05. 女神との邂逅
意識がゆっくりと浮かび上がった。
……冷たい。ローナはゆっくりと瞼を開けた。見えたのは空ではなく、白い柔らかい光だった。どこからともなく降り注いでくる光に包まれていて身体の感覚がない。痛みもない。崖から落ちたはずの衝撃も何もなかった。
ここはどこだろうとローナは思った。
死んだのだろうかとも思った。
光の中から人影が現れた。女性だった。
背が高く、白い衣を纏い、銀白色の長い髪が光の中で揺れている。顔立ちは、この世のものとは思えないほど整っていて、人間ではないと直感した。その瞳は透明な金色で美しかった。
女性は、静かにローナを見下ろした。
「目が覚めましたか、ローナ」
声は低く穏やかで、不思議な音色のように聞こえた。
「……あなたは?」
「私はイクシリネス。天上の存在、人は女神と呼びます」
ローナは目を瞬いた。女神様。
「……ここは?」ローナは戸惑いながら女神に聞いた。
「人の世界とも死の世界とも異なる場所であり、私が管理する異空間です」とイクシリネスは言った。「この異空間には時間という概念が存在しません」
「時間がないのですか?」
「そうです。外の世界の時間の流れとは完全に切り離されている空間です。あなたが、もしここで百年いたとして外の世界に出ると、あなたが崖に落ちた直後と大差ありません」
ローナは驚きで瞳を丸くしたまま周囲を見渡した。
「ここは……不思議な空間なのですね……あっあの、私は……死んでいないんですか?」
「ええ、そうなる前に私が繋ぎ止めました。あなたの傷ついた身体も治療しました」
イクシリネスは静かに言った。
「あなたを魔王の糧にするわけにはいかなったのです。このまま魔王を野放しにするわけにもいきません。故に、貴方をを選びました」
「……選んだ?」
「話すことがあります。こちらについてきなさい」
そこは神殿のような場所だった。白い石柱が規則正しく並び、その間に半透明の光の膜が張られている。床は湖の上を歩いているようで、ローナが動く度に足元に波紋のような光の揺らぎが走った。
イクシリネスが手を動かすと、床の中から椅子と小さな卓が現れた。椅子は二つあり、卓の上には湯気の立つ杯が二つ置かれていた。
「そちらへ座りなさい」
ローナは言われるままに椅子に腰かけた。イクシリネスも向かいに座った。
「体が温まりますよ、どうぞ」
「はい」
ローナは杯を両手で包んだ。中身は透明で、ほんのり甘い香りがした。一口飲むと体の芯から温まるような感覚があった。
「では話しましょう」
イクシリネスは杯を持たずに、金色の瞳をローナに向けた。
「まず、あなたが今どういう状態にあるかを説明します」
「蝕鎖という術式で魔王と繋がれているということは分かっています」
「そのとおりです。では、その先を話します」
イクシリネスは静かに言葉を続けた。
「あなたは蝕鎖とは別の術式もかけられています。それにより例えあなたが死んだとしても、あなたの魂さえあれば、魔王へ魔力供給は続きます」
「っ……それでは私が死んでも無意味だったのですか」ローナは目を見開き、手を握り締めて愕然とした。
「残念ながらそうです。蝕鎖は、禁術の中でも最も強力な物の一つです。通常の解除方法は存在しません。しかし、完全に手がないわけではないのです」
ローナは更に手を握りしめた。
「一時的にですが、蝕鎖の流路を封印することはできます。魔王への魔力供給を遮断し、且つ魔王が、あなたから吸収しようとしても気づかれないように弾く壁を作ることが神である私なら可能です。それをすれば、魔王への魔力供給は止まります」
イクシリネスはローナの顔をまっすぐに見つめる。
「そして魔力供給を止めている間に魔王を倒す必要があります。ですが魔王を倒すには、それだけでは不十分なのです。魔王バルドリッセの力の源は、あなたの無限魔力だけではなく、彼は長年にわたって魔力を蓄積しており、その核が身体の奥深くに形成されています。その力は強大です。もはや勇者達だけでは、あの魔王は倒せません」
「そんなっ、どうすればいいのですか!」ローナは立ち上がって言った。
「そのために私がいます」とイクシリネスが言った。
「あなたには、魔王を弱体化させるために力を与えましょう。その力を使い、あなた自身が魔王を弱体化させ、勇者がとどめを刺す必要があります。つまり魔王を倒すには、あなたと勇者の両方が揃って初めて成立するということです」
ローナはしばらく黙って、その言葉の意味を飲み込んだ。
「私が魔王を弱体化させて、ユウルが魔王を倒す……」
「そうです」
イクシリネスは立ち上がった。
白い衣が、ゆっくりと揺れた。イクシリネスは卓を一周するように歩きながら言った。
「あなたの無限魔力は、確かに特別です。しかし、それだけではありません。あなたの魂の構造そのものが、通常の人間とは異なります。魔力を受け取り、変換し、放出する能力が、あなたの魂には元から備わっています。だから魔王に狙われたのです」
イクシリネスはローナの前で立ち止まった。
「ローナ、あなたは戦えますか?」
ローナは顔を上げた。金色の瞳が、まっすぐにローナを見ていた。ローナの意思は既に決まっていた。
「はい、戦います」
「戦うというのは、命をかけるということです。今度は生き残れる保証はありません。弱体化の任務は、あなたが最も危険な場所に立つことを意味します」
「……はい」
「勇者には、正体を隠して動かなければなりません。それでも覚悟しますか?」
その言葉にローナは驚きを隠せなかった。
「……っど、どうしてですか?」
「勇者は、あなたが死んだと思っています。あなたが生きていると知れば、彼は戦いよりもあなたを守ることを優先するでしょう。それでは魔王を倒せません。あなたが表に出れば、彼の集中が乱れるでしょう。勇者が魔王を倒すために、あなたは影として動かなければなりません」
ローナは唇を閉じた。ユウルに正体を明かせない。そばにいながら、ただの他人として振る舞わなければならない。それがどれほど苦しいか、それでも。
「……平和な世界を取り戻せるなら、そのためなら――」声が少し震えた。それでも、続けた。「戦います。影でも、何でも私にできることをします」
イクシリネスはしばらくローナを見ていた。それから静かに頷いた。
「よく決断しました」
イクシリネスはローナのすぐ近くまで寄った。
「ではまず、封印を施します」
イクシリネスが右手をローナの胸の前にかざした。光がイクシリネスの手から生まれた。白と金色が入り混じった眩い光。それがゆっくりとローナの胸へと触れていく。
痛みはなく、ただ温かかった。身体の奥深くにある、あの繋がれた感覚があった蝕鎖の気配が、何かに覆われていくように薄れていった。完全に消えたわけではない。ただ、圧力が断ち切られたと感じた。
「封印は施されました」イクシリネスが手を引いた。
「今この瞬間から、魔王への魔力供給は止まりました。それと、あなたの無限魔力の気配そのものを別の質の魔力に見せかける付与もしました。魔力供給が止まったことに魔王は気づくでしょう。ですがもうあなたの魔力気配を追う事はできないはずです」
「イクシリネス様、ありがとうございます。あの、この封印はどのくらい持ちますか?」
「この空間にいる間は大丈夫ですが、外の世界に出た場合は七年程度です」
ローナは静かに聞き返した。「七年ですか」
「そうです。その間に決着はつけなければいけません」
「場所を移動します。ついてきなさい」イクシリネスが歩き始めた。
ローナはその後をついていった。二人の足音だけが、白い神殿の床に吸い込まれていく。柱の間を抜けると広大な空間が広がっていた。広く大地のような場所で小さな川が流れ空気が湿っていて、外の世界の森に似た何かがそこにあった。
「あなたにはここで修行をしてもらいます」イクシリネスが言った。
「私が、あなたに与える物は一つは知識。そして魔法の理論、弱体化術式の組み方、戦術、魔族の弱点、世界の歴史。それらを私があなたに授けましょう」
「どのようにそれを授けて下さるのですか?」
「この異空間では知識の転写が可能です。眠る度に、私はあなたの魂に情報を刻みます。目が覚めた時には、あなたの中に新しい知識が積み重なることでしょう」
ローナはイクシリネスの話を真剣に聞いていた。
「もう一つは能力です。知識だけでは戦えません。あなたの身体に、戦うための力を育てる訓練をここで行います。魔法の発動、弱体化魔法、攻撃魔法、身体強化、結界術。あらゆる分野をあなたに教え込みます。あなたは元々魔力を扱う素質を持っている。正しく育てれば、必ず開花はします」
「ですが私は、今まで魔法が使えませんでした」
「使い方を知らなかっただけですね」イクシリネスはローナを振り返った。「水は存在します。しかし器がなければ形をなしません。あなたの魔力は、常にそこにあった。ただ、発動の形を知らなかっただけです。私がその器の作り方を教えましょう」
ローナは川のほとりに立って流れる水を見た。澄んでいて底まで見える。ふとユウルの顔が浮かんだ。
「はい、分かりました。修行をお願いします、イクシリネス様」ローナは覚悟を決めた。
その夜、この異空間は時間というものがないのに朝と夜という光景があることにローナは不思議な感じがした。ローナは川のほとりに一人で座っていた。
頭の上に広がるのは、星空のような光の粒だった。本物の星ではないかもしれないが、それに似た何かが無数に浮かんでいて水面に映っている。ローナは膝を抱えて、その光を見ていた。
外の世界では、今ユウルはどうしているのか。考えるほど、胸が痛くなった。外に出られたとしてもユウルには正体を隠して動かなければならない。再会しても他人として振る舞わなければならない。それが分かっていても早くユウルに会いたかった。声を聞きたかった。無事だと知らせたかった。
「苦しいですか」
イクシリネスの声がした。いつの間にか隣に座っていた。
「……はい」
イクシリネスはしばらく水面を見ていた。
「修行を終えない限りは外に出ることはかないません。あなたは勇者のためにも強くならなくてはいけません」
ローナは唇を噛んだ。
「明日から訓練を始めます」
「はい」
「そろそろ眠りなさい」
「はい、おやすみなさい。イクシリネス様」
イクシリネスは白い光の中に消えていった。
ローナは一人になった。川の音が静かに流れていた。異空間の星が頭上でゆっくりと動いている。外の世界とは切り離された場所でローナは一人でいた。怖いと思った。いつまでここで過ごすのかと思った。ユウルに会えない間は声も聞けない。触れることもできない。
だけど――。
力をつけ、この手で魔王を弱体化させることが今ローナに出来ることだった。ここでの修行が終わったら帰れる。いつかはユウルのところへ帰れる。ローナは目を閉じた。
ユウルの顔を記憶の中で辿った。「……待ってて、ユウル」
川が流れる音だけが答えた。ローナはゆっくりと横になり異空間の夜の中で目を閉じた。




