第七話『旅立ち』(後)
五年前から時計の針が止まったままのこの空間で、時洲美波は探偵としての鋭い感覚を完全に研ぎ澄ませていた。彼女の丸眼鏡の奥で、琥珀色の瞳が静かな、しかし冷徹な知性を帯びて光っている。
「古賀さん。ナイフを落としたあの日、この書斎であなたが手紙を見つけた瞬間の行動を、もう一度、できる限り正確に再現していただけますか」
美波の静かな促しに、古賀は肩を震わせた。痛ましい記憶を掘り起こすことに躊躇いを見せたが、やがて覚悟を決めたようにゆっくりと頷いた。
「わかりました。私はあの日、このデスクの前の革張りの椅子に座っていました。そして、本棚から抜き出した古い洋書を、デスクの天板の上に置いて、ページをめくっていたんです」
古賀はふらつく足取りでデスクの前に歩み寄り、重厚な黒革のデスクチェアに腰を下ろした。そして、目に見えない架空の洋書を両手で開く仕草をする。
「その時、本の間に挟まっていた封筒が、私の膝の上に落ちたんです。妻の筆跡を見た瞬間、心臓が大きく跳ねました。私は慌てて手紙を拾い上げ、すぐに右手で、このデスクの右側の一番上の引き出しを開けました」
古賀は右手を伸ばし、引き出しを引く動作をする。
「そして、引き出しの手前にしまってあった銀のペーパーナイフを取り出しました。こうして、右手でナイフの柄を握り、左手に持った封筒の端に、刃先を差し込もうとしました。ですが、あまりの驚きと、五年の歳月を経て妻の最期の言葉に触れるという緊張で、手が、自分でも制御できないほど激しく震えてしまったのです」
古賀は空を掴むように右手を下へ向け、苦しげに顔を歪める。
「あっと思った時には、ナイフは私の指の間から、滑り落ちていました。絨毯に落ちたはずなのに、音もしなかった。私は慌てて足元を探そうと、開け放っていた引き出しを邪魔だと思ってバンと押し戻し、床に這いつくばったのです。でも、どこにもなかった」
「ありがとうございます。とてもよく分かりました」
美波は古賀の言葉を聞き、ナイフが落ちていった時の様子を頭の中でゆっくりと思い描く。
右手の高さ、指から滑り落ちた時の様子、そして床までの道のり。
美波はデスクの前に歩み寄ると、分厚い絨毯の上に両膝をつき、そのまま這いつくばるようにして床へ顔を近づけた。ルーペを右目に当て、絨毯の毛並み一つ一つを、まるで森を探索するかのように執念深く観察していく。
絨毯は、深いワインレッドを基調とした緻密な柄だった。毛足は数センチもあり、歩くたびに足が沈み込むほど柔らかい。
(これだけ分厚い絨毯なら、確かにどんな重い金属を落としても音は鳴らない。でも、逆に言えば、重い金属が直接落ちたのなら、必ず毛並みが不自然に押し潰された痕跡が残るはず)
美波は息を殺し、古賀の右手があった位置の真下にあたる絨毯の表面を、舐めるように確認していく。
しかし、ない。
三日間、古賀自身が這いずり回って探した形跡で毛並みはいくらか乱れているものの、重たい鉛が詰まった金属の塊が落下時の衝撃で深く沈み込んだような決定的な打痕は、絨毯のどこにも見当たらなかった。
「絨毯には、落ちていません」
美波がぽつりと呟くと、椅子に座っていた古賀が絶望的な声を上げた。
「そんなはずはありません。私は確かにこの手からナイフを落としたんです。床に落ちていないのなら、一体どこへ消えたというんですか」
「絨毯に落ちていないということは、ナイフは床に到達する前に、どこか別の場所に引っかかって消えたということです」
美波は顔を上げ、古賀が座っている重厚なマホガニーのデスクへと視線を向けた。
「古賀さん。あなたがナイフを落とした時、このデスクの引き出しは、ナイフを取り出した直後で『開いたままの状態』でしたね」
「え、ええ。開け放った引き出しの真上で、ナイフを取り落としました」
「そして、落として音もしなかったナイフを探すために、あなたは開いていた引き出しを『バンと押し戻して』から、床に這いつくばった」
「はい。引き出しが開いていると、足元が見えなかったので」
美波の琥珀色の瞳が、鋭く冷徹な光を放った。
「古賀さん。ナイフは、魔法で消えたのではありません。あなたがご自分で、ナイフを完全な死角へと押し込んでしまったのです」
「私が、自分で」
ルーペをポシェットにしまい、美波は立ち上がり、古賀がナイフを取り出したデスクの一番上の引き出しに手をかけた。
「古賀さん、手伝ってください。この引き出しを、完全に抜き取って外すんです」
古賀は美波の言葉に従い、引き出しの両脇を抱え、ストッパーを外してデスク本体から完全に引き出しを抜き取った。抜き取られた引き出しは、絨毯の上に置かれる。
デスクの下部には、引き出しが収まっていた四角い空洞が口を開けていた。
美波は懐中電灯を取り出し、その空洞の奥深く、デスクの裏側の骨組みが複雑に交差している暗闇へと強い光の筋を差し向ける。
「古賀さん。図鑑の知識を思い出してください。あのナイフは、柄に鉛が詰まっているため、手から落ちた際、必ず『重い柄の側を真下にして』真っ直ぐに落ちていきます」
埃の匂いと、古い木の匂いが漂う暗闇の中。
美波の持つ懐中電灯の光が、ある一点で、鋭く反射した。
「極度の緊張で震えるあなたの手から滑り落ちたナイフは、床に落ちる前に、引き出された状態の引き出しの背面板と、デスクの天板との間にできた『わずかな隙間』へと、重い柄から真っ直ぐに落下したんです。そして、引き出しを支えるための奥の木製のレールの上に、音もなく着地した」
美波の静かな声に、古賀が這いつくばるようにしてデスクの空洞を覗き込む。
「その後、あなたは足元を探すために、引き出しを乱暴に押し戻した。その結果、レールの裏側に落ちていたナイフは、引き出しの奥の板に押される形で、デスク内部のさらに奥深く、完全な死角となる構造の隙間へと押し込まれてしまったのです」
引き出しを支えるための奥の桟と、デスクの背面板の裏側。そのわずか数センチしかない暗い隙間に。
十九世紀フランス製の銀のペーパーナイフが、黒ずんだアンティークの艶を放ちながら、静かに横たわっていた。
それは、引き出しが入ったままの状態では、上からも下からも絶対に目視することができない、完璧な密室の死角だった。
図鑑の知識が導き出した重力の偏りと、極度の緊張が引き起こした人間の無意識の行動。その二つが結びつかなければ、永遠に発見されることのなかった一本の銀。
「ああ、あああっ」
古賀は、デスクの骨組みの奥に隠されたその銀の輝きを見た瞬間、うめき声を上げ、両手で顔を覆って絨毯の上に泣き崩れた。
美波は空洞に腕を深く差し込み、ペーパーナイフの柄をしっかりと握りしめた。
静かに引っ張り出すと、ナイフは無事に隙間から抜け出した。
懐中電灯をポシェットに片付け、美波は立ち上がり、百合の紋章が彫り込まれた純銀の柄を、柔らかいハンカチでそっと拭った。
そして、まだ絨毯にへたり込んで泣いている古賀の目の前にしゃがみ込み、ハンカチ越しにその銀のペーパーナイフを、両手で丁寧に差し出した。
「古賀さん。奥様との約束を果たすための鍵です。どうぞ」
古賀は顔を上げ、涙で濡れた顔のまま、震える両手でそのナイフを受け取った。
ひんやりとした純銀の冷たさと、柄に詰められた鉛の確かな重み。それが、彼の手のひらにしっかりと収まった。
「ありがとうございます。本当に、本当に、ありがとうございます」
古賀はナイフを胸に抱きしめ、何度も何度も美波に頭を下げた。
やがて、古賀は立ち上がり、コートの内ポケットから、三日間肌身離さず抱え続けていたあの一通の封筒を取り出した。
五年前に亡くなった最愛の妻が、本の中に隠していた最後の手紙。
古賀の呼吸が荒くなる。手はまだわずかに震えていたが、ナイフを取り落とした三日前とは違い、その手には確かな覚悟と、途方もない愛情の重さが満ちていた。
美波は一歩後ろに下がり、静かにその光景を見守った。
古賀は左手で封筒の端をしっかりと持ち、右手に持った銀のペーパーナイフの鋭い刃先を、封筒の糊付けされた隙間にそっと差し込んだ。
そのまま、ゆっくりと、祈るように刃を滑らせる。
銀の刃が分厚い紙を切り裂く、静かで美しい音が響き渡った。
古賀はペーパーナイフをデスクの上にそっと置き、震える指先で封筒の中から二つ折りにされた便箋を取り出した。
妻の温もりを感じながら、彼はゆっくりと便箋を開き、そこに綴られた最期の言葉に目を落とした。
美波は、手紙を読み進める古賀の表情の変化を、黙って見つめていた。
最初は、悲しみに耐えきれないように顔を歪め、大粒の新たな涙を流していた。しかし、文章の終わりに差し掛かるにつれて、彼の表情から激しい慟哭の色が消え去っていった。
代わりに彼の顔に浮かんだのは、すべてを悟ったような、どこまでも穏やかで、そしてひどく寂しげな微笑みだった。
手紙を読み終えた古賀は、便箋を丁寧に折りたたみ、再び封筒の中へと戻した。
そして、胸の奥から絞り出すように、ポツリと呟いた。
「これで、ようやく、全部揃った」
その言葉の響きは、不思議なほど透き通っていた。
美波の目には、その穏やかな笑顔が、最愛の妻との生前の約束を果たし、彼女の最期の想いを受け取ることができたことへの、純粋な安らぎに満ちた表情にしか見えなかった。
五年間の喪失の痛みを乗り越え、ようやく彼が前に進むことができるのだと、美波は心から安堵した。
「時洲さん」
古賀は美波に向き直り、信じられないほど穏やかな声で呼びかけた。
「あなたには、感謝してもしきれません。これで、私の心残りはすべてなくなりました。本当に、本当にありがとうございました」
古賀はそう言うと、デスクの引き出しからあらかじめ用意していたらしい分厚い茶封筒を取り出し、美波に手渡した。それは、ただのペーパーナイフ探しに対するものとしては、相応以上の高額な報酬だった。
「こ、こんなにたくさん、受け取れません」
「どうか受け取ってください。これは、ただのモノ探しの代金ではありません。私の人生の止まっていた時間を動かしてくれたことへの、せめてものお礼です」
古賀のその強固な意志を感じ、美波は深くお辞儀をして報酬を受け取った。
「古賀さん。奥様のお手紙、見つかって本当によかったです。どうかお体を大切になさってくださいね」
美波の温かい言葉に、古賀はええ、ありがとうと目尻を下げた。
その穏やかな表情に見送られながら、美波は冬の重苦しい冷気が漂う洋館を後にした。
***
時洲堂に帰還した美波を待っていたのは、石油ストーブが作り出す柔らかな温気と、やかんが立てる安心するような沸騰音だった。
美波は冷え切ったコートとショールを脱いでハンガーに掛け、ストーブの前に置いてあるロッキングチェアに深く身を沈めた。
「やっぱり、自分のお店が一番落ち着くな」
ロッキングチェアから身を起こすと、美波はカウンターの上に置かれたままになっていた西洋アンティーク図鑑を引き寄せ、その深い緑色の革の表紙を愛おしそうに撫でた。
まさか、休日に神保町で自分のご褒美として買った図鑑が、たった数日後にこんな形で大活躍するとは思ってもみなかった。柄に鉛が詰まっているというあのページを読んでいなければ、一生あの死角に気づくことはできなかっただろう。知識が人を救うという喜びが、美波の胸を温かく満たしていた。
美波はやかんの熱湯を使って新しいほうじ茶を淹れ、再びロッキングチェアに戻ると、ポシェットから古い革の手帳と、愛用の万年筆を取り出した。
ページをめくり、真っ白な空間にペン先を落とす。ミッドナイトブルーのインクが紙の繊維に染み込み、今日起きた出来事を記録していく。
『重みの偏ったペーパーナイフと、最期の恋文。
モノの性質は決して嘘をつかない。
消えたナイフは、重い柄から真っ直ぐに落下し、
引き出しの隙間という、完璧な死角の密室へと滑り込んでいた。
五年間の孤独を溶かした銀の輝きは、
彼が妻の最期の想いを受け取るための、確かな鍵となった。』
万年筆のペン先が、手帳の紙を擦る心地よい音が、静かに燃えるストーブの音と混ざり合う。
(古賀さん、最後に本当に温かい笑顔を見せてくれたな。春になって暖かくなったら、また元気なお顔を見せに、お店に遊びに来てくれるといいな。その時は、美味しいお茶菓子を用意しておかなくちゃ)
美波は今回の仕事を、死という別れを乗り越えたとても綺麗で、温かい家族の絆の物語として心の中で完結させ、にっこりと微笑んで手帳をそっと閉じた。
窓の外では、夕闇が迫る下町の路地裏に、細かな雪が静かに降り積もっている。
時洲堂に並ぶ無数の古物たちに囲まれながら、美波は熱いほうじ茶をすすり、失くしもの探偵としての充実感と幸福感に包まれていた。




