から、声が漏れた。

 目の前にある漆黒のアクリル板。その真鍮の丸いフレームの装飾には、見覚えがあった。十年前の夏休みの終わり、地域の子供科学教室で、凪沙と二人でずっと一緒だと笑い合いながら作った、あの手作りのサンキャッチャーだった。


 あの頃は、太陽の光に透かせば、赤や青、緑といった、息を呑むほどに鮮やかなステンドグラスの色彩を放っていたはずの、二人の宝物。


 しかし、それはかつての輝きを完全に喪失し、ただの不気味な黒い石くれのように変わり果てていた。


「どう。驚いた」


 凪沙は、光を失った瞳のまま、口元の端だけを歪めて冷たい笑みを浮かべた。


「十年前、あんたが私たちの宝物だねと言って、大切そうに両手で包み込んでいたあのステンドグラスよ。私が父親に殴られて施設に引き取られる時、あんたが泣きながら、これを私だと思って持っていてと押し付けてきたあのガラクタ。でもね、見ての通りよ。あの頃の綺麗な色なんて、もうどこにもない。強い光に透かそうが、真夏の太陽に翳そうが、これはもうただの真っ黒な不透明のゴミよ」


 凪沙は、血の気の引いた細く長い指で、漆黒の板の表面を叩いた。

 硬質な、乾いた音が鳴る。


「私の人生と一緒。あんたと別れてからの十年間、私の世界には一筋の光も射さなかった。施設での惨めな生活、大人たちの憐れむような目、そして父親が残した借金の取り立て。どんなに理不尽でも、どんなに助けを求めて声を枯らしても、誰も私を救ってなどくれない。神様なんていない。あんたがこの陽だまりみたいな店で、優しい人たちに囲まれて笑っている間、私はずっと、この真っ黒に塗りつぶされた板のような暗闇の底を這いずり回っていたのよ」


 凪沙の声が、次第に低く、そして怒りと絶望で小刻みに震え始めた。

 彼女の右手首がゆっくりと伸び、カウンターの上に置かれた鉄のハンマーの太い柄を、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。


「明日の朝。私は、父親が作った莫大な借金を肩代わりしてくれた、顔も知らない初老の資産家の男の元へ行くことになっているの」


 その言葉の意味を理解した瞬間、美波の肩が跳ねた。


「凪沙、ちゃん」

「結婚なんて、そんな綺麗な言葉で飾れるものじゃないわ。ただの身売りよ。借金の形に買われたの。逃げる場所なんてどこにもない。私の人生は、もう今夜で完全に終わるのよ。明日からは、心も体も私のものじゃない。ただ愛想笑いを浮かべるだけの、感情のない精巧な人形になるの」


 凪沙はハンマーを握りしめたまま、奥歯を強く噛み締めた。完璧に施された化粧の奥で、彼女の魂が音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。


「だから、今夜のうちに自分から心を殺して、何も感じない空っぽの容れ物になると決めたの。でもどうしても一つだけ、未練が残っていた。あんたよ、美波。私を一人で地獄に置き去りにして、自分だけ幸せになったあんたとの記憶が、私の心をいつまでも惨めにさせる。だから、死ぬ前にこの醜いゴミを壊しにきたの」


 凪沙は握りしめたハンマーをゆっくりと持ち上げ、漆黒のアクリル板へとその重い鉄の頭を向けた。


「あんたは失くしモノを見つける探偵みたいなことをやっているのだって。くだらない下町の噂で聞いたわよ。なら、私が人形になって死ぬ前の余興に付き合いなさい。あんたのその自慢の眼で、この真っ黒なゴミの中に、あの頃の思い出の輝きが一欠片でも残っているか、今すぐ鑑定しなさいよ」


 凪沙の濁った瞳が、狂気のような鋭さを帯びて美波を射抜く。


「何も見えないなら、私たちの絆が、最初から偽物だったということよ。その時は、私がこのハンマーで、このガラクタも、あんたのそのおめでたい日常も、全部粉々に叩き壊してあげる」


 それは、依頼という仮面を被った残酷な暴力だった。

 絶望の淵に立ち、自ら命を絶つかのように心を殺そうとしている親友の、血を吐くような最後の悲鳴。

 美波は、ハンマーを握りしめて荒い呼吸を繰り返す凪沙の姿から、決して目を逸らさなかった。


 普通なら恐怖で後退りし、警察を呼ぶと叫ぶ場面だろう。しかし、美波の足は一歩も後ろへは引かなかった。彼女の丸眼鏡の奥にある琥珀色の瞳は、凪沙の狂気を真っ直ぐに受け止め、その奥でうずくまって泣いている、十歳の頃の凪沙の孤独だけを見つめていた。


「凪沙ちゃん」


 美波は、優しく語りかけた。


「鑑定など、するまでもありません。これは、私たちが一緒に作ったあのアクリル板です。そして、私と凪沙ちゃんの思い出は、こんな真っ黒に死んでしまったりはしていません。見えなくなっているだけです」

「ふざけないで」


 凪沙の感情が、限界を突破した。

 彼女は激昂し、重い鉄のハンマーを頭上高く振り上げた。


「どこが綺麗だと言うのよ。目が腐っているのではないの。こんな真っ黒なゴミのどこに、十年前の色彩があると言うのよ」


 凪沙は振り上げたハンマーを、漆黒の板ではなく、カウンターの脇に置かれていた商品展示用のアンティークのガラスケースへと力任せに振り下ろした。


 鼓膜を破るような轟音と共に、ガラスケースが粉々に砕け散った。


 中に飾られていた江戸切子のグラスや、小さなステンドグラスのランプが、床に叩きつけられて無残な音を立てて壊れていく。鋭利な破片が四方八方に飛び散り、薄暗い店内に冷たい光を反射させながら散乱した。


「嘘よ、嘘。私だけが地獄で苦しんで、あんただけが綺麗に笑っているなんて、絶対に許さない」


 凪沙は我を忘れていた。

 丁寧に塗られていたマスカラが涙で溶け出し、黒い筋となって頬を汚していく。彼女は泣き叫びながら、ハンマーをめちゃくちゃに振り回した。


 破壊音が、時洲堂の店内に連続して響き渡る。壁に掛けられていた古い柱時計のガラスが割られ、振り子が狂ったように揺れる。棚に置かれていた陶器の皿が砕け、破片が美波の足元まで飛んできた。


「やめてください、凪沙ちゃん」


 美波は声を上げたが、すさまじい破壊音と凪沙の慟哭にかき消されてしまう。

 凪沙の憎悪の刃は、周囲のモノを破壊するだけでは収まらなかった。彼女の狂気に満ちた瞳が、ついにカウンターの内側に立つ美波自身へと向けられたのだ。


「あんたもこのゴミと同じように真っ黒に壊れてしまえばいいのよ」


 凪沙はカウンターに身を乗り出し、美波の身体めがけて、重い鉄のハンマーを突きつけた。


「一緒に、この真っ黒な地獄に落ちなさいよ」


 美波は逃げなかった。

 目を閉じることすらしなかった。

 ただ、悲しみに歪む親友の顔を、すべてを受け入れるような、底知れぬ慈愛に満ちた瞳で真っ直ぐに見つめ返していた。


 ***


「ちょっと、今の音、何かしら」


 時洲堂から少し離れた斜め向かいにある、古い煙草屋の店先。

 打ち水をしてから箒で掃除をしていた初老の女性が、肩を震わせて顔を上げた。


 蝉しぐれにかき消されそうになりながらも、時洲堂の古びた木造建築の中から、明らかに何かが激しく砕け散るような音と、女性の狂乱する叫び声が漏れ聞こえてきたのだ。


「時洲さんの店から。うそ、強盗かしら」


 女性は箒を放り出し、慌ててエプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。震える指で画面を操作し、警察へと発信する。


 数回の呼出音の後、通信指令室の警察官の声が繋がった。


『はい、一一〇番です。事件ですか、事故ですか』

「じ、事件です。早く来てください。幸町三丁目の古い路地裏にある、時洲堂という骨董品屋さんの中で、誰かが暴れているんです。すごい音がしていて、店主の女の子が危ないかもしれません」

『落ち着いてください。犯人は男ですか、女ですか。凶器は持っていますか』

「わかりません。外からは見えなくて、でも、ガラスが割れる音と、女の人の叫び声が聞こえます。早く、早く来てください。殺されてしまいます」


 女性の悲痛な通報を受け、通信指令室から直ちに管轄の警察署へと緊急配備の指令が下された。


『各局、至急現場へ向かえ。幸町三丁目、骨董品店内で器物損壊および暴行の疑い。対象者は凶器を所持している可能性あり。至急臨場せよ』


 警察の初動は早かったものの、この下町が抱える特有の地理的な条件が、彼らの到着を絶望的に遅らせることになる。


 時洲堂がある旧市街、いわゆる下町エリアは、戦前からそのまま残る入り組んだ狭い路地が、まるで血管のように複雑に絡み合っている。車のすれ違いすら不可能な細い一方通行の道や、行き止まりが多く、大型のパトカーがサイレンを鳴らして直行しようにも、侵入できないのだ。


 大通りで車を止め、そこから先は警察官が重い装備のまま、徒歩で現場の路地裏まで走らなければならない構造になっていた。


 遠くの大通りから、パトカーのサイレンの音が微かに聞こえ始める。

 しかし、その音は路地裏の迷路に阻まれ、なかなか近づいてこない。

 警察官が現場に到着するまで、早くても三分。遅ければ五分はかかるだろう。


 凶器を持った人間が暴れている密室において、その数分間という時間は、人間の命を奪うにはあまりにも長すぎる、絶望的な空白だった。


 サイレンの音が焦燥感を煽るように響く中、時洲堂の店内では、凪沙の振り下ろしたハンマーが、今まさに美波へと空を切っていた。


 逃げようとしない美波の命が、冷たい鉄の重みによって奪われようとした、その刹那。

 遠くで鳴るサイレンの音よりも早く。

 誰よりも早く、近くの裏通りから灼熱のアスファルトを全力疾走で駆け抜けてきた一人の男がいた。


 幸一が丹念に調整し、指一本で滑らかに動くはずだった飴色のガラスの引き戸が、レールの枠が外れんばかりの凄まじい力によって、横へと激しく引き開けられた。


 勢い余って戸が壁に激突し、激しい衝撃で引き戸のガラスにヒビが入る。

 入り口に現れたのは、肩で激しく息を切らし、額から汗を流している長身の男。

 警視庁捜査一課のエリート刑事でありながら、『管轄外のパトロール』などという見え透いた口実を作っては、美波の顔を見るためだけに足繁く時洲堂の周辺をうろついている不器用な男、桐生(きりゅう)だった。

 本日は非番の私服姿であり、ネクタイも締めていなかったが、その鋭い眼光は紛れもなく、修羅場を幾度も潜り抜けてきた本物の猟犬のそれだった。


 店内に飛び込んだ桐生の視界に、粉々に砕け散った惨状の跡と、カウンター越しに美波へとハンマーを振り下ろそうとしている狂乱した女の後ろ姿が映る。


「動くな」


 桐生の怒声が、雷鳴のように時洲堂の店内に轟いた。

 殺気に満ちたその声に、凪沙がハッとして背後を振り返る。

 しかし、彼女が振り向くよりも早く、桐生の身体はすでに獣のようなバネで床を蹴り、散乱するガラスの破片を踏み砕きながらカウンターの横へと到達していた。

 一切の躊躇もない、警察官としての制圧行動。

 桐生は、ハンマーを握りしめ、振り下ろそうとしていた凪沙の右手首を、下から跳ね上げるようにして強烈に掴み上げた。


「ああっ」


 凪沙が鋭い痛みに短い悲鳴を上げる。

 桐生はそのまま凪沙の腕を背中側へと捻り上げ、彼女の体勢を完全に崩した。

 指先から力が抜け、重い鉄のハンマーが鈍い音を立てて床に転がり落ちる。桐生はその凶器を素早く蹴り飛ばし、美波から遠ざけた。

 そして抵抗する隙すら与えず、凪沙の膝の裏を足で払い、彼女の身体を床へと容赦なく組み伏せた。


「ぐっ、痛い。離せ、離しなさいよ」

「暴れるな。下手に動くと破片が刺さるぞ」


 床に顔を押し付けられ、腕を極められた凪沙が泣き叫びながら身をよじる。

 しかし、長身の桐生の力で完全に抑え込まれており、微動だにできない。桐生は凪沙の腕を極めたまま、落ち着いた低い声で告げた。


「器物損壊、および暴行の現行犯で逮捕する。大人しくしろ」


 警察官として、目前の脅威を無力化し、市民である美波の命を守るための、正しい行動だった。

 しかし、その殺伐とした空間、法と力によって相手を押さえつける冷たい空気を、凛とした澄み切った声が切り裂いた。


「離してあげてください、桐生さん」


 桐生が怪訝そうに顔を上げる。


 カウンターの奥から歩み出てきた美波は、足元に散らばる鋭いガラス片など全く気にする素振りも見せず、床に組み伏せられている凪沙のすぐそばまで歩み寄っていた。


「何を言っているんだ、時洲。こいつはあんたにハンマーを振り下ろそうとしたんだぞ。店もこんなに滅茶苦茶にして、立派な犯罪者だ」

「いいえ。彼女は犯罪者ではありません。私の店で、私が彼女を告訴しないと言っているのですから、これは事件ではありません」


 美波は、桐生の怒鳴り声を澱みのない、絶対に譲らない強い意志で受け止めた。


「彼女は大塚凪沙ちゃん。私の、一番大切な親友です」


 美波はその場にしゃがみ込み、床に顔を押し付けられて泣きじゃくる凪沙と、真っ直ぐに視線を合わせた。

 その琥珀色の瞳には、恐怖も、怒りも、非難の色も微塵もなかった。

 そこにあるのは、十年間という途方もない時間、たった一人で暗闇の中を歩き続け、心まで染め上げられてしまった親友への、深すぎる慈愛だけだった。


「凪沙ちゃんは、私を傷つけるためにここに来たのではありません。助けてほしくて、どうしようもなくて、ここに来てくれたんです。だから、彼女はこの店の依頼人です。お願いですから、手を離してください」


 美波の静かで、けれど圧倒的な引力を持った言葉に、桐生は気圧されたように息を呑んだ。

 刑事としての理性は危険だと激しく警鐘を鳴らしている。しかし、目の前にいる美波の、相手の痛みを丸ごと包み込むような透明な覚悟を前にしては、どんな法も力も、まったく意味を成さないように思えた。


「何かあっても、俺はもう責任取らないぞ」


 桐生は忌々しげに舌打ちをすると、凪沙の腕の拘束を解き、立ち上がった。

 解放された凪沙は、床の上に崩れ落ちたまま、肩を震わせて荒い呼吸を繰り返している。憎悪と絶望の糸が限界まで張り詰め、今にも切れてしまいそうなほど脆く、痛々しい姿だった。


「美波、あんた、どうして。私が、憎くないの」


 凪沙が震える声で呟く。

 美波は小さく微笑み、凪沙が最初にカウンターに叩きつけた、あの光を通さない漆黒の円形アクリル板を、壊れ物を扱うように両手で優しく包み込んだ。


「憎いわけがありません。凪沙ちゃんが、私との思い出を本当に壊すためにここに来たのではないことくらい、私にはわかっていますから」


 美波はエプロンのポケットから、商売道具である銀色のルーペを取り出した。

 そして、大きめの黒縁の丸眼鏡のブリッジに指先を当て、上に押し上げた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。