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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と消えないぬくもり―』  作者: 長月有希


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第一話『叫び』(前)

 七月。日本列島をすっぽりと覆い尽くした強烈な太平洋高気圧は、逃げ場のない分厚い熱波をここ、東京の下町へと容赦なく送り込んでいた。


 突き抜けるような群青色の空からは、肌を焦がす陽射しが降り注いでいた。ひび割れたアスファルトの路地裏には、ゆらゆらと視界を歪ませる陽炎が立ち昇り、街路樹に群がった何百匹もの蝉たちが、まるで己の命の最後を燃やし尽くすかのように、けたたましい鳴き声を響かせている。時折吹き抜ける風はもはや涼を取るためのものではなく、肺を焼く熱風でしかない。少し外を歩くだけで呼吸すら苦しくなる、猛暑日の午後だった。


 そんな過酷で喧騒に満ちた外の世界とは対照的に、古物商『時洲堂(ときすどう)』の店内には、外界の熱気を遮断したひんやりとした空気と、古いモノたちが密やかに呼吸を繰り返す、琥珀色の時間がゆったりと流れていた。

 軒先に吊るされたガラスの風鈴が、涼やかな音を立てる。

 店主である時洲(ときす)美波(みなみ)は、店の奥に鎮座する使い込まれた桜材のカウンターに深く腰掛け、よく冷えた麦茶の入った切子グラスにそっと口をつけていた。


 この日の美波は、涼しげで柔らかな若草色のサマーニットの上に、無骨だがどこか温かみのある生成りの帆布エプロンを身につけている。ゆるく一つに結んだ黒髪のうなじから、華奢な肩へと続く細く白い首筋には、ひと筋の汗が光っていた。


 彼女は大きめの黒縁の丸眼鏡を外すと、手元の専用クロスでレンズを丁寧に拭い、小さくため息をついてカウンターの上に置いた。

 眼鏡を外した美波は、探偵として謎に向き合う時の、あのすべてを見透かす知性を湛えた表情とは違い、少しだけ視界がぼやけて心もとなげな、どこかあどけない無防備な女の子の横顔を覗かせていた。


 歴史を吸い込んだ骨董品や、古紙の匂いが染み付いた古書に囲まれた薄暗い店内で、彼女のその清楚で透明感のある佇まいは、まるで深い森の奥で一輪の白い百合の花がひっそりと咲いているかのような、静謐な華やかさを放っていた。


 ふと、美波の視界の端で、何かが動く気配がした。

 入り口の飴色のガラス戸が、驚くほど滑らかに、軋み音一つ立てず横へと開いたのだ。

 以前は開け閉めするたびに不快な引っ掛かりがあり、力を込めなければ動かなかった古めかしい引き戸だが、近所に住む金物屋の三枝(さえぐさ)幸一(こういち)が寸分違わぬ削り出しとレールの調整を施してくれたおかげで、今は指で触れただけでも氷の上を滑るように動く。頭上に吊るされた真鍮のベルだけが、心地よい和音を奏でて来客を告げた。


「いらっしゃいませ」


 美波は手元の革の手帳に棚卸しの記録を書き込んでいた万年筆を茶器に戻し、カウンターの上の丸眼鏡を素早くかけ直した。視界の焦点を合わせると、柔らかい笑顔を向けて立ち上がった。


 彼女が直前まで使っていた万年筆が差されているのは、薄汚れてくすんだ時代物の茶器だ。先日、鑑定界の重鎮である神谷宗珠から、戦国末期の大泥棒・土岐(とき)半次郎(はんじろう)が盗み出した国宝級の幻の茶器だと恐ろしい来歴を明かされたばかりの代物だった。

 神谷から運命を狂わせると警告を受けたものの、美波はあえてそれを金庫に仕舞い込むような真似はしなかった。祖父の遺したこの茶器の因果を自分の手元で見極めると決意していたからだ。ただし、警告を受けて内部を傷つける金属のハサミなどは抜き取り、今は傷のつかない長年愛用している万年筆だけを数本、そっと立てている。


 敷居を跨いで店内に入ってきたのは、見知った顔だった。汗で濡れた作業着姿の配送業の青年、冬馬(とうま)である。彼は首に巻いたタオルで汗を拭いながら、手にした端末を操作し、人懐っこい笑顔でカウンターへと歩み寄ってきた。


「時洲さん、こんにちは。いやあ、今日も尋常じゃない暑さですね。お荷物のお届けに上がりました」

「冬馬くん、いつもありがとうございます。外は大変な暑さでしょう。少し休んでいってくださいな」


 美波はカウンターの奥にある小さな冷蔵庫から、よく冷えたおしぼりを取り出し、冬馬へと手渡した。


「助かります。アスファルトの照り返しが厳しくて、干からびそうだったんですよ。そうだ。これ、時洲さんに俺からの差し入れです。途中のスーパーで買ってきたのですが、ドライアイスを多めにもらってきたので、まだ凍っているはずです」


 冬馬は嬉しそうにおしぼりで顔と首の汗を拭いながら、白い冷気を上げる紙袋の中から、小さなカップアイスを取り出してカウンターに置いた。美波の瞳が、そのパッケージを見て子供のように輝く。


「嬉しいです。私、ちょうど冷たくて甘いものが食べたいと思っていたところだったんです。お気遣い、本当にありがとうございます、冬馬くん」

「時洲さんのその顔を見れば、今日一日の疲れなんて一発で吹き飛びますよ。あとこれ。さっき三枝さんの家に配達に伺った際、奥さんからこれを預かりまして。時洲さんに渡してくれと頼まれました。夏野菜の特製マリネだから、ちゃんと冷蔵庫に入れておいてねと言っていました」


 冬馬が差し出したのは、色鮮やかなトマトやナス、パプリカがオリーブオイルと酢に漬け込まれた、見るからに美味しそうなマリネだった。


「洋子(ようこ)さんから。ふふ、いつも気にかけていただいて、私は本当に幸せ者ですね」


 美波は冬馬から荷物とマリネを受け取ると、そのまま冷蔵庫にしまい、さっそく冬馬が買ってきてくれたカップアイスの蓋を開けた。小さな木のスプーンで表面を削るように掬い、一口食べる。


 ひんやりとしたバニラの濃厚な甘さが口いっぱいに広がり、美波の真っ白な頬がわずかに桜色に染まった。冷たさに少しだけ肩をすくめ、頬に手を当ててふわりと微笑む。その一瞬の表情には、隠しようのない可憐さと、誰の心も惹きつけてやまない、純粋で飾らない透明感が宿っていた。


 冬馬は少しだけ顔を赤くして、照れ隠しのように制服の帽子を深く被り直す。


「それじゃ、俺は午後の配達に戻りますね。時洲さんも、店の中とはいえ水分補給はしっかりして、熱中症には気をつけてください」

「はい。冬馬くんも、どうかお気をつけて。いってらっしゃい」


 冬馬が手を振りながら店を出ていく。

 三枝幸一が直した引き戸が、滑らかに閉まり、外界の強烈な熱気と蝉の鳴き声を再び遮断した。真鍮のベルが鳴り終わると、時洲堂には再び元の、心地よい冷気と静寂が戻ってきた。


 美波はカウンターの椅子に深く腰を下ろし、一人密やかにアイスを食べ進める。

 分厚いガラス戸に阻まれて、外の蝉しぐれが、まるで水底から水面を見上げているかのように、遠い世界の出来事として聞こえる。

 壁に掛けられた年季の入った柱時計の秒針が規則正しく時を刻む音と、美波が時折スプーンを動かす微かな音だけが、薄暗い店内に満ちていた。

 寡黙だが確かな職人の腕で店を守ってくれる三枝幸一。いつも美味しい料理と明るい声で元気づけてくれる洋子。そして、爽やかな笑顔で日常を運んできてくれる冬馬。

 下町の、温かく優しい人々に囲まれて過ごすこの穏やかで幸福な日常が、美波にとっては何よりの宝物であり、生きるための陽だまりだった。


 アイスを食べ終え、空になったカップを片付けようと、美波が椅子から立ち上がった、その矢先のことだった。


 再び、ガラスの引き戸が開いた。


 しかし、その開け方は先ほどの冬馬のような、気遣いのある遠慮がちなものではなかった。

 幸一が調整し、少しの力で滑るように動くはずの引き戸が、凄まじい力で横へと乱暴に引かれ、レールの端の木枠に激突して、鈍く暴力的な音を立てたのだ。

 天井の真鍮のベルが、悲鳴を上げるように激しく、耳障りな音を立てて鳴り響く。


「いらっしゃいま……」


 美波の挨拶は、最後まで続かなかった。

 敷居を跨いで店内に入ってきた人物の姿を視界に捉えた瞬間、美波は丸眼鏡の奥の瞳を大きく見開いたまま、呼吸を忘れたように硬直した。


 そこに立っていたのは、美波と同年代の、二十歳になったばかりの若い女性だった。


 ひと目で高級品とわかる、体に密着した漆黒のノースリーブドレス。手には海外の有名デザイナーのロゴが鈍く光る大きめのレザートートバッグを持ち、足元には、昔ながらの木造の床には不釣り合いなほど鋭利なヒールを履いている。髪は美容室で丁寧に巻かれ、化粧も隙がないほど念入りに施されていた。


 しかし、その華やかで豪奢な装いとは裏腹に、彼女の全身から放たれる空気は異様なほど重く、そして凍てつくほど冷たかった。

 何より美波を戦慄させたのは、その女性の瞳だった。

 丁寧に彩られたその両目は、光を失い、まるで深海に沈んだ泥のように淀み、濁りきっていた。生きる活力も、未来への希望も、人間らしい一切の感情が抜け落ちた、死人の瞳。


 ただ一点、カウンターの奥に立つ自分を射抜くその視線の奥にだけ、どす黒く煮えたぎる憎悪の炎が不気味に燃えているのを、彼女は感じた。


「相変わらず、周りに愛される、おめでたいお人好しね。美波」


 女性の口から紡がれた声は乾燥し、砂を噛むような響きを持っていた。

 その声を聞いた途端、美波の背筋に冷たいものが走った。


 十年間。ただの一日たりとも忘れたことのなかった、あの懐かしい声。少し低くて、いつも自信に満ち溢れていて、泣いてばかりいた美波の手を力強く引っ張ってくれていた、あの声。

 しかし今は、その面影すら残っていないほどに擦り切れ、絶望という名の毒に染まりきっている。


「大塚、凪沙ちゃんですか」


 美波の声が、微かに震えた。


 大塚(おおつか)凪沙(なぎさ)。


 それは、美波が十歳の頃、世界で一番近くにいて、一番大切に想っていた幼馴染の名前だった。

 しかし、美波の記憶の中に生きている凪沙は、いつも泥だらけのスニーカーを履き、短い髪を揺らしながら、太陽に向かって咲く向日葵のように笑っている、元気な少女の姿だった。

 目の前に立つ、ブランド服で全身を固め、憎しみに満ちた濁った瞳で自分を睨みつけるこの女性と、記憶の中の大切な親友の姿が、どうしても重ならない。


「外からずっと見ていたわよ。配達員の男にアイスを買ってもらって、嬉しそうに笑って。近所のおばさんからは料理のお裾分け。本当に、吐き気がするほど幸せそうじゃない」


 凪沙は鋭いヒールの音を響かせながら、ゆっくりとカウンターへと近づいてきた。

 彼女が一歩動くたびに、高価で甘ったるい香水の匂いが店内に広がる。しかしそれは、時洲堂の歴史を刻んだ木の香りや、インクの匂いと反発し合い、美波の胸を締め付けるほどの圧倒的な息苦しさを生み出していた。


「凪沙ちゃん。どうして、ここに。私、ずっとあなたのことを探していたんですよ。あの日から、あなたがどこに行ってしまったのか」

「黙りなさい」


 凪沙のひときわ低い声が、美波の必死の言葉を冷たく遮った。


「あんたが私のことなんて、本気で探すわけないじゃない。私を一人で地獄の底に見捨てて、自分だけこんな温かい場所で、優しい人たちに囲まれて、ぬくぬくと生きてたくせに。裏切り者が」


 裏切り者。


 その四文字は、鋭利な刃となって美波の胸の最も柔らかい部分に深く突き刺さった。

 凪沙の濁った瞳から絶え間なく放たれる、理不尽で、しかし圧倒的なまでの孤独と逆恨みの感情。それが時洲堂の幸福で穏やかだった空気を一瞬にして凍りつかせ、この古い店を、逃げ場のない一対一の密室へと変貌させてしまった。


 美波はカウンター越しに凪沙を見つめたまま、指一本動かすことができなかった。

 凪沙のその絶望に歪んだ顔を見た瞬間、美波の脳裏に、十年前のあの過酷な記憶が、痛みを伴うほどの鮮烈な色彩を持って蘇ってきたからだ。


 十年前。美波がまだ十歳だった頃。

 美波の人生は、突然の交通事故によって両親を同時に失うという、底なしの絶望の中にあった。


 葬儀場の冷たい空気。まとわりつくような線香の匂い。黒い服を着た見知らぬ大人たちが、自分を可哀想な子という憐れみの目で見下ろしていた光景。両親が死んだという現実すら理解できず、悲しみという感情すら追いつかず、ただ部屋の隅で膝を抱えて、毎日毎日泣き続けることしかできなかった美波。


 そんな、暗闇の底に沈んでいた美波の手を、力強く引いてくれたのが、他でもない凪沙だった。


『泣かないの、美波。私が美波のお姉さんになって、ずっと守ってあげるから。だから、一緒に笑おう』


 同い年であるはずなのに、凪沙はいつもお姉さんぶって、泣いてばかりの美波を強引に外へと連れ出した。

 公園の砂場で泥だらけになって遊び、近所の駄菓子屋で安いアイスキャンディーを分け合い、夕暮れの帰り道では、絶対に離さないとでも言うように強く手を繋いでくれた。凪沙のあの太陽のように眩しい笑顔が、両親を失った美波にとっての唯一の光であり、明日を生きるための道標だった。


 しかし、子供だった美波は、まったく気づいていなかったのだ。

 凪沙が自分に向けてくれるその明るい笑顔の裏側に、美波が抱えていた悲しみすらも覆い隠すような、過酷な現実が隠されていたことに。


 ある、うだるように暑い夏の日のことだった。

 公園の水道で泥だらけの手を洗おうと、凪沙が衣服の腕まくりをした瞬間、その袖の奥に、美波は見てはいけないものを見てしまった。

 細い腕から肩にかけて、赤紫色に変色した無数の痛々しい痣。何かに強く殴られ、蹴られたような、生々しい暴力の痕跡。

 凪沙の父親は、日常的に凄惨な虐待を行っていたのだ。凪沙の家庭はすでに崩壊状態にあり、彼女は毎日、家に帰るという恐怖とたった一人で戦うことを強いられていた。

 自分の家庭が壊れていく、出口のない日々の中で、凪沙は、これ以上両親を亡くした美波を悲しませたくないと、自分の恐怖と痛みをすべて笑い飛ばし、美波の前でだけは元気で強いお姉さんを必死に演じ続けていたのだ。


 その事実に気づいた時、美波は自分の無力さに絶望した。

 凪沙は、自分の心と身体を削って、美波の足元を照らしてくれていた。それなのに、美波は凪沙の隠された痛みに気づくことすらできず、ただ彼女の優しさに甘え、寄りかかっていただけだった。


 そして、あの日。


 短い夏休みの終わりに、二人は地域の子供科学教室で、一つの工作を作り上げた。

 二枚の偏光フィルムの間に、くしゃくしゃにしたセロハンテープを貼り合わせた透明なアクリル板を挟み込み、真鍮の丸い枠に嵌め込んだ、手作りのサンキャッチャー。

 それを太陽の光に透かすと、ただの透明な板がまるで魔法のように赤や青、緑の鮮やかなステンドグラスの色彩を放ち、二人の顔を虹色に照らした。


『綺麗だね、凪沙ちゃん』

『うん。これ、私たちの宝物にしよう。どんなに暗い場所でも、光を当てれば絶対に綺麗な色が出る。私たちも、ずっと一緒にいれば、絶対に幸せになれるよ』


 そう言って、二人で無邪気に笑い合った数日後。

 凪沙は父親の激しい暴力によって病院へと運ばれ、そのまま両親は離婚。凪沙は遠く離れた施設へと引き取られ、美波の前から永遠に姿を消してしまった。

 十歳の子供だった美波には、連絡先を知る術も、遠い施設へ会いに行く手段もなかった。

 やがて美波は祖父の仙次郎に引き取られ、時洲堂の温かい空気の中で少しずつ心の傷を癒やし、三枝夫婦や冬馬といった人々に囲まれて、平穏な日常を取り戻していった。


 しかし、凪沙は違った。


 施設に送られたあの日から十年間、彼女はずっと、たった一人で暗闇の中を彷徨い続けていたのである。美波が陽だまりの中で笑っている間、彼女はずっと、冷たい泥水の中で息を潜めて、美波を憎むことでしか自分を保てなかった。


「裏切り者。本当に、その通りですね。ごめんなさい、凪沙ちゃん」


 美波は丸眼鏡の奥から、真っ直ぐに凪沙の濁った瞳を見つめ返した。

 その目からは、一粒の涙がこぼれ落ちた。


 それは恐怖の涙ではない。自分が幸福であることへの安っぽい罪悪感でもない。ただ、一番大切な親友が、こんなにも心を壊して、憎しみに支配されるまで苦しんでいたことに、どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのかという、純粋で深い悲しみだった。


「どうしてそんなこと言うの。なんで泣いているのよ。馬鹿じゃないの」


 凪沙は冷たく鼻で笑い、美波の涙を無視した。

 彼女は、持っていたその大きなレザートートバッグの中から何か重たいものを取り出し、暴力的な音と共に、時洲堂の桜材のカウンターに叩きつけた。


 美波は息を呑んだ。

 カウンターの上に置かれたもの。

 それは、光を一切通さない、完全に真っ黒に塗りつぶされた円形のアクリル板。

 十年前、二人が一緒に作った、あのサンキャッチャーの変わり果てた姿だった。


 そして、その横に無造作に置かれたのは、ずっしりと重く、冷たい光を放つ鉄のハンマー。

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