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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と消えないぬくもり―』  作者: 長月有希


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第七話『旅立ち』(前)

 一月の東京は、見渡す限りの空が重苦しい鉛色に覆われ、身を切るような鋭い北風がビルの谷間を吹き抜けていた。


 午後から降り始めた細かな粉雪は、アスファルトに落ちては溶けることを繰り返し、街全体から体温を奪い去っていく。行き交う人々は皆、厚手のコートの襟を立て、顔を埋めるようにして、足早に家路を急いでいた。

 しかし、大通りから一本外れた下町の路地裏にひっそりと佇む古物商『時洲堂(ときすどう)』の中だけは、外の厳しい寒さが嘘のように、のどかで温かい空気に満ちていた。


 戦前から残る古い木造建築であるため、隙間風は皆無ではない。だが、店の中央に鎮座する年代物の対流式石油ストーブが、心地よい音を立てて青色の炎を揺らし、室内を力強く暖めている。天板に乗せられたホーローのやかんからは、絶え間なく真っ白な湯気が勢いよく吹き出し、室内の空気を適度に潤していた。


 店主の時洲(ときす)美波(みなみ)は、厚手の赤いウールのカーディガンを着込み、さらに肩から大きな羊毛のショールをすっぽりと被って、ストーブのすぐそばのロッキングチェアに深く腰を沈めていた。

 彼女の両手には、マグカップに入った熱いココアが握られている。水面に浮かべたマシュマロが、熱でゆっくりと溶けてとろりとした白い泡に変わっていくのを眺めながら、美波は幸せな溜め息を漏らした。

 ココアを一口飲み、体の中を甘く温かい液体が通り抜けていくのを感じた後、美波はマグカップを傍らの小さな机に置き、膝の上に広げていた分厚い本へと再び視線を落とす。


 それは、先日の休日に神保町の古書店街で奮発して購入した、西洋アンティーク図鑑だ。

 ずっしりとした重みを持つその図鑑は、表紙が深い緑色の本革で装丁されており、背表紙には金箔押しの美しい飾り文字が刻まれている。ページをめくるたびに、上質な紙の滑らかな手触りと、古い活版印刷特有の微かなインクの匂いが漂い、美波の嗅覚を心地よく刺激する。


 図鑑の中には、十九世紀のヨーロッパで作られた懐中時計、銀の洋食器、繊細な編み細工、そして陶磁器のティーカップなど、数え切れないほどのアンティーク品が、写真ではなく精巧な細密画によって一つ一つ丁寧に描かれ、解説が添えられていた。


「すごいなあ。この銀のティーポットの装飾、よく見るとただの植物のツルではなくて、一つ一つが違う種類の花の蕾になっているんだ。職人さん、どれだけの時間をかけてこれを作ったのだろう」


 美波は、ポシェットから愛用の純銀製のルーペを取り出し、図鑑の細密画を拡大して見つめながら、感嘆の声を漏らした。


 どんなに古くて小さなモノにも、持ち主と一緒に過ごした大切な時間が詰まっている。

 誰がどんな想いで手に入れ、毎日の生活の中でどう使い、どんなふうに愛してきたのか。その小さな傷跡や深みのある艶の中に、どれほどの優しさと温かい記憶が溶け込んでいるのか。

 図鑑に描かれた数々の美しい品々を見つめていると、美波の脳裏には、それらを大切に使い続けた見知らぬ誰かの穏やかな日常が、まるで優しい絵本をめくるようにふわりと浮かび上がってくる。

 自分の知らないモノの歴史を知り、知識が深まっていくこの時間は、古物商である美波にとって何にも代えがたい至福の時だ。


「モノが作られた理由や構造を知ることは、モノの心を知ることと同じだよね。買ってよかったなあ、この図鑑」


 美波は、図鑑の革の表紙を愛おしそうに撫でた。

 この図鑑から得た知識が、間もなく自分を訪れる悲しい探し物において、どれほど頼りになるかなど、この時の彼女はまだ知る由もなかった。ストーブの炎の揺らめきと、時洲堂に並ぶ古物たちが刻む時計の秒針の音だけが、琥珀色の穏やかな時間を静かに満たしていた。


 静寂を破り、引き戸の真鍮のベルがけたたましく鳴り響いた。

 普段ののんびりとした来客時とは違う、どこか切羽詰まったような、焦燥感に満ちた開け方だった。


「はい、いらっしゃいませ」


 美波が慌てて図鑑を閉じ、ロッキングチェアから立ち上がる。吹き込んできた雪混じりの冷たい突風と共に、一人の初老の紳士が店内に転がり込むようにして入ってきた。


「時洲堂さん、ですね。どうか、私を助けてください」


 男の第一声は、挨拶ではなく、絞り出すような悲痛な懇願だった。

 美波は目を見張った。男は、仕立ての良い上質なカシミヤの黒いコートを着ており、身なりそのものは非常に裕福で品のある紳士に見えた。しかし、その顔色はまるで蝋人形のように青白く、頬はこけ、目の下には濃い隈がくっきりと刻まれていた。髪も乱れ、肩に積もった雪を払うことすら忘れている。

 それは間違いなく、三日三晩、一睡もせずに苦悩を彷徨い続けてきた人間の顔だった。


「どうされたのですか、そんなに青い顔をして。外は寒かったでしょう、まずはストーブのそばへ。温かいお茶を淹れますから」


 美波は驚きを隠しつつ、紳士を店の中央の丸椅子へと促した。そして、やかんの熱湯を使って新しいほうじ茶を淹れ、湯呑みを彼の冷え切った両手に握らせた。


 紳士は「古賀(こが)と申します」と名乗り、震える両手で湯呑みを包み込むが、一向に口をつけようとはしない。彼の瞳は焦燥に燃え、ただ真っ直ぐに美波を見つめていた。


「古賀さん。何か、とても大切なモノを失くされたのですね。私が探しますから、ゆっくりでいいので、事情を話していただけますか」


 美波の落ち着いた穏やかな声に促され、古賀は大きく息を吸い込み、途切れ途切れに語り始めた。


「探していただきたいのは、書斎で失くしてしまった、十九世紀フランス製の銀のペーパーナイフです」

「銀の、ペーパーナイフ。それを失くされたのは、いつですか」

「三日前の夜です。私はその日、書斎の本棚の整理をしていました。もう何年も開いていなかった、古いフランス文学の洋書を手に取って、ページをめくった時のことです。その本の間から、一通の封筒が床に落ちたのです」


 古賀の顔が、その時の衝撃を思い出したかのように苦痛に歪む。


「拾い上げて、宛名を見て、私は心臓が止まるかと思いました。そこには、私の名前が書かれていました。五年前に病気で亡くなった、最愛の妻の筆跡で。しかも、封は切られていない、未開封の手紙だったのです」

「五年前の、亡くなった奥様からのお手紙」


 美波は息を呑んだ。亡き妻が、自分の死後に夫が読むことを見越して、こっそりと本の間に忍ばせていた最期の言葉。それが三日前に、奇跡のように古賀の元へと舞い降りたのだ。


「私はすぐに、その手紙を開けようとしました。ですが、私たち夫婦には、生前、ある約束があったのです。お互いの誕生日や結婚記念日など、特別な想いを綴った大切な手紙を開封する際は、必ず、新婚旅行で訪れたパリの蚤の市で二人で選んだ銀製のアンティークペーパーナイフを使うこと、という約束が」


 古賀は湯呑みをカウンターに置き、自分の両手で顔を覆った。


「私は、デスクの引き出しを開け、奥からその銀のナイフを取り出しました。そして、妻の手紙の封を切ろうとした。ですが、あまりの驚きと、五年の歳月を経て妻の最期の言葉に触れるという緊張で、手が、自分でも制御できないほど激しく震えてしまったのです。あっと思った時には、ナイフは私の指の間から滑り落ちていました。そして」

「そして、見失ってしまったのですね」

「はい。絨毯に落ちたはずなのに、音もしなかった。すぐにしゃがみ込んで探しましたが、どこにもない。デスクの下、本棚の隙間、部屋の隅。三日間、一睡もせずに書斎の中を探しました。ですが、まるで神隠しにでも遭ったように、ナイフは忽然と姿を消してしまったのです」


 古賀の声が、悲鳴のように裏返った。彼はコートの内ポケットに手を入れ、一枚の白い封筒を大切そうに取り出し、自分の胸に強く抱きしめた。


「古賀さん。ハサミや、他の刃物で開けることは、できないのですか」


 美波が静かに尋ねると、古賀は激しく首を横に振った。


「絶対に駄目です。ハサミで切るなんて、とんでもない。それは妻との神聖な約束なのです。あの銀のナイフで見つけるまで、私はこの手紙を開けられない。妻の言葉が、最期の声が、すぐそこにあるのに、私には届かないんです」


 古賀の目から、大粒の涙が零れ落ちた。


 合理的に考えれば、手紙の中身を読むことが最優先であり、開ける道具など何でもいいはずだ。しかし、彼にとってはそうではなかった。妻との記憶、二人の間にだけ存在した儀式と約束。それを破ることは、妻の愛を汚すことと同義だったのだ。


 ハサミを使えないという古賀の強烈な執着は、決して異常なものではない。それは、最愛の妻を失った喪失感を抱えながら、五年という長い年月を生きてきた男の、切実で痛切な愛の形そのものだった。


「わかりました。古賀さん」


 美波は、古賀の想いの重さをしっかりと受け止め、深く頷いた。


「奥様との約束を果たすための、その大切な銀のペーパーナイフ。私が必ず、見つけ出します」

「ありがとうございます、時洲堂さん。では、すぐに私の家へ」

「すみません、少しだけお待ちください。現場に向かう前に、準備をしておきたいんです」


 立ち上がろうとする古賀を静かに制し、美波はロッキングチェアに置いていた西洋アンティーク図鑑を、手元のカウンターの上へと持ってくる。


「現場の状況も大切ですが、失くしたモノの構造を正しく知ることが、見つけるための近道になることがあります。古賀さん、その銀のペーパーナイフの形状や特徴について、覚えていることをできる限り詳しく教えていただけますか」


 美波の真剣な表情に、古賀は少し戸惑いながらも記憶の糸を手繰り寄せた。


「失礼しました。ええと。先ほども言った通り、十九世紀後半のフランス製だとアンティークショップの店主が言っていました。素材は純銀で、刃渡りは十五センチほど。全体的に黒ずんだ特有の艶がありました。特徴的だったのは、持ち手である柄の部分に、フランス王室の象徴である百合の紋章の装飾が彫り込まれていたことです。刃はとても薄くてしなやかで、紙を切るのに適していました」

「フランス製、十九世紀後半、純銀、百合の紋章の装飾」


 美波は古賀の証言を呟きながら、図鑑の索引ページを開く。

 彼女の指先が、膨大な情報が詰まった目次の中を滑っていく。

 銀細工、文房具、フランス・パリ工房。いくつかの条件を掛け合わせ、美波は図鑑の中ほどにある特定のページへと辿り着いた。


「これですね。おそらく、古賀さんのナイフは、十九世紀後半にパリに存在した工房で作られた品物で間違いありません」


 美波が図鑑を古賀の方へ向けると、そこには古賀の証言と完全に一致する、百合の紋章が彫り込まれた美しい銀のペーパーナイフの細密画が描かれていた。


「ああ、これです。間違いない、妻と一緒に選んだのはこのナイフです」


 古賀が身を乗り出して叫ぶ。美波は図鑑を自分の方へ戻し、絵の横に添えられた小さな活字で書かれた解説文へと視線を落とす。

 図鑑の知識が、美波の中で結びついていく。


「古賀さん。このナイフを持った時、刃の薄さや見た目の均一な美しさに反して、手元の柄の部分が、ずっしりと重く感じませんでしたか」


 美波の唐突な質問に、古賀は目を丸くして頷いた。


「ええ、おっしゃる通りです。見た目以上に重みがありましたが、それがかえって手に吸い付くように馴染んで、とても心地よい重さでした」

「やはり」


 美波は大きな黒縁の丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を輝かせ、図鑑の解説文を指差した。


「この工房のペーパーナイフには、ある意匠が凝らされているんです。実用性と手へのなじみを追求するために、銀の柄の内部をわざと空洞にし、そこに溶かした鉛を流し込んで重さを調整しているんです」

「鉛を。なぜそのようなことを」

「十九世紀の貴族や富裕層は、毎日届く膨大な数の手紙を開封しなければなりませんでした。その際、手首に負担がかからないように、柄の側に重りを持たせることで、わずかな力で刃先を扱えるように設計されたんです」


 美波は自分の指先で、架空のナイフの均衡を取るような仕草をした。


「つまりこのナイフは、見た目は均等で美しい形をしていますが、実際の重みは極端に柄の側に偏っているということです。これが何を意味するかわかりますか」


 古賀が息を呑む。


「もし、このナイフを手から落としてしまった場合。重たい持ち手の側が下になって、必ず柄の方から真っ直ぐに落ちていくんです。普通のナイフとは、落ち方が少し違うのですよ」


 美波は図鑑を閉じる。

 神保町でこの図鑑を手に入れたことが、単なる知識の欲求を満たすだけでなく、いま目の前にいる依頼人の大切なモノを探すための、一番の道しるべへと変わった瞬間だった。


「ナイフの重心の秘密は分かりました。これが、見えないナイフの落下を辿るための鍵になります。お待たせしました。さあ、古賀さん。お家へ向かいましょう」


 美波と古賀を乗せた車は、都内の閑静な高級住宅街にある重厚な洋館の前に滑り込んだ。

 高い鉄格子の門を抜け、石畳を歩いて玄関の重い木製の扉を開ける。足を踏み入れた瞬間、美波は肌を刺すような微かな冷気を感じて、思わず身震いをした。


 それは、暖房が効いていないからという寒さだけではない。この広大な屋敷のどこからも、人間が日々を営んでいるという生活の熱や、日常の匂いが極端に薄いのだ。まるで、巨大な博物館の中に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えた。


「こちらです。どうぞ」


 古賀に案内され、廊下の突き当たりにあるマホガニーの重厚な扉を開ける。

 そこが、ナイフが消えた現場である書斎だった。

 部屋に一歩足を踏み入れた美波の目に飛び込んできたのは、壁一面を覆い尽くす天井まで届く巨大な本棚と、中央に鎮座する立派な書斎デスク、そして黒革の椅子だった。


 しかし、美波の視線を最も引きつけたのは、その部屋のあまりにも整然とした状態だった。

 本棚に並ぶ膨大な数の書籍も、デスクの上のアンティークのペン立ても、読みかけのように置かれた洋書も、何もかもが整いすぎている。五年間という月日が流れているはずなのに、埃一つ落ちていない。


(まるで、奥様が亡くなった五年前のその日から、この部屋だけ時間が完全に凍りついているみたい)


 愛する妻を失った悲しみから、妻と共有していたこの書斎の空気をそのままに保存し続けてきた古賀の孤独。美波は、その静寂と執着に、心の奥底でほんのわずかな冷たさを感じた。しかし、すぐにそれだけ、奥様を深く愛していたのだわと自分を納得させ、探偵としての職務に意識を集中させた。


「ここが、ナイフを落とした場所です」


 古賀が指差したのは、デスクの前の空間だった。

 書斎の床には、壁から壁まで部屋全体を覆うように、毛足が長く分厚い最高級のペルシャ絨毯が敷き詰められていた。


「なるほど。これほど分厚く弾力のある絨毯なら、銀のナイフが落ちたとしても金属音は一切鳴りませんし、床に傷がつくこともありませんね」

「ええ。ですが、この絨毯の毛の間に埋もれているわけでもありません。絨毯をすべてめくって床下も確認しましたし、本棚の後ろ、デスクの引き出しの中、ゴミ箱の底。考えうるすべての場所を、這いつくばって探しました。ですが、影も形もないんです。手品のように、ナイフだけが消えてしまった」


 古賀の絶望的な声が、静まり返った書斎に空しく響く。


 三日間探し続けた場所を、美波がもう一度同じように探したところで、見つかるはずがない。古賀の探索は、執念によって見事に行われていたはずだ。

 見つからないのには、死角が存在するのだ。


 美波は深呼吸をし、ポシェットから愛用の純銀製のルーペを取り出した。

 そして、ずり落ちていた大きな丸眼鏡のブリッジを、指先で静かに押し上げた。

 その瞬間、彼女が纏う空気は、図鑑を読んで喜んでいた無邪気な古物商から、迷子になったモノが残した微かな足跡を見つけ出す、冷徹な失くし物探しの探偵へと切り替わった。


「古賀さん。絨毯が音を完全に吸収したのなら、私たちが探すべきは、音ではありません」


 美波の琥珀色の瞳が、凍りついた書斎の空間を、見落とされた小さな痕跡をすくい取るように鋭く見渡した。


「ナイフは下へ落ちました。魔法で消えたのではありません。モノは必ず、物理的な足跡を残しているはずです。音以外の足跡を、これから追跡します」


 図鑑が教えてくれた持ち手の重さという確かな道しるべを胸に、美波は凍てついた書斎に隠された、見えない謎へと足を踏み入れていった。

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