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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と消えないぬくもり―』  作者: 長月有希


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第五話『アルバム』(後)

 彼女は目を見開き、信じられないものを見るような顔で、美波と、空っぽになった本棚の空間を交互に見比べた。


「数年前。極めて丁寧に。どういうことですか、美波さん。だって私は、間違いなく先月の掃除の時に、ここにアルバムがあるのを見たのよ。この目で、確かに」

「中嶋さん、どうか落ち着いて、私の指し示す場所を一緒に見てください」


 美波は中嶋を本棚のすぐそばまで優しく手招きし、純銀製のルーペを棚板の奥へと向けた。


「まず、このアルバムが置かれていたはずの四角い空間の埃の積もり方を見てください。もし、中嶋さんがおっしゃるように一ヶ月前までここにアルバムがあったのであれば、アルバムが引き抜かれた跡の棚板には、他の場所に比べて明らかに埃の少ない、綺麗な四角い抜き跡ができているはずです。一ヶ月という時間は、日常生活において目に見えるほどの分厚い埃の層を作るには短すぎますから」


 美波の言葉に促され、中嶋は目を凝らして棚板の表面を見つめた。

 確かに、そこにある埃は薄っすらと積もっているようなものではなく、空気中の湿気を吸って木材の表面に完全に定着してしまった、ひどく頑固で古い層を形成していた。アルバムがあったはずの場所と、その手前の空間とで、埃の厚みや色合いにまったく境界線が存在しないのだった。


「この埃の層が形成され、木材に定着するまでには、どんなに短く見積もっても三年以上の歳月が必要です。そしてもう一つ、決定的な証拠がこちらです」


 美波はルーペの向きを変え、空いた空間の左隣に立てかけられている、分厚い木製の写真立ての右側面を指し示した。


「この写真立ての木枠の右側面を見てください。本来の明るい木の色合いから、奥に向かって少しずつ濃紺の染料が染み込み、青黒く変色しているのがわかりますか」

「本当だわ。色が、少し抜けて青っぽくなっている」

「はい。これは光による日焼けではなく、『色移り』と呼ばれる化学変化の痕跡です。長年、アルバムの濃紺の背表紙とこの写真立ての木枠がぴったりと接触し続け、そこに湿気が加わったことで、アルバムの染料が木枠にわずかに移ってしまったのです。そして、数年前にアルバムが抜き取られた後、その染料が空気に触れて酸化し、長期間かけてこのような青黒い変色を起こしたのです。もし先月までアルバムがあったのなら、染料はまだ酸化しておらず、これほどはっきりとした変色は見られません。これは、数年単位でこの空間が空洞であったという、化学的に嘘をつけない痕跡なのです」


 美波はルーペをゆっくりと下ろし、中嶋の顔を真っ直ぐに見つめた。

 中嶋の顔には、安堵よりも深い混乱が渦巻いていた。


「痕跡がそう示しているなら、きっとそうなのね。でも、だとしたら、私は先月の掃除の時に一体何を見ていたの。私は確かにこの場所で、アルバムの前に立って埃を払ったのよ。やっぱり私、幻覚を見るくらいに頭がおかしくなって」

「いいえ、違います。幻覚でも、呆けでもありません。それは人間の脳が持つ、認知心理学における『視覚的遮蔽による補完』という、とても真面目な錯覚なのです」


 美波は中嶋の震える手を、両手でそっと包み込んだ。


「中嶋さん。先月の掃除の時、このアルバムがあった空間のすぐ手前に、何か別のモノが置かれていませんでしたか。例えば、小さな置物や、この写真立てが少し手前にせり出していたりとか」

「別のモノ……あ」


 中嶋が短く息を呑んだ。


「そういえば、夫が趣味で作っていた、小さな木彫りの犬の置物が、ずっとこの棚の右端、アルバムの手前に置かれていたわ。でも今日、同窓会の幹事の仕事でアルバムを取り出そうとした時、それが邪魔だったから、別の棚に移したのよ」

「やはりそうですか」


 美波は深く頷き、静かな微笑みを浮かべた。


「中嶋さん。人間の脳は、手前に見慣れた遮蔽物があると、『その後ろには、いつもの景色が存在している』と勝手に脳内で補完して認識してしまうんです。中嶋さんにとって、この本棚の右端には『木彫りの犬の置物があり、その後ろに卒業アルバムがある』というのが、何十年も当たり前すぎる日常の景色でした。だからこそ、数年前にアルバムがなくなった後も、手前の置物がある限り、あなたの脳はその後ろの空間を『アルバムがある』と無意識に補完し続けていたのです。そして今日、同窓会の幹事という明確な目的を持って、あなたが初めてその置物をどかした瞬間、視覚の遮蔽が解け、数年前から失われていた現実の空洞を正しく認識した。ただそれだけのことなのですよ」

「記憶の、補完。私がいつもそこにあると思い込んでいて、手前の置物があったから、脳がその景色を作り出していただけ」

「はい。中嶋さんの記憶力は、むしろアルバムの定位置を完璧に把握していたからこそ、その錯覚を起こしたのです。管理能力がずば抜けて高く、几帳面な中嶋さんだからこそ陥ってしまった、脳の真面目な錯覚です。あなたは呆けてなどいません。何もおかしくなどなっていませんよ」


 美波の丁寧で、どこまでも理路整然とした言葉を聞き、中嶋の瞳から、張り詰めていた糸が切れたように涙が零れ落ちた。


「ああ、よかった。私、自分が自分じゃなくなっていくみたいで、本当に、本当に恐ろしかったの」


 安堵で膝から崩れ落ちそうになる中嶋を、美波はしっかりと支えた。

 自分が狂ってはいなかったという証明。それだけで、中嶋の心に重くのしかかっていた絶望の半分は、確実に溶け去っていた。


「でも、美波さん。私が自分で捨てたわけでもなく、泥棒が入ったわけでもないのなら、あの重たいアルバムは一体どこへ消えてしまったの」

「それも、この本棚がちゃんと答えを教えてくれています」


 美波は再び本棚の空洞へと向き直り、今度は棚板の底面をルーペで細かく観察しながら言葉を紡いだ。


「本泥棒や、あるいは何かを乱暴に引っ張り出した場合、本棚の底板には、重い本が引きずられたことによる、手前側に向かって真っ直ぐ伸びる平行な擦り傷が必ず残ります。しかし、この棚板には引きずった傷が一切ありません。残っているのは、棚板のずっと奥の方、背板に近い部分についた、半月状のわずかなへこみ傷だけです」

「半月状の傷」

「はい。これはつまり、アルバムを抜き取った人物が、本をそのまま手前に引き出したのではなく、一度アルバムの上部を手前に傾け、底の奥の角を支点にして浮かせてから、両手を本の下にしっかりと差し込み、全重量を自分の腕で受け止めてから真上へと静かに持ち上げて抜き取ったという証拠です。周囲の本にも、棚板にも絶対に傷をつけないよう、極めて慎重に、そして愛情を持って大切に扱われた痕跡なのです」


 美波がそこまで説明した、まさにその時だった。

 静寂に包まれた中嶋邸に、ひどく慌ただしい、連続したインターホンの音が鳴り響いた。

 中嶋が肩を揺らし、美波と顔を見合わせた。


「こんな時間に、誰かしら」


 中嶋が涙を拭いながら玄関へと向かい、重い引き戸を開けた。


「中嶋、あんた大丈夫。泣いてない」

「えっ、三枝」


 そこに立っていたのは、息を大きく切らし、額に汗を浮かべた三枝洋子だった。

 洋子は手ぶらで群馬の冷たい風に吹かれながら、中嶋の顔を見るなり、堰を切ったようにまくし立てた。


「ごめん、美波ちゃんを送り出した後、どうしてもじっと待っていられなくなってしまって。作業場にいるお父さんに家の留守番よろしくねと言い残して、そのまま上野から飛び乗ってきちゃったのよ。だってあんた、電話であんなに泣いてたじゃない。心配で心配で、居ても立ってもいられなかったのよ」


 東京の下町から、親友のために文字通り飛んできた洋子。そのあまりにも不器用で、真っ直ぐで、昔から何一つ変わらないお節介な愛情に触れ、中嶋の目から再び大粒の涙が溢れ出した。


「三枝。あんたって人は、本当に、相変わらずなんだから」


 中嶋は顔を覆い、洋子の肩にすがりつくようにして泣き崩れた。洋子も「よしよし、大丈夫よ、私が来たからにはもう大丈夫」と、中嶋の背中を力強く叩きながら、自分も鼻をすすって涙ぐんでいた。

 美波は書斎の入り口からその光景を温かく見守りながら、ふふっと優しく微笑んだ。


(新幹線、やはり速いな。私が在来線でのんびりお弁当を食べている間に、洋子さん、すっかり追いつかれちゃった)


「洋子さん、ちょうどよかったです。中嶋さんの記憶が衰えていないことは、今、確かな痕跡から見つけることができたところです。アルバムは誰かに乱暴に持ち去られたのではなく、家の中の誰かが、とても大切に、別の場所へ移した痕跡が残っていました」


 美波がそう告げると、洋子はパッと顔を輝かせた。


「本当。じゃあ、アルバムはまだこの家の中のどこかにあるのね」

「はい。これから、その見落とされた小さな足跡を辿って、アルバムの現在地を突き止めたいと思います。お二人とも、どうか私の後ろから、足元に気をつけてついてきてください」


 美波は丸眼鏡のブリッジを再び押し上げ、気合を入れ直すと、書斎の床へと膝をついた。

 本棚の足元から始まり、廊下へと続く動線を、愛用のルーペを通して一つ一つ丁寧に観察していった。人間の肉眼ではただの埃や木目にしか見えない景色の中から、美波の琥珀色の瞳は、確実に異物の存在を拾い上げていった。


「ありました。これです」


 美波が廊下の板張りの隅からピンセットで拾い上げたのは、ゴマ粒よりもさらに小さな、黄色く変色した欠片だった。


「これは、古い動物性の糊が劣化して硬化した破片です。さらに、ルーペで細かく観察すると、その破片の周囲には、古い綿布の細かな繊維が絡みついています。おそらく、何十年も前に作られた卒業アルバムの背表紙に使われていた、製本用の糊と繊維が、経年劣化によって剥がれ落ちたものです」


 美波はその微小な欠片の落ちている間隔と方向を点と線で結び、廊下を奥へ奥へと進んでいった。

 書斎を出て、居間を通り過ぎ、客間として使われている和室の前を通過した。美波の追跡は、中嶋邸の生活空間の中心から、徐々に日当たりの悪い、家の北側の奥まった場所へと向かっていった。


 やがて、美波の足がピタリと止まった。

 軌跡が途絶えたのは、廊下の突き当たりにある、分厚い木製の引き戸の前だった。


「中嶋さん。このお部屋は」

「そこは、納戸よ。昔の季節の家電や、お正月飾り、それに普段は絶対に使わないような古い家財道具をしまっておく場所。私、この数年間、この部屋の戸を開けた記憶すらないわ」

「アルバムの接着剤の破片は、この引き戸の敷居の隙間を最後に、完全に途絶えています。アルバムは間違いなく、この納戸の中にあります」


 美波は中嶋に目配せをし、許可を得た上で、重い引き戸に手をかけた。

 鈍い音を立てて戸が開くと、締め切られた空間特有の、古い木材と埃の入り混じった冷たい空気が流れ出してきた。窓のない納戸の中は薄暗く、段ボール箱や衣装ケースが所狭しと積み上げられていた。

 しかし、その雑然とした空間の中で、美波の眼は迷うことなくある一点へと釘付けになった。


「あそこです」


 美波が指差した先。納戸の一番奥、床から少し高い位置に設置された頑丈な造り付けの棚の上に、それは静かに鎮座していた。他の段ボール箱とは明らかに一線を画す、白木で作られた立派な桐箱だ。


「どうして、あんな所に桐の箱が」


 中嶋が不思議そうに呟く。美波は靴を脱いで納戸に上がり、その桐箱を両手で慎重に抱え下ろした。ずっしりとした重みがあった。

 桐の木は、周囲の湿度が高くなると膨張して隙間を塞ぎ、湿度が低くなると収縮して通気性を保つという、天然の調湿機能を持っている。古来より、日本人が絶対にカビや虫から守りたい極上の着物や貴重な書物を保管するために使ってきた、最も信頼できる昔ながらの守り手だ。


 美波は廊下に桐箱を置き、洋子と中嶋が見守る中、その蓋に静かに手をかけた。

 密閉性の高い桐箱特有の、空気が抜けるような微かな音と共に蓋が開いた。

 中から漂ってきたのは、埃の匂いではなく、白檀と丁子(ちょうじ)が混ざったような、上品で高貴な防虫香の香りだった。

 そして箱の底には、通気性の良い高級な手漉き和紙に幾重にも包まれた、四角く重たい何かが大切に横たわっていた。


 美波がその和紙の包みをそっと開くと、そこには、濃紺の分厚い表紙に金色の文字で校章が箔押しされた、あの高校の卒業アルバムが、完璧な保存状態のまま静かに眠っていたのである。


「アルバム。あった。本当にあったわ」


 中嶋が声を震わせ、アルバムの表面に愛おしそうに触れた。

 洋子も「よかった、本当によかったわね、中嶋」と、自分のことのように喜んで中嶋の肩を揺らした。


「でも、どうして。泥棒じゃないなら、誰がわざわざこんなに厳重に、私のアルバムを桐箱に入れて納戸に隠したの」


 中嶋の疑問に、美波はアルバムを箱からそっと取り出し、その背表紙を二人の前に提示した。


「中嶋さん。この背表紙を、よく見てください」


 美波に言われ、中嶋と洋子が顔を近づけた。


 アルバムの濃紺の背表紙の上下の角には、黒い専用の製本テープが、まるで包帯のようにしっかりと巻き付けられ、補強されていた。そのテープの切り口は少しだけ歪んでおり、空気が入ってしまったのか、わずかなシワが寄っている部分もあった。プロの製本職人のような完璧な仕上がりではなかった。しかし、これ以上アルバムの装丁が崩れないようにと、不器用ながらも指先で何度も何度もテープをこすって圧着させたような、執念にも似た痕跡がはっきりと残っていた。


「数年前、あの書斎の窓から雨漏りがあったか、あるいは冬場にひどい結露が発生して、本棚の右端がひどく湿気てしまった時期がありませんでしたか」


 美波の問いかけに、中嶋はハッとして目を見開いた。


「あったわ。五年前の、ひどい台風の時よ。書斎の窓枠のゴムが劣化して、本棚の右側の下の方に雨水が染み込んでしまったの。その時はすぐに業者を呼んで修理してもらったけれど」

「その時です。中嶋さんが外出している間か、あるいはお忙しくされている間に、その湿気にいち早く気がついた誰かがいたのです。その人物は、水濡れによって中嶋さんの大切な卒業アルバムの背表紙が剥がれかけ、劣化し始めているのを発見した。そして、それが中嶋さんにとってどれほど大切な青春の宝物であるかを知っていたからこそ、絶対に失われないようにと、本棚から両手でそっと抜き取ったのです」


 美波は製本テープの不器用なシワを、指先で優しくなぞった。


「その方は、ご自身で製本テープを買ってきて、不器用ながらも一生懸命に背表紙を修繕しました。そして、二度と雨漏りや湿気で痛むことがないようにと、家の中で最も安全で、湿気の影響を受けないこの納戸の桐箱の中に、防虫香と和紙で厳重に包んで避難させたのです。中嶋さん。五年前、この家であなたと一緒に暮らし、あなたのことを誰よりも大切に思い、そしてこの不器用で優しい修繕を行うことができた人物に、心当たりはありませんか」


 美波の静かな言葉が、納戸の冷たい空気に溶けていった。

 中嶋の目から、今度こそ大粒の涙がとめどなく溢れ出し、ポタポタと桐箱の縁に落ちた。

 彼女の脳裏に浮かんだのは、たった一人の人物だった。


「夫よ。三年前に、突然逝ってしまった、私の夫」


 中嶋は震える両手でアルバムを抱きしめ、嗚咽を漏らした。


「あの人、本当に口下手で、不器用で。私が同窓会の準備で忙しくしてると、また昔話かなんて文句ばかり言ってたのに。私の知らないところで、こんなに丁寧に、私の宝物を守ってくれていたのね。きっと、直したアルバムを見せて私を驚かそうと思って。でも、言い出せないまま、あの人、逝ってしまったんだわ」


「中嶋さん」


 美波は丸眼鏡の奥の瞳をとても優しく細め、語りかけた。


「あなたの記憶は、何もおかしくなどなっていません。ただ、ご主人の遺してくれた愛情の痕跡が、深くて静かな納戸の奥で、あなたが迎えに来てくれるのをずっと待っていただけなのです。アルバムも、そしてご主人の思いも、何一つ失われてなどいませんよ」


 その言葉に、中嶋はついに声を上げて泣き崩れた。

 自分が呆けてしまったのではないかという恐怖から解放された安堵と、亡き夫が遺してくれた、あまりにも不器用で温かい愛情の痕跡に触れた感動。その二つの感情が入り混じり、彼女の心を激しく揺さぶっていた。

 洋子はそんな中嶋の背中に回り、今度こそ彼女の肩を力強く、そして優しく、両腕でしっかりと抱きしめた。


「よかった。本当によかったわね、中嶋。あんたは一人じゃないわ。私たちがいるし、天国の旦那さんだって、こうやってあんたの宝物を守り続けてくれてるじゃないの。もう、泣かないで」


 洋子自身も涙声になりながら、親友の頭を何度も何度も撫で続けた。

 古い桐箱の中で時間を止めていた青春の記憶が、一人の古物商のモノに寄り添う確かな眼によって、再び現在の温かい時間へと繋ぎ直された瞬間だった。


 美波は二人の邪魔にならないよう静かに立ち上がり、納戸の暗闇の中から、廊下の明るい光の方へと一歩足を踏み出した。


 ***


 その日の夕暮れ。

 依頼を見事に完遂し、二人の青春と友情、そして夫婦の愛のルーツを蘇らせた美波は、帰りの高崎線のグリーン車に揺られていた。


 洋子は「私は中嶋の家に一泊して、昔話に花を咲かせてくるわ。美波ちゃん、お父さんには適当に言い訳しといて」と、群馬にそのまま残ることになった。今頃きっと、修繕された卒業アルバムを開きながら、中嶋と二人で泣き笑いしていることだろう。


 窓の外では、関東平野の広大な地平線に、燃えるようなオレンジ色と深い紫色の夕焼けが広がっていた。

 心地よい、車輪が鉄のレールを踏みしめる確かな振動が、美波の身体を揺らしていた。


 美波はポシェットの中から、古い革の手帳とミッドナイトブルーのインクが入った万年筆を取り出した。揺れる車内でも器用にペン先を動かしながら、今日出逢った失われた青春の装丁のルーツを、静かに書き記していく。



『消えた卒業アルバムと、見慣れた景色の錯覚。

 モノに込められた想いは決して消えない。

 失われたと思われた青春の装丁は、

 色移りの痕と接着剤の欠片が導く、納戸の奥で眠っていた。


 結露の気配と、不器用な製本テープ。

 桐箱と和紙に守られていた真のルーツは、

 妻の宝物を密かに守り抜こうとした、亡き夫の無口で温かい愛情だった。


 記憶が景色に溶け込んでも、愛の痕跡は必ず残る。

 時を止めた納戸の中で、彼が遺した優しい真実は、

 今も変わらず、彼女の心を温かく包み込み続けている。』



 万年筆のペン先が手帳の紙を擦る心地よい音が、夕暮れの車内にひっそりと溶け込んでいた。

 美波はインクが乾くのを優しく息を吹きかけて待ち、革の手帳を静かに閉じた。

 手帳をポシェットに収め、トレンチコートの襟を少しだけ立てた。

 窓ガラスに映る自分自身の姿を見つめながら、美波は丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を、ふわりと弾むような笑顔の形に細めた。


 東京の下町で、妻に突然家の留守番を言い渡されて、一人で文句を言いながらいつものように作業をしている不器用な幸一の顔が目に浮かんだ。彼もまた、中嶋の夫と同じように、言葉には出さずとも真鍮の南京錠に深い愛情を込めてくれるような、口下手で優しい人間だ。


(早く帰ろう。群馬の駅前でお土産に買った名物の焼きまんじゅうを、幸一さんの作業場のストーブで香ばしく炙り直して、一緒に食べようっと)


 夕焼け空の下、列車は確かな大地の痕跡を踏みしめながら、温かい人の待つ東京の下町へと、夜の始まりの中をひたすらに走り続けていった。

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