08. 外の世界
異空間から出た最初の瞬間、ローナは足を止めた。
そこは森の中だった。木々の間から差し込む光が細く地面に当たっていた。土の匂いがし葉の擦れる音がした。遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
ローナは膝をついて両手で土を掴んだ。帰りたいと思っていた世界がここにある。
「……やっぱり、異空間との空気は違うわね」
「ローナ、口調戻ってるよ」
「……気をつける」
ローナはミゼに顔を向けた。
「ミゼも……今の私はシリだぞ……」
「「……」」
ローナは立ち上がった。フードを深く被り仮面を確認した。声を変える術式が発動していることを確認して前を向いた。どこから始めるかはすでに決めていた。まずは今の現状を知ること。
魔王の支配はどこまで広がっているのか、勇者一行がどうしているのか、各地の状況がどうなっているのか。何も分からないまま動くことは修行を無駄にすることと同じだった。イクシリネスから得た知識の中に情報収集の要所として使える場所がいくつかあった。まずはそこへ向かう。
「ミゼ、準備はいいか」
「いつでもいいよローナ……じゃなくてシリ」
「では行こう」
二人の足が森の奥へと踏み出した。最初に向かったのは、王都から離れた交易都市のゼルドハルムだった。
ゼルドハルムは東西の街道が交差する場所に位置しており、商人、冒険者、傭兵、情報屋などが常に行き来している。つまり、情報が最も集まりやすい場所だ。ゼルドハルムに入った時、ローナは最初に感じた変化があった。人々の顔が暗い。
ニルハ村にいた頃は、まだ周辺の街や村には余裕があった。魔族と魔物の被害は各地で出ていたが日常は続いていた。しかし今のゼルドハルムの人々は、どこか疲れ果てた目をしていた。市場は開いているが活気がなく、子供たちの笑い声が少ない。建物の壁に修復の跡が目立つ。
「戦いの爪痕だ」とローナは呟いた。魔王の力は相当なものだ。それだけ各地への被害も大きかったのだろう。ローナの胸に重いものがあった。自分の力が魔王に影響を与えていた。自分の力が、この人々の苦しみに繋がっていた。頭で分かっていたことが実際の光景として目の前にあった。
「シリ」ミゼが静かに言った。「これはシリのせいじゃない」
ローナはミゼを見た。「……気をつかわせたな、大丈夫だ。魔王は必ず討つ……」
十五歳の少女が真剣な目でローナを見ていた。ローナは前を向いた。
「先へ進もう」
ゼルドハルムの情報屋の元締めは、バレッド・エズサレスという男だった。
五十代位で太い体に人のよさそうな顔をしている。しかしその目だけは、油断なく全てを測るような鋭さがあった。街の酒場の二階を事務所にしており、金さえ払えば大抵の情報を売ってくれるという評判だった。
ローナはその酒場の扉を開けた。
昼間から薄暗く酒の匂いが充満している。カウンターの奥に体格のいい老いた女将が立っていた。ローナを見て仮面に目を留めたが、何も言わなかった。この街では素性を詮索しないことが不文律らしかった。
「バレッドに会いたい」とローナは言った。
「二階だよ」と女将が顎で示した。
二階に上がるとバレッドが椅子に座って書類を睨んでいた。
「誰だ、見ない顔だな」
「情報を買いたい」
「白い仮面か。また変わった格好をしているな」
「商売に格好は関係ないだろう」
「そりゃそうだな」
バレッドは書類を置いてローナを値踏みした。
「何が知りたい」
「魔王の現状。勇者一行の位置と状況。各地の被害状況。それから、魔王の幹部それぞれについての最新情報」
バレッドが眉を上げた。「随分と欲張りだな。全部まとめて買うのか?」
「まとめて買おう。金は出す」
「……どういう立場の人間だ?」
「魔王と魔族達の残滅を望んでいる」
バレッドはしばらくローナを見てから「面白い」と言って笑った。「いいだろう。そこに座ってくれ。長い話になる」
バレッドから得た情報はローナの予想より深刻だった。
まず、魔王の支配圏が予想より拡大していた。東の砦、北の山岳、西の湖畔。幹部三人が各地の拠点を固め、そこから魔族の支配を広げていた。
人口の多い都市は、魔王側の直接攻撃を避けながらも周辺の農村を次々と制圧されており、食糧供給が逼迫している地域があった。
王国は勇者一行への期待を繋ぎ止めているが、国内でも「勇者に頼るより和平交渉を」という声が出始めているという。
そして勇者一行については――。
「勇者ユウルか」とバレッドが言った。「勇者ユウルの強さは本物だ。各地の魔族と魔物をどんどん倒している」
バレッドが少し声を落とした。「しかし人が変わったと言われ始めたな」
「……そうか」
「何か知っているのか?」
「いや」
「まあいい。それから今、勇者一行がいる場所だが」バレッドは地図を広げた。「北東の森林地帯だ。中級魔族の群れが大きくなっていて、それを抑えに行っているはずだ。ただ、数が多くて苦戦しているという話も聞く」
ローナはその場所を地図で確認した。ここからは、北東に一週間ほどの距離だ。
「それと魔王の幹部についてだが、四人の内の一人ザッハネル・ドルビトは既に勇者達に倒されている。後の三人だが――。」
魔王の幹部の残りは三人。
一人目はグルヴェダ・ガジエス。東の砦に引きこもっていて滅多に外に出ない。砦に近づいた者は強力な結界により全員弾き返されて誰も近づくことができない状態だ。
二人目はドルガ・ベルドス。北の山岳地帯を支配している。攻撃を受けても、すぐに再生する肉体を持っていると言われている。
三人目はジェネルネ・ファセス。西の湖畔の城を拠点としている。精神干渉魔法の使い手で対象の感覚を歪め仲間を敵に見せ仲間撃ちをさせたり、現実と幻覚の区別をつけられなくさせるそうだ。
これは、後で対策を立てる必要がある。
「ありがとう。十分だ」
金を払って立ち上がろうとするとバレッドが言った。
「また何かあったら来な。仮面の御仁、達者でな」
ゼルドハルムを離れてからローナとミゼは二ヶ月をかけて各地を回った。
東の農村、南の港町、北の山岳地帯の入り口。行く先々で情報を集め状況を把握した。そして地図に書き込んでいった。
その中でローナは魔族と魔物の小規模な戦闘も何度か経験した。村を脅かしていた魔物の群れをミゼと二人で退けた。商人を狙っていた魔族を街道で撃退した。山岳地帯の入り口で迷子になっていた旅人を魔族から守った。
戦うたびに、実戦の感覚を取り戻した。
異空間での修行と実際の戦いは似ているが違う。練習体は死なないが、本物は生きている。動きに明確な意志がある。怒りがある。恐怖がある。それを読み取って対応することが、最初の数戦では上手くいかなかった。
しかし、五戦、十戦と経験を積むうちに感覚が馴染んでいった。
イクシリネスの訓練は確かに身についていた。
南の港町に滞在した夜、ローナは宿の窓から海を見ていた。ミゼは早々に眠っていた。小さな寝息が聞こえる。海が月を映していて、波の音が単調に繰り返された。
ローナはこの二ヶ月で集めた情報を頭の中で整理した。魔王の支配圏の地図は、かなり正確に把握できた。幹部の配置も分かった。勇者一行の動きも大まかには掴めている。
ただ一つだけ情報として得られないものがあった。ユウルが今、どういう状態にあるか。でも会いに行けない。まだ行けない。
もう少し情報を集め、戦略を固めて準備を整えてからだ。そう言い聞かせながら、ローナは海を見続けた。
三ヶ月目、ローナは予想外の出来事に遭遇した。
中部の街道を歩いていた時、前方に黒煙が上がっているのを見つけた。急いで走った。 街道沿いの小さな村が燃えていた。それは魔物の急襲だった。数は二十を超えていて、村の自警団では太刀打ちできていない。建物が次々と炎に包まれ、村人たちが逃げ惑っていた。
ローナはミゼを見た。
「参戦する!」
「うん!」
二人で飛び込んだ。
弱体化魔法と精霊魔法の組み合わせで魔物を次々と無力化した。数時間ほどで魔物の群れを退けた。
村人たちは信じられないという顔で二人を見た。村長が走り寄ってきた。
「あなた方は……!助けて頂いて、ありがとうございます!」
「怪我人はいるだろうか」
「何人か。ですが、命に関わるほどではないと思います」
「案内してくれ」
ミゼが怪我人に回復魔法をかけた。精霊の治癒が傷を塞いでいく。村人達が驚いた。
ローナは燃えている建物を見た。まだ炎が残っている。消火の手伝いをしながら村人達と話した。話の中で一つ気になる情報を得た。
「この辺り最近、魔物の動きが変わったんですよ」と村長が言った。
「変わったとは?」
「はい、以前は散発的だったんです。ですが三ヶ月ほど前から組織的になってきたんです。まるで誰かが指揮しているように一斉に動くようになりました」
「三ヶ月前……」
「ええ。何か変わったことがあったんでしょうかね」
ローナは少し考えた。
三ヶ月前は、ローナが異空間から出てきた時期と一致する。
封印が施されたことで魔王への魔力供給が止まった。その影響なのかもしれない。魔王が、各地の魔族に対して積極的な攻勢をかけるよう指示を出した可能性がある。
「……急いだ方がいいかもしれないな」ローナは呟いた。
この封印の効果が持続している間に弱体化を成功させなければならない。
四ヶ月目から、ローナは戦略の再構築を始めた。宿の一室に地図を広げてミゼと二人で議論した。
「魔王の幹部を討伐するのは、勇者一行と合流してからになる。問題は合流のタイミングだ」
「早い方がいい?」とミゼが言った。
「早くした方がいい。ただ合流する前に、もう少し情報を集めておきたい。特に幹部の弱点について」
「幹部の弱点、調べられる?」
「伝聞と観察から推測するしかない。グルヴェダ・ガジエスの防壁については、既に対策がある。ドルガ・ベルドスについても肉体の仕組みは文献から推測できる。問題は――」
「ジェネルネ・ファセス」とミゼが言った。
「そうだ。精神干渉の使い手。どう対処するかが、一番難しいな」
ミゼは考えた顔をした。
「精霊族は精神干渉に比較的強い。感情ではなく、精霊との繋がりで世界を認識しているから人間の感情につけ込む幻覚が効きにくい」
「問題は私を含め人間のユウル達だな。人間は少しの感情で深く嵌まる可能性がある」
「ユウルさんのこと心配?」
「……もちろん心配に決まっている」
「そうだよね」
八ヶ月目、ローナは初めて勇者一行の姿を遠くから見た。
それは偶然だった。
北の街道を移動中に前方から勇者一行が来るのを見つけた。ローナは咄嗟に木陰に入り、ミゼに目配せした。ミゼが気配を消す精霊魔法を発動した。
勇者一行が道を歩いていた。ユウルが先頭だった。
久しぶりに見た。遠くからだったが、はっきりと分かった。背格好は同じだ。しかし、歩き方が変わっていた。前のユウルは周囲を見ながら歩いていた。景色を見て村人と目が合えば会釈して仲間と何か話しながら歩いた。
今のユウルは前だけを見ていた。視線が一点に固定されていて、まるで機械のように歩いていた。
セクトが隣に並んで何か話しかけた。ユウルは答えなかった。セクトが苦笑いをして、カルナと目を合わせた。マルセルが地図を広げながら歩いていた。
四人が通り過ぎていった。ローナは木陰からその背中を見ていた。
ミゼが「会いに行かないの?」と小声で聞いた。
「まだ、会いには行けない」
「……シリ辛そうだよ」
「……」
ローナはユウルの背中が見えなくなるまで、そこに立っていた。手が、わずかに震えていた。会いたかった。声を聞きたかった。名前を呼びたかった。それでも、今はまだできなかった。
今はまだ駄目だ。ローナは手を握って震えを止めた。もう少しだ、もう少しで準備が整う。
十一ヶ月が経った頃、ローナは決断した。
情報は集められるとこまで集めた。幹部の弱点、対策、それにともなう術式も予想範囲内でだが準備が整った。これ以上二人で動いても得られるものは少ない。むしろ今必要なのは、実際に勇者一行と連携して戦う経験だ。
その夜、ローナはミゼに言った。
「明日から、勇者一行を探す」
「いよいよだね」とミゼが言った。
ミゼが精霊を一体呼んだ。小さな光の精霊が部屋の中でふわりと浮いた。
「明日から、この精霊に案内してもらう?精霊は感覚が鋭いから遠くにいる人間の気配も分かるよ」
「勇者一行の気配も?」
「試してみるね」
「シリ、光の精霊が勇者のことを読み取らないといけないから、ユウルさんの思い浮かべてくれる?」
「思い浮かべればいいんだな?」ローナは目を瞑りユウルの事を考えた。
光の精霊はローナの額に触れた。少しして精霊は離れ、精霊が窓の外をふわりと見た。北東の方向を向いた。
「どうだ?」
精霊が小さく光った。
「北東にいるみたい」
ローナは地図を広げた。「どの位置かわかるか?」
光の精霊が地図の上でその位置をしめした。そこは、森林地帯付近だった。
「ここか、準備してから向かおう」
「うん」
ローナは窓から夜空を見た。これまで、何度この星を見上げたことか。情報を集めて魔物と魔族の戦いのさなか、それでもいつも夜になるとユウルのことを考えていた。元気でいるか、ちゃんと食べている、眠れているか、いつも考えていた。
「ユウル」ローナは小声で呼んだ。
誰も聞いていない部屋でずっと呼び続けた名前を最後にもう一度呼んだ。
「もうすぐ行く。待ってて、ユウル」
星が瞬いた。




