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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と消えないぬくもり―』  作者: 長月有希


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第六話『休日』(後)

 しばらくして店員が持ってきたのは、まったく形の異なる三着の洋服だった。美波は期待に胸を膨らませながら、まずは一着目に袖を通した。


 それは、清楚な淡いブルーのワンピースだった。

 上質な生地が使われており、首元は鎖骨が綺麗に見える造り。そこには小さな本真珠の飾りがさりげなくあしらわれていた。腰から裾に向かってふわりと広がる形が絶妙で、生地の重みが作り出す襞が美しかった。


 美波が着替えて、試着室の厚手のカーテンを開ける。待機していた店員が短く息を呑み、両手で口元を覆った。


「い、いかがでしょうか。私、背が高くないので、こういう綺麗な形のワンピースは、背の高いモデルさんではないと丈が合わないかと思ったのですが」


 美波が少し照れくさそうに、裾を指先でつまむと、店員は感嘆の溜息を漏らしながら、何度も深く頷いた。


「とんでもないことでございます。まるで、お客様のために最初から採寸して仕立てたかのように、腰の位置も丈感も、骨格にぴったりとはまっています。この淡いブルーが、お客様の透明感と琥珀色の瞳をこれ以上ないほど引き立てていて。本当に、お人形さんのように可憐で可愛らしいです」


 その言葉は、販売員としての決まり文句やお世辞では決してない。

 美波の持つ透明感は、このような無駄のない意匠の服を着ることで、かえってその美しさが際立つのだ。あまりの見事な着こなしぶりに、近くで服を選んでいた他の客たちまでが思わず歩みを止めたほどだった。


 続いて、二着目。今度は少しだけ冒険をして、大人っぽい形の洋服に挑戦してみた。

 体に程よく合う黒の編み込みの衣服に、秋らしい落ち着いたブラウンの細かい格子柄が入ったスカートの組み合わせだ。


 カーテンが開く。先ほどまでの清楚で可憐な女の子から一転、ほんのりとした色気と知性を感じさせる、魅力的な大人の女性がそこに立っていた。


 美波は決して背が高いわけではないが、実は非常に均衡の取れた、美しい体型をしていた。普段はエプロンやゆったりとした作務衣で隠されているその曲線が、スカートの形によって引き出されていたのである。歩くたびに優雅に揺れる裾が、彼女の新しい一面を演出していた。


「素晴らしいです」


 店員が、今度は感極まったように身を乗り出して称賛した。


「先ほどの可憐な雰囲気から変わって、とても上品な色気があります。丸眼鏡の知的な雰囲気と、細身の形の落差が本当に魅力的です。踵のあるブーツと合わせれば、完璧な大人の装いですね」


 周囲の客たちも、まるで小さな舞台でも見ているかのように、美波が新しい服を着て出てくるのを待ち構えるような空気になっていた。誰もが、彼女の着こなしから目が離せなくなっていたのだ。


 そして最後、三着目。


 歩くたびにふわりと軽やかに揺れる、極上の薄絹で作られた可憐な小花柄のワンピースだった。基調は落ち着いた乳白色で、胸元には細い紐が結ばれている。袖口には繊細な意匠があしらわれており、動くたびに空気を孕んで柔らかく膨らんだ。


 美波が恥ずかしそうにカーテンを開けて姿を現すと、その場にいた数名の客からふうっと感嘆のため息が漏れた。

 柔らかい生地が、美波の持つふんわりとした優しい空気感と調和していた。少しあどけない端正な顔立ちと、小花柄の繊細さが心地よい旋律を奏でており、その姿はまるで、秋の野原にふわりと舞い降りた無垢な妖精のようだった。


「お客様。私、衣服の販売員を長くやっておりますが、これほどまでにどんな系統のお洋服も、ご自分のものとして着こなしてしまう方は初めてです。正直に申し上げますと、どれも一番と言っていいほどお似合いで、私には一つを選ぶことができません」


 店員が嬉しい悲鳴を上げてしまうほど、三着の試着はどれも見事なものだった。


 美波自身も、大きな姿見の前で真剣に悩み続けた。

 黒い衣服の大人っぽさも捨てがたいし、小花柄の妖精のような可愛らしさも魅力的だった。鏡の前で何度も向きを変えてみたり、くるりと回って裾の揺れ方を確認したりした。

 しかし、彼女の心を最終的に一番強く打ち抜いたのは、一着目に着た、あの清楚な淡いブルーのワンピースだった。


 上質な生地の、しっかりとした滑らかな手触り。流行に左右されない普遍的でクラシカルな美しさ。一針一針丁寧に縫製されたことがわかる、職人の手仕事の痕跡。それは、古いモノや美しい手仕事の品をこよなく愛する美波の感性に、最も深く、静かに響く一着だったのだ。


「私、このブルーのワンピースにします。これ、すっごく好きです」

「ありがとうございます。間違いなく、お客様の魅力を最大限に引き出してくれる、最高の一着になると思います」


 美波はお会計の際、ワンピースと一緒に、飾られていた最高級の毛織物で作られた純白の襟巻きも思い切って購入することにした。


 試着の合間に指先でそっと触れた瞬間に、まるで空に浮かぶ雲を直接撫でているかのような、とろけるような滑らかさと温かさに感動してしまったからだ。首元にこの真っ白な襟巻きを巻き、あのブルーのワンピースを着て、冷たい冬の風が吹く下町を歩く自分を想像しただけで、心がポカポカと温かくなってくるのを感じたのだ。


「本日は誠にありがとうございました。またぜひ、遊びにいらしてくださいね」


 店員の女性や、試着を見守ってくれていた他のお客様たちに笑顔で見送られながら、美波は大満足の顔で店舗を後にした。


 右手には図鑑の入った重い紙袋。左手には、新しいワンピースと襟巻きの入った紙袋。その重みは決して苦痛ではなく、美波にとっては紛れもない幸せの重みとなって、両手から全身へと伝わっていく。


(ふふっ、素敵なワンピースと襟巻き、買ってしまった。早くお家に帰って広げてみたいな。これを着て、またどこかにお出かけするのも楽しみだな)


 ***


 デパートの婦人服売り場を出る頃には、時刻はすっかり午後三時を回っていた。


 秋の太陽は傾き始めるのが早く、ビルの谷間に差し込む光は、すでに少しだけオレンジ色を帯び始めていた。お買い物を満喫して少しだけ歩き疲れた美波は、よし、そろそろおやつの時間にしようと決心した。


 美波の足は、迷うことなく地下へ向かうエスカレーターへと向かった。目指すは、甘い誘惑が果てしなく続く食料品売り場だ。

 和洋様々な菓子の名店がひしめき合う中、美波は一つの店舗の前にできた列の最後尾に並んだ。そこは、都内でも連日行列ができることで有名な、洋菓子店だ。

 ガラスの向こうで宝石のように輝くケーキたちの中から、美波が選んだのは、秋の味覚の王様である最高級和栗のモンブランだった。一つでちょっとしたお弁当がいくつも買えてしまうような、美波にとっては高価な品だが、今日のお財布は美波に勇気を与えてくれた。


 大切に保冷剤を入れられ、紐をかけられた小さな箱を受け取ると、美波はデパートを飛び出し、そこから歩いてすぐの場所にある、広大な公園へと向かった。


 都会の憩いの場とも呼ばれるその大きな公園は、まさに今、秋の絶景を迎えていた。

 頭上には、見渡す限りの見事な銀杏並木が続いていた。太陽の光を透かして黄金色に輝く葉が、秋の涼しい風に吹かれるたびに、カサカサと心地よい音を立てて舞い落ちてきた。足元は、一面がふかふかとした黄色い絨毯で覆われていた。

 公園の中央にある大きな噴水からは涼しげな水音が響き、長椅子では読書をする人、犬の散歩をする人、のんびりと日向ぼっこをしながら語り合う老夫婦の姿が見られた。


 美波は噴水が見渡せる、日当たりの良い特等席を見つけると、そこに腰を下ろした。

 両隣に、本と洋服の入った大切な紙袋を並べて置いた。そして自分の膝の上には、先ほど買ってきたばかりの、小さなケーキの箱をそっと乗せた。


(いよいよ、おやつタイムだ)


 美波は箱にかけられた留め具を慎重に外し、まるで国宝級の宝箱を開けるかのように、そおっと、ゆっくりと蓋を持ち上げた。


 箱の中から現れたのは、もはやケーキというより芸術品のように美しい、見事な形のモンブランだった。

 幾重にも繊細に、まるで細い糸を編み込むように折り重なって絞られた、濃密な栗のクリーム。その頂上には、艶やかに輝く大粒の和栗が丸ごと一つ、王冠のように誇らしげに乗っていた。ふわりと漂ってくるのは、香料などの作り物ではない、本物の栗が持つ深く上品で、秋という季節そのものを凝縮したような芳醇な甘い香りだった。


 美波は、小さな木製フォークを右手にしっかりと握りしめると、いただきますと小さく手を合わせ、まずは頂上のクリームの層から、そっとフォークの先端を入れた。

 表面のクリームを通り抜けたフォークが、一番下にある土台に到達した瞬間。

 底に敷かれた焼き菓子が崩れる軽快な音が響いた。

 外側の濃厚なクリーム、その中に隠された純白の生クリーム、そして土台のサクサクの焼き菓子。美波はその三つの層を絶妙な具合で同時に掬い上げ、そのまま口に運んだ。


 瞬間、美波の丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳が、驚きで丸く見開かれた。


 口の中に入れた途端、濃厚な栗の風味が、和栗本来の豊かな旨味と香りをいっぱいに広げながら、舌の上で滑らかに溶けていった。その圧倒的な栗の風味を、中に隠されていた無糖の生クリームがふんわりと優しく包み込み、決して甘ったるくならないよう、見事な調和を果たしていた。


 そして最後に訪れるのが、土台となっている焼き菓子の心地よい食感と、香ばしさだった。

 甘味、旨味、食感、香り。そのすべてが、口の中で優しく溶け合っていった。


「んん」


 美波はあまりの美味しさに言葉を失い、完全に甘味の世界へと没頭してしまった。

 目を細め、両手で自分の頬を押さえるようにしながら、口を幸せそうに動かした。飲み込むのがもったいないとでも言うように、ゆっくりと、ゆっくりと、口の中に広がる秋の味覚を味わい尽くした。

 あまりの至福に、長椅子から少しだけ浮いた両足が、嬉しそうに前後に揺れていた。


(美味しい。栗が、そのままケーキになってしまったみたい。生クリームもくどくなくて、土台がサクサクで。これ、いくらでも食べられそう)


 一口食べるたびに、美波の顔面からあらゆる緊張や大人の体裁が抜け落ちていった。


 秋の優しい風が、銀杏の葉を揺らしながら美波のケープコートの裾をふわりと持ち上げ、艶やかな黒髪を揺らした。公園を行き交う人々は、落ち葉の絨毯の上で、まるで世界で一番幸せな宝物を手に入れたかのようにモンブランを頬張る美波の姿を見て、誰もが思わず足を止め、温かく微笑ましい気持ちになっていた。


 どんな絶景よりも、どんな高価な宝石よりも、ただ純粋に美味しいものを食べて心から幸せそうに笑う無防備な女の子の姿ほど、周囲の人々を惹きつけ、心穏やかにしてしまうものはない。

 美波は自分がそんな天使のような温かい視線を向けられていることなど気づかず、最後の一口の欠片まで残さず綺麗に食べ尽くした。


「はあ、大満足」


 美波は空になったケーキの箱を閉じ、秋の高く澄んだ空に向かって、とびきりの笑顔を咲かせたのだった。


 ***


 美味しいモンブランですっかり心を満たした美波は、公園を後にして、夕暮れが近づく街を歩いていた。

 両手には、アンティークの図鑑と新しい洋服の入った紙袋。お腹の中には極上の朝ごはんと甘味。自分一人のためだけに時間とお金を使った、何一つ不満のない休日だった。

 しかし、美波の足は、下町へ帰るための地下鉄の駅に向かう前に、なぜか再び、先ほどまでいたデパートの食料品売り場へと向かっていた。


(お買い物もしたし、美味しいものもいっぱい食べた。私の一日は最高だった。でも、なんだか、私一人だけこんなに幸せな思いをしているのが、少しだけ申し訳ないような気がするな)


 美波の脳裏に浮かんだのは、いつも自分のことを実の娘のように気にかけてくれ、本当の家族のように温かく接してくれる、三枝幸一と洋子の夫婦の顔だった。


 朝、冬馬とすれ違ったあの時間から、きっと幸一は金物屋の奥の作業場で、一人黙々と金属を削ったり、部品を叩いたりして、油にまみれながら汗を流しているはずだ。洋子もまた、そんな幸一を支えながら、近所の人たちと笑い合い、忙しく元気に動き回っていることだろう。


 臨時休業の木札を掲げた静かな時洲堂に、自分一人で帰って、買ってきた本を読みながら一人で質素な夕飯を食べる。それはそれで素敵な時間だけれど、今日のこの最高に幸せな気分のまま、大好きな二人の笑顔が見たくなったのだ。


(よし。時計さんがくれたご褒美のお裾分け、幸一さんと洋子さんにも贈ろう)


 美波は再び食料品売り場に足を踏み入れると、今度は精肉の店舗へと向かった。

 照明に照らされた陳列棚の中に並んでいるのは、普段の美波なら絶対に近寄ることすらはばかられる、最高級の肉たちだった。美波はその中でも、まるで大理石の彫刻のように美しい脂が入った、とびきり上質なすき焼き用のお肉の前に立った。鮮やかな紅色のお肉に、真っ白な脂が網の目のように細かく入っていた。見ているだけで、熱い鉄鍋の中で溶け出す極上の旨味が想像できて、喉が鳴りそうになった。


「あの、このお肉を、三百グラム、いえ、思い切って五百グラム包んでください。それと、牛脂も多めにお願いします」


 美波はお財布の中身と真剣に相談しながら、三人でお腹いっぱい食べられるだけの量を、思い切って注文した。

 さらに野菜売り場へ回り、太くて甘みの強そうな葱、香りの良い瑞々しい春菊、そして味の染み込みやすそうな焼き豆腐や、白滝など、すき焼きに欠かせない食材を次々と買い物カゴに入れていった。

 両手いっぱいの荷物は、図鑑と洋服に加えてさらに重くなったが、美波の足取りは朝出発した時よりもずっと軽く、弾んでいた。

 誰かのために美味しいものを買って帰るという喜びが、美波の休日の最後を、これ以上ないほど鮮やかで温かいものに彩ってくれていたのだ。


 デパートを出て地下鉄に乗り込み、夕暮れの街を抜けていく。


 車窓から見える景色は、背の高いビル群から、少しずつ視界の開けた住宅街へ、そして入り組んだ路地と古い木造家屋が並ぶ、見慣れた下町の風景へと移り変わっていった。西の空はすでに深い紫色と燃えるようなオレンジ色に染まり、家々の窓からは、夕飯の支度を思わせる温かい光が灯り始めていた。


 ***


 駅から少し歩き、規則的な金属音が響く三枝金物店の前へとやってきた美波は、深呼吸をしてから暖簾をくぐった。


 店の奥にある作業場では、頭にタオルを巻いた幸一が、電球の下で作業台に向かって真剣な表情で真鍮の部品を磨いていた。手は汚れ、顔にも少し油の跡がついていた。その傍らの居間では、夕飯の支度を始めようとエプロンをつけた洋子が、冷蔵庫を開けて何やら探しているところだった。


 美波は大きく息を吸い込むと、弾けるような声で元気いっぱいに声をかけた。


「幸一さん。洋子さん。こんばんは」

「美波ちゃんじゃない。今日は一日お休みだったんでしょ。いいお顔しているわね。両手いっぱいに、お買い物の荷物も持って」


 洋子がパッと顔を輝かせて駆け寄ってきた。幸一も道具を持つ手を止め、タオルで額の汗を拭いながら振り返った。


「おう、美波。随分と大荷物じゃないか。どこかで美味いものでも食ってきたのか」


 無愛想な口調だが、その声には娘を気遣う父親のような優しさが滲んでいた。

 美波はえへへと得意げに笑い、両手に持っていた大きな紙袋の中から、一番底に入っていた銀色の保冷袋を取り出した。


「今日は私、とっても良いことがあったんです。だから、その幸せのお裾分けです。今日は私が、お二人に夕ご飯をご馳走します」


 美波が保冷袋を開け、高級感のある包み紙を開いて見せると、そこには、デパートの照明の下で見た時よりもさらに美しく、存在感を放つ最高級の霜降り肉が鎮座していた。


「ちょっと、何これ。こんな見事なお肉、テレビの番組でしか見たことないわよ」


 洋子が目を丸くして悲鳴を上げた。

 幸一も驚いて、慌てて美波の顔とお肉を交互に見比べた。


「お、おい美波、お前、こんな高い肉を。いつも安い食材ばかり食べているお前が、無理してこんなもの買ってこなくてもいいんだぞ」


 幸一は照れ隠しで少しだけ声を荒げ、仏頂面を作ってみせた。しかしその実、口元はすでに緩みきっており、目尻はこれ以上ないほど下がってしまっていた。彼もまた、美波が自分たちのためにわざわざデパートでこんな贅沢な贈り物を用意してくれたことが、心の底から嬉しかったのだ。


「無理なんてしていませんよ。時計さんが私にくれたご褒美ですから。それに、美味しいものは、一人で食べるよりも、大好きな人たちと一緒にワイワイ食べたほうが、絶対に美味しいですから。さあさあ、お肉の脂が手の温度で溶けてしまう前に、すき焼きの準備をしましょう」


 美波に急かされ、洋子は「お父さん、早くコンロと鉄鍋出してちょうだい、私は急いでネギと春菊を切るから」とはしゃいで台所へと駆けていった。幸一も「おう、わかったわかった、急かすな」と文句を言いながら、戸棚の奥からずっしりと重たい年代物の南部鉄器のすき焼き鍋を引っ張り出してきた。


 ***


 それから三十分後。

 三枝家の居間の真ん中の座卓には、コンロに乗せられた南部鉄器の鍋が鎮座していた。


 熱く熱せられた鉄鍋に、美波が牛脂を引く。

 派手な音と共に、和牛の極上の脂が瞬く間に溶け出し、食欲を刺激する甘く香ばしい香りが部屋中に充満した。

 そこへ、美波がお箸で丁寧にお肉を広げながら並べていく。表面の色が少し変わったところで、洋子が醤油と砂糖、お酒、みりんで作った特製の割り下を回し入れた。

 立ち上る甘辛い湯気と、お肉が焼ける匂い。そこに太い葱と焼き豆腐が加わり、鍋の中は一気に最高潮を迎えた。


「よし、もう食べ頃よ。美波ちゃん、一番大きいお肉、遠慮しないでいきなさい」

「はい。いただきます」


 美波はお箸で、割り下の色が綺麗に染み込み、脂が光る大きなお肉を一切れつまみ上げ、溶き卵の入った小鉢にたっぷりと絡める。そして、熱々のまま、大きな口を開けて頬張った。


 朝の卵サンドの優しい出汁とも、午後のモンブランの甘美な味わいとも違う、ほっぺたが落ちるような圧倒的な旨味が口の中をいっぱいに満たした。

 とろけるような和牛の脂の甘みと、甘辛い割り下の濃厚な味、それをまろやかに包み込む新鮮な卵。お肉は歯で噛む必要がないほどに柔らかく、舌の上でほどけ、あっという間に喉の奥へと消えていってしまった。


「んん。ほっぺたが、落ちてしまいそうです」


 美波は満面の笑みを浮かべ、幸せのあまり肩を揺らした。丸眼鏡が少しだけ曇っていたが、そんなことはお構いなしだった。


「本当だわ。お父さん、これ歯がいらないわよ。飲み物みたいにお肉が溶けるわ」

「馬鹿野郎、肉は飲み物じゃない。でも、確かにこりゃあ、すげえ美味いな。美波、ごちそうさん」


 幸一が少しだけ照れくさそうに笑いながら、熱燗の入ったお猪口を傾けた。


 鍋の煮える音。洋子の明るい笑い声。幸一の優しい相槌。


 美波は熱々の焼き豆腐や、お肉の旨味をたっぷり吸い込んでくたくたになったネギを口に運びながら、今日一日、神保町で見つけた素晴らしい図鑑の話や、デパートで色んなお洋服を試着して、店員さんに褒められて照れてしまった話を、時間を忘れて楽しそうに語り続けた。


 過去の記憶を解き明かす探偵としての仕事も、絡み合った悲しい因果も、今日だけはすべてを忘れて。

 ただただ美味しいものを食べ、純粋にお洒落を楽しみ、大好きな人たちと食卓を囲んで笑い合った。


 美波にとって、心から平和で、これ以上ないほど温かく幸せに満ちた、琥珀色の休日であった。

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