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『琥珀色の記憶をほどいて ―時洲美波と消えないぬくもり―』  作者: 長月有希


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第五話『アルバム』(前)

 十一月の中旬。東京の下町を吹き抜ける風には、すでに冬の足音を予感させるような、引き締まった冷たい空気が混ざり始めていた。


 時洲堂(ときすどう)の飴色に変色したガラス戸の向こう側、路地裏に植えられた銀杏の葉が鮮やかな黄金色に染まり、風に吹かれて乾いた音を立ててアスファルトの上を転がっていく。高く澄み切った秋の空から差し込む午後の柔らかな日差しが、店内に並ぶ大正時代のカットガラスや、幕末の古時計の表面に反射して、静かな空間にいくつもの光の斑点を落としていた。


 その光の斑点の一つが落ちるマホガニーのカウンターで、時洲美波はただ一人、静寂の中で繊細な作業に没頭していた。


 彼女の目の前に置かれているのは、一九三〇年代にドイツで作られたという、セルロイド製の古い万年筆だ。美波は純白の柔らかい布を敷き、その上で万年筆を丁寧に解体する。

 ペン先、ペン芯、首軸、胴軸、尻軸。それぞれの部品にこびりついた数十年前のインクの跡を、専用の洗浄液を含ませた綿棒で、傷を一切つけないよう、息を詰めるような手つきで一つずつ優しく取り除いていく。


 細い隙間を利用してインクを吸い上げるこの万年筆の作りは、当時の職人たちの驚異的な技術と手作業の結晶である。美波は十四金のペン先に刻まれた微細なスリットの隙間を純銀製のルーペで確認し、その見事な造形と、かつての持ち主がこれを握って文字を紡いだであろう遠い過去の情景に思いを馳せ、大きな黒縁の丸眼鏡の奥の琥珀色の瞳を優しく細めた。


 その時、入り口に取り付けられた真鍮のドアベルが、どこか遠慮がちに、力なく鳴った。

 美波が顔を上げると、ガラス戸を細く開けて店内に入ってきたのは、近所で金物屋を営む、美波の母親代わりでもある三枝洋子だ。


 普段の洋子であれば、美波ちゃんお茶にしましょうと、手作りのアップルパイや大学芋などを抱えて、ドアベルを壊さんばかりの勢いで飛び込んでくるはずだ。しかし今日の洋子は手ぶらで、その足取りはひどく重く、いつも朗らかに笑っている顔には、明らかな暗い影が落ちていた。


「洋子さん。どうしたのですか、そんなに沈んだ顔をして。お加減でも悪いのですか」


 美波は慌てて万年筆の部品に埃よけの布を被せ、カウンターの奥から急いで出てきた。

 洋子は美波の顔を見ると、泣き出しそうな、すがるような目をして、小さく首を横に振る。


「ううん、私のことじゃないの。美波ちゃん、今日はね。私の昔からの、一番大切な友達のことで、どうしても美波ちゃんに助けてほしくて、相談に来たの」


 美波は事の重大さを察し、奥のロッキングチェアへどうぞと洋子を優しく促した。そして、温かいほうじ茶を淹れて彼女の前にそっと置く。

 洋子はほうじ茶の湯気を両手で包み込むようにしてじっと見つめ、ぽつり、ぽつりと語り始めた。


「中嶋(なかじま)っていう、私の高校時代からの同級生なんだけどね。群馬の高校で、三年間ずっと同じクラスだったの。中嶋はね、昔から本当に頭が良くて、責任感が強くて、ずっと生徒会長をやってたのよ。文化祭の予算管理から、体育祭のスケジュール調整まで、全部あの子が一人で完璧に仕切ってくれてた。ノートの文字は定規で測ったように綺麗で、モノの管理能力もずば抜けて高くてね。私みたいにガサツでおっちょこちょいな人間からすれば、もう尊敬を通り越して、完璧すぎるくらいしっかりした女性なの」


 洋子は懐かしそうに、けれどとても悲しそうに言葉を紡ぐ。


「その中嶋がね、今度、私たちの高校の卒業四十周年の同窓会を開くことになって、幹事を引き受けてくれたの。それで、当時の名簿や連絡先を確認しようと思って、実家の本棚にずっとしまってあった卒業アルバムを開こうとしたらしいんだけど。家の中をいくら探しても、そのアルバムが跡形もなく消えてしまっているのよ」


「卒業アルバムが、なくなった。誰かに盗まれた可能性はないのですか」


「ないわ。中嶋の家は昔からの立派なお屋敷で、防犯もしっかりしているし、金目のモノがなくなったわけでもない。他の本は全部そのままなのに、なぜか卒業アルバムだけが、まるで最初から存在しなかったみたいに消えちゃってるのよ。中嶋は先月までは、確かに本棚の右端に置いてあるのを見たって言うんだけど、どうしても見つからないらしくて」


 洋子はそこで一度言葉を切り、唇を強く噛み締めた。


「問題はね、アルバムが見つからないこと自体じゃないの。あの完璧主義で、今までモノを失くすなんていう失敗を一度もしたことのない中嶋が、こんなに大きくて大切なモノの置き場所すら分からなくなるなんて、ついに私も年で頭が呆けてしまったんだわって、完全に自信を失って、ひどく塞ぎ込んでしまっていることなのよ。電話口で、あの子、泣いてたの。私、狂っちゃったのかもしれないって。そんなの、絶対に嘘よ。あの子が呆けるなんて、絶対にあり得ない」


 洋子の目から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。

 長年連れ添った親友が、自分自身の記憶と知性に絶望し、老いの恐怖に怯えて心をすり減らしている。その事実が、洋子の心を激しく締め付けていたのだ。


「美波ちゃん。あの子は今、群馬の実家で一人で震えてる。お願い、美波ちゃんのその眼で、あの子のアルバムを見つけ出してほしいの。そして、中嶋が絶対に呆けてなんかいないということを、あなたの見つける確かな痕跡で、あの子に証明してやってくれないかしら。このままじゃ、あの子の心が壊れちゃう」


 洋子の切実な願いを受け止め、美波は丸眼鏡の奥の瞳を静かに、けれど強い決意の形に細めた。

 人間は、自信を失い不安に陥ると、どうしても最悪の結末を自分の中で真実だと思い込んでしまう傾向がある。だが、人間の記憶がどれほど揺らいだとしても、大切にされたモノが残す確かな痕跡だけは、決して揺るがない。


「洋子さん。泣かないでください」


 美波は洋子の震える手を、自分の両手でしっかりと、優しく握りしめた。


「安心してください。モノに込められた想いは絶対に消えたりしません。お友達のアルバムが本当にそこにあったのなら、必ずどこかに動かされた足跡が残っているはずです。私が群馬へ行って、中嶋さんの不安を、必ず晴らしてきますから」


 美波の揺るぎない、確かな温度を持った声に、洋子は「ありがとう、美波ちゃん、本当にありがとう」と、何度も何度も深く頭を下げた。


 かくして、時洲堂の若き古物商は、一人の女性が失いかけた自信と記憶のルーツを探るため、群馬県への出張を引き受けることになったのである。


 ***


 数日後。


 群馬県へと向かう当日、美波は上野駅のホームに立っていた。

 東京から群馬の主要駅まで向かうのであれば、本来なら新幹線を利用するのが最も早く、効率的である。時間にして一時間もかからずに到着する距離だ。

 出発前、洋子からは新幹線で行きなさいと特急券代を渡されそうになったが、美波は「新幹線は速すぎて目が回ってしまうので、在来線でのんびり行かせてください」と丁寧にお断りしていた。

 だからこそ美波が今待っているのは、新幹線のホームではなく、在来線である高崎線のホームだった。


(時速二百五十キロメートルなんて。窓の外の景色がビュンビュン飛んでいって、私が置いて行かれちゃう。それに、あまり速すぎると、地面を走っている感覚がなくてそわそわしちゃうんだよね)


 美波は足元のキャスター付きのトランクを両手で強く握りしめながら、新幹線のホームがある頭上の方向を少しだけ恨めしそうに見上げて、一人小さく呟いた。

 飛行機で空を飛ぶことに比べればまだましとはいえ、美波にとって新幹線のあの異常なスピード感は、どうにも落ち着かないのだ。景色をゆっくり楽しんで、列車の揺れを感じながら、美味しいお弁当を食べる。それくらいのペースが、美波にはちょうどよかった。


 そんなわけで美波は、のんびりとした秋の一人旅を兼ねて、あえて在来線のグリーン車で、二時間以上かけてゆっくりと群馬へと向かうルートを選択したのである。

 やがて、オレンジと緑のラインが入った高崎線の列車が、確かな鉄と鉄の摩擦音を響かせながらホームに滑り込んできた。

 美波は安堵の息をつき、二階建てグリーン車の静かな座席へと乗り込んだ。


 今日の美波は、少し大人びた秋の装いだった。

 マスタードイエローと焦げ茶色が交差する、落ち着いた色合いのタータンチェックのワンピース。その上から、仕立ての良いネイビーのトレンチコートを羽織っている。足元は歩きやすいダークブラウンの編み上げのレザーブーツで、肩には使い込まれた革の鞄を斜め掛けにしていた。普段の時洲堂で見せるエプロン姿のあどけなさとは違い、どこかクラシカルな探偵を思わせる、美波の端正な顔立ちと透明感に実によく似合う衣服だった。


 列車が上野駅を出発し、荒川を越えて埼玉へと入っていく。

 美波は窓際の席に深く腰を下ろすと、トレンチコートのベルトを少し緩め、鞄の中から、東京駅でわざわざ並んで買ってきた秋の味覚弁当を嬉しそうに取り出した。

 蓋を開けると、出汁の香りがふわりと広がる。中には、ふっくらと炊き上がった大粒の栗ご飯を中心に、香ばしく焼かれた松茸、銀杏の形に飾り切りされたサツマイモ、そして脂の乗った秋鮭の塩焼きが美しく並べられていた。


「いただきます」


 美波は両手を合わせて小さくお辞儀をすると、お箸を割り、まずは栗ご飯を一口頬張った。栗の優しい甘さと、昆布出汁の効いたご飯の塩気が口の中で絶妙に混ざり合う。


「美味しい」


 車輪がレールの継ぎ目を越えるたびに伝わってくる、心地よく規則的な振動。これこそが、確かに自分たちが地面を踏みしめながら進んでいるという、美波にとって何よりも安心できる証拠だった。

 車窓から見える景色は、東京の密集したビル群から、少しずつ視界の開けた住宅街へ、そして広大な関東平野の田園風景へと、のどかに移り変わっていく。


 刈り入れの終わった田んぼの土の色。遠くに見える山々の稜線が、少しずつ冬の足音を告げるように色づき始めている。美波は温かいほうじ茶のペットボトルを片手に、その移りゆく日本の原風景を、丸眼鏡の奥の瞳を細めてゆったりと楽しんでいた。


 やがて、列車は利根川を越え、群馬県へと入っていく。

 遠くには、雄大で裾野の広い赤城山の姿がくっきりと見えてきた。空気の色が、東京のそれとは明らかに違い、もっと冷たく澄んでいて、輪郭がはっきりとしている。


 駅弁をすっかり綺麗に平らげた美波は、ポシェットの中から愛用の古い革の手帳と、ミッドナイトブルーのインクが入った万年筆を取り出した。揺れる車内でも器用にペン先を走らせ、今日自分が向かう失われた青春の記憶についての情報を、静かに頭の中で整理していく。


 洋子の親友、中嶋さん。生徒会長で、几帳面で、管理能力の高い女性。

 その彼女が、絶対に失くすはずのない卒業アルバムを失くし、自分の知性に絶望している。

 必ず、何か理由があるはずだ。大切にしていたモノが、何の理由もなく一人で消えてしまうことなんてあり得ないのだから。


「まもなく、高崎、高崎です」


 車内アナウンスが響き、列車がゆっくりと速度を落とし始める。

 美波は万年筆のキャップを閉めて手帳をしまい、トレンチコートの襟を正した。

 のんびりとした列車の旅はここまでだ。ここからは、時洲堂の古物商として、そして過去の痕跡を読み解く探偵として、一人の女性の心を救うための仕事が始まる。

 美波はトランクの持ち手をしっかりと握りしめ、冷たく澄んだ群馬の空気の中へと降り立った。


 ***


 高崎駅からさらにローカル線に乗り換え、のどかな無人駅で降りた美波は、スマートフォンの地図を頼りに、閑静な住宅街の中を歩いていた。

 東京の下町のような密集した路地裏とは違い、一つ一つの区画が広く、立派な生垣や庭木に囲まれた大きな家が立ち並んでいる。赤城山から吹き下ろす秋風が、トレンチコートの裾を揺らした。


 やがて美波は、目的の住所である立派な瓦屋根の日本家屋の前に到着した。

 門構えは重厚で、手入れの行き届いた松の木が庭に植えられている。表札には中嶋という文字が、端正な楷書体で彫り込まれていた。

 インターホンのボタンを押すと、すぐにはい、どちら様でしょうかという、落ち着いた、しかしどこか張りのない女性の声が響いた。


「初めまして。洋子さんからご相談を受けて参りました、時洲堂の時洲美波と申します」

「ああ、あなたが。遠いところをわざわざごめんなさいね。今、門を開けますから」


 金属音がして門が開き、玄関から一人の女性が姿を現した。

 洋子の高校時代の親友である、中嶋だった。


 年齢は洋子と同じ六十歳前後のはずだが、背筋は真っ直ぐに伸びており、シルバーグレーの髪を後ろで上品にまとめている。身に着けている衣服も質の良いもので、若い頃はさぞかし誰もが振り返るような、知的な美人であっただろうことが容易に想像できた。洋子が完璧な生徒会長だったと評したのも頷ける、凛とした佇まいだ。


 しかし、その顔には深い疲労の色が濃く滲んでいた。

 目元にはうっすらと隈があり、美波を出迎えるその表情にも、どこか怯えのような、自信のなさが張り付いている。


「美波さん、わざわざ本当にごめんなさいね。洋子がどうしてもときかないものだから。でも、若いあなたをこんな群馬の端っこまで呼びつけるなんて、申し訳なくて。私の頭が、すっかりおかしくなってしまったせいで」

「とんでもないです。私は古いモノの行方を探すのが仕事ですから、どうかお気になさらないでください。中嶋さん、洋子さんからは、同窓会に使う大切な卒業アルバムが見当たらなくなってしまったと伺っています」


 美波が静かに本題を切り出すと、中嶋は辛そうに目を伏せ、ため息をついた。


「ええ、そうなの。来月、高校の同窓会があって、私が幹事をしているのだけれど。当時のクラスメイトの連絡先や、恩師の住所を確認するために、ずっと本棚にしまってあった卒業アルバムを開こうとしたの。でも、ないのよ。どこを探しても」


 中嶋は震える手で、自分のこめかみを押さえた。


「私、昔からモノの場所を忘れることなんて一度もなかったわ。家計簿だって一円の狂いもなくつけているし、書類の整理だって完璧にやってきたつもりよ。先月、本棚の掃除をした時だって、確かにアルバムはいつもと同じ、あの本棚の右端にあるのを見たわ。私がこの目で見たのよ。それなのに今日見たら、跡形もなく消えているの。泥棒が入ったわけでもない。家族が動かしたわけでもない。だとしたら、もう、私が無意識のうちに捨ててしまって、そのことすら忘れてしまったとしか考えられないじゃない。私、ついに呆けてしまったんだわ。大切な青春の記憶すら、自分でゴミ箱に捨ててしまうくらいに」


 自らの知性と記憶を否定し、崩れ落ちそうになる中嶋。

 美波はそんな彼女の背中を優しく支えるように、静かに、けれど力強く言った。


「中嶋さん。ご自分を責めるのは、私が現場を見てからにしてください。大切なモノが、何の痕跡も残さずに一人で消えたりはしません。もしそこにあったのなら、必ずどこかに確かな足跡が残されています。どうか、その本棚を見せていただけますか」


 美波の真っ直ぐな琥珀色の瞳に見つめられ、中嶋は少しだけ戸惑った後、ええ、こちらよ、上がってちょうだいと、美波を家の中へと案内した。

 通されたのは、廊下の突き当たりにある、西日の差し込む静かな書斎だった。

 部屋の壁一面には、床から天井まで届くような、重厚なオーク材で作られた巨大な本棚が造り付けられている。棚の中には、百科事典、文学全集、歴史書、そして何十年分ものアルバムやファイルが、サイズごとに規則性を持って美しく並べられていた。中嶋の几帳面な性格が、この本棚の整然とした光景だけでも十分に伝わってくる。


「ここよ」


 中嶋は本棚の中段、ちょうど大人の目線の高さにある棚板の、一番右端の空間を指差した。

 そこには、幅にして五センチほどの、ぽっかりとした不自然な空間の空きができていた。左側には分厚い木製の写真立てが並んでおり、右側は本棚の木の側面板になっている。


「私は間違いなく、先月まで、この右端に高校の卒業アルバムが収まっているのを見たの。何十年も前から、ずっとそこがアルバムの定位置だったから。でも、今はご覧の通りよ。どこにもないの」


 中嶋が力なく肩を落とす。

 美波はトレンチコートのボタンを外し、荷物を床に静かに置いた。

 そして、ポシェットの中から愛用の純銀製のルーペを取り出し、そっと首から提げた。


 本棚の前に真っ直ぐに立ち、大きく深呼吸をする。

 細く白い人差し指を、大きな丸眼鏡のブリッジにそっと添えて静かに押し上げる。


 その瞬間、書斎の空気が、静かで凛としたものへと変化した。

 先ほどまで在来線で駅弁を美味しそうに食べていた、あどけなくマイペースな古物商の女の子の気配がふわりと消え去る。

 そこに立っているのは、日常の中に隠された誰も気がつかない小さな痕跡を見落とさず、絡まった真実の糸を鋭く手繰り寄せる探偵だった。


 美波は静かに歩み寄り、ルーペを右目に当て、本棚のアルバムがあったはずの隙間へと顔を近づけた。

 木材の表面に残された微細な痕跡を、一つ一つ丁寧に見つめていく。


 棚板に積もった埃の層の厚み。埃の重なり方。

 その隙間の左隣に置かれている分厚い木製の写真立ての、側面の状態。

 そして、棚板の表面に無数に刻まれた、ごくわずかな摩擦の傷の方向。


 書斎には、柱時計の規則的な音と、美波の静かな呼吸音だけが響いていた。

 中嶋は息を呑んで、その異様なまでの集中力を見せる美波の後ろ姿をじっと見つめていた。


 十分ほどの時間が経過しただろうか。

 美波はゆっくりと顔を離し、ルーペを下ろす。

 そして、静かに振り返り、不安に震える中嶋の目線を正面から真っ直ぐに捉えた。

 その琥珀色の瞳には、推測や慰めではない、見落とされていた確かな足跡を見つけ出した者だけが持つ、静かな確信の光が宿っていた。


「中嶋さん。ご安心ください」


 美波の声は、秋の湧き水のように澄み切って、どこまでも穏やかだった


「あなたの記憶力も、管理能力も、全く衰えてなどいません。あなたが呆けてご自分でアルバムを捨ててしまったなどということは、絶対にあり得ませんから」

「え」

「なぜなら、この本棚から卒業アルバムが消えたのは、あなたが記憶しているような一ヶ月前なんかではありません。ここにある埃と化学反応の痕跡が証明しています。アルバムはこの場所から、数年前の段階で、すでに完全になくなっていたのですから」

「数年前。でも、私は確かに先月、掃除をした時に、ここにアルバムがあるのを見たわ。私がこの手で埃を払ったのよ」

「いいえ。それは人間の脳が作り出した、とても優しくて悲しい視覚の錯覚なのです」


 美波は丸眼鏡のブリッジを再び指先でそっと押し上げ、本棚の空っぽの空間を振り返った。


「そしてもう一つ、確かな痕跡があります。アルバムは泥棒に盗まれたわけでも、あなたが乱暴に捨てたわけでもありません。この棚板には、何者かの手によって大切なモノを傷つけないように両手でそっと持ち上げられ、極めて丁寧に抜き取られた愛情の足跡が、はっきりと残っているのですよ」


 静寂に包まれた書斎の中で、美波の静かで、どこまでも澄み切った声が響き渡った。

 その言葉の意味を理解するのに、中嶋は数秒の時間を要した。

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