04. 捜索
最初に動いたのはユウルだった。崖の縁から後ろに引いたかと思うとそのまま崖の脇を見渡した。
「ユウル?」とセクトが戸惑いながら呼んだ。
「迂回路があるはずだ!崖を降りる!」
セクトも動いた。「俺も行く!」
「私達も行きます」マルセルが言いカルナが頷いた。
マルセルが地図を広げて「崖の西側、少し歩いた場所に緩やかな下降路があります。川沿いに降りられるはずです」
「案内しろ」
「はい」
崖の下へ降りる道は険しかった。
マルセルが示した西側の迂回路は確かに存在したが整備されたものではなく、獣道に近かった。岩がゴロゴロとしていて一歩踏み間違えれば足首をひねる。木の枝が顔に当たり、地面が湿っていて滑りやすい。それでも全員が無言で降りた。
下降に一時間近くかかった。崖の下に着いた時、まず感じたのは音だった。川の音と水が岩にぶつかる激しい音が低いところに響いていた。
次に感じたのは匂いだった。土と水とそして何か生臭いものが混じった匂い。霧が濃く、視界が三メートルも効かない。
「ローナ!」ユウルが叫んだ。
声が岩壁に反響して返ってきた。返事はなかった。
「ローナ!!」また呼んだ。ユウルは走り始めた。
探せばいる。絶対にいる。
川沿いを数百メートルほど走ったところでユウルは止まった。地面に何かがあり、しゃがんで手で触れた。それは髪留めだった。ローナが髪に付けていたものだ。
「ここだ」とユウルは言った。
セクトが駆け寄り、マルセルとカルナも来た。
「これは……」
「ローナの髪留めだ」
髪留めは岩の鋭い部分に引っかかっていた。落ちてくる途中か着地した時に引っかかったものだろう。
ユウルは周囲を見渡したが霧で視界が悪い。勇者一行は四方向に分かれて、その周辺を探した。川の中……岩の陰……茂みの奥……霧の向こう……数時間探した。しかし髪留め以外は何も見つからなかった。
傷がついた岩があった。落下の衝撃によるものと思われる跡が複数の岩に残っていた。しかしローナの姿は、どこにもなかった。
セクトが川の中まで入って探した。冷たい水が膝まで浸かったが構わなかった。川下まで歩いたが何も見つからなかった。
カルナは茂みを一つ一つかき分けた。回復魔法を準備しながら、いつでも使えるようにした。だが、使う対象が見つからなかった。
ユウルは霧の中を歩き続けながら名前を呼んだ。「ローナ!返事をしてくれ、ローナ!」
日が傾いてきた。夕暮れの色が霧をわずかに染めていた。
マルセルが言った。「……魔物の気配があります」
全員が止まった。
「どうやら明るい内は奥に引っ込んでいたみたいですね。既に複数の気配が周辺にあります」
「……それは」とカルナが言いかけて止まった。誰も続きを言わなかった。言えなかった。
魔物ということは、何を意味するのか。崖から落ちた人間が意識を失っていただけだとしたら。あるいは、既に息がなかったとしたらどうなるのか。その場所で何が起きるか。答えを誰も言葉にしなかった。したくなかった。
しかしその答えは全員の頭の中にあった。急いで全員でまた崖の麓を探した。周囲に出始めた魔物は残滅していき、捜索を急いだ。
探している道中に魔物が通ったらしく、地面に足跡が残っていた。大きな爪の跡や引きずった跡など、そういったものがあちこちについていた。
マルセルが静かに言った。「……複数の大型魔物がこの辺りを歩き回った跡です」
ユウルは更に広い範囲を探した。川の下流まで行き、川の中を歩いた。対岸まで渡って、そちら側も探した。しかし何も見つからなかった。
「広域生命感知魔法を使いますが、よろしいでしょうか?」とマルセルは言った。「ですが、これを使うと魔力がほとんどなくなります。なので魔物が現れても、私は戦力外になります」
「頼む!ローナを一刻でも早く見つけたい!」ユウルは必死だった。
セクトとカルナも頷いた。
マルセルは人間の生命感知を最大まで展開した。人間の生命の気配を探した。しかし自分たち以外何も感じなかった。
「……ユウル、すみません。私達以外の人間の生命反応はありません」
ユウルは立ち止まった。
「確かか……」
「完全にゼロです……」
完全にゼロという言葉の意味を全員が知っていた。人間は、生きていれば必ず生命の反応がある。意識を失っていても、息がかすかでも、生きていれば必ず反応がある。それが、自分達以外ない。
セクトが地面に膝をつき、両手が土を掴んだ。
「……見つからない。遺体さえも何も……」
「もしかして……魔物に」とカルナが言いかけ、声が詰まった。
「言うな!」とユウルが言った。
「でも、ユウルさん!」
「言わなくていい!」
「……」
「俺が一番分かってる、言わなくていい!」ユウルは川を見ていた。水が透明に流れていた。
「……もう一度だけ、範囲を広げて探す」
「ユウルさん」
「もう一度だけだ」
「……分かりました」
もう一度、範囲を広げて探した。川の下流数キロ以上を歩き、対岸の茂みを全部かき分けた。岩の陰を全部確認した。しかし、何もなかった。
夕方になり、全員が崖の麓の岩に腰を下ろした。川の音が単調に聞こえた。ユウルは川を見たまま動かなかった。
セクトが言った。「……もうこれ以上は……」
「まだ探す」
「ユウル」
「……」
セクトは何も言えなかった。
マルセルが静かに言った。「……魔物が徘徊する今、遺体が見つからないということは……」
ユウルはもう何も言わなかった。
セクトが前に立った。「ユウル」
二人が向かい合った。
「俺だってもっと探したい。だけど……」セクトの目から涙が落ちた。
「俺達が今ここで消耗してもローナは喜ばないぞ!ローナは、俺達に魔王を倒してほしいと願っている。それを無駄にしたらローナが報われない!」
「……」
「ユウル、頼む。引き上げよう!」
「……まだ見つかっていない」
「ローナはもういない!」
その言葉が刃のように突き刺さった。ユウルの身体はわずかに揺れたが、動けなかった。
セクトは続けた。「ローナは、魔王を倒してほしかったんだ。その気持ちに応えてくれ!」
長い沈黙があった。
ユウルはゆっくりとその場に膝をついた。
地面に肘をついた。
「あああぁぁぁっーーーーー!」ユウルの絶叫だけが辺りに響き渡った。
こんなユウルは誰も見たことがなかった。誰も何も言えなかった。
どれくらい経っただろうか。どのくらいそうしていたか分からなかった。ただ誰も何も言えないままでいた。
ユウルがゆっくりと顔を上げた。目が赤かった。しかし、もう涙は見えなかった。
ユウルは立ち上がった。「……引き上げる」と言った声が変わっていた。さっきまでとは、何かが違っていた。感情の熱が消えていた。代わりに何か冷たいものが、その声の底に宿っていた。
「……ああ」セクトは断腸の思いでユウルの後に続いた。
「……はい」カルナは悲嘆な顔をしていた。
「……そうですね」マルセルは深い息を吐いた。
最後にローナがいたであろう場所を一度だけ見た。
廃屋に戻ったその夜、誰も眠れなかった。カルナが夕食を作ったが、誰も食べなかった。それでも温かいものが目の前にあることが、かろうじて現実を引き止めてくれた。
セクトがぼんやりと月の光を見ていた。「……俺、最低だな」誰に言うともなく呟いた。「俺が言ったから、ローナを追い詰めた」
「セクト」とカルナが言った。
「俺が言わなければ、あんなことには……」
「それは」
「俺のせいだ」
「違うよ」カルナはセクトを見た。
「ローナさんは、誰かに言われたからじゃない。自分で選択したのよ」
セクトは黙った。もしそれが事実だとしても楽になれなかった。
マルセルが静かに言った。「……後悔は、誰にでもあります。ですが前に進むしかありません」
セクトは膝を抱えて、声を殺して泣いた。
カルナも泣いた。
マルセルは泣かなかったが、その顔が老けたように見えた。
ユウルだけはずっと何かを見ていた。何も言わず、何も食べなかった。動くこともなかった。
深夜、やっと全員が眠った後もユウルは起きていた。廃屋の扉を開けて外に出た。星が出ていた。ローナはよく星を見ていた。ニルハ村の石段で肩に頭を預けて、二人で同じ空を見ていた。あの時、ローナが「きれいだね」と言って、ユウルが「そうだな」と答えた。他愛のない会話だった。
ユウルは空を見上げた。ローナと心の中で呼んでみた。返事はなかった。当たり前だ。でも、どこかから声が聞こえるような気がして耳を澄ませた。
風の音だけする場所で、しばらくそうしていた。胸の奥で何かが凍りついていく感覚があった。
空が少しずつ白んできた頃、ユウルはまだ外に立っていた。東の空に橙色が滲み始めた。ローナが好きな朝の色だった。ローナは、朝にいつも空を見ていた。「今日も天気がいいね」と言っていた。それがどんなに当たり前の言葉でもユウルにとっては大切なものだった。もう、聞けない。その事実が、ゆっくりとユウルの中に染み込んでいった。拒否しようとしていた。受け入れたくなかった。それでも、染み込んでくるものを止める方法がなかった。
ローナは死んだ。遺体は見つからなかった。胸が締め付けられるように苦しかった。魔王を倒せなければ、ローナが選択したことが全部無駄になる。ローナは平和になることを望んでいると言っていた。それがローナの願いだった。だとすれば俺が、やらなければならない。それ以外に俺がローナに報いる方法はない。
扉が開いてセクトが出てきた。眠れていなかったのだろうか、目が赤かった。
「……ユウル」
「セクトか」
「一晩中、外にいたのか」
「ああ」
セクトはユウルの横に立ち、二人で東の空を見た。しばらく沈黙が続いた。
「……俺、夢を見た」とセクトが言った。
「どんな夢だ?」
「ローナがシチューを作ってる夢。俺が四杯おかわりしようとして、怒られる夢。くだらない夢だろ」
「……そうか」
「目が覚めたら、また泣いてた。情けないだろ」セクトの目から、また涙が落ちた。「……格好悪いな、俺。一番辛いのはユウルなのに……ごめん」セクトは手の甲で目を拭った。
「皆で魔王は必ず倒そう」セクトの目には強い意志があった。
「ああ、絶対だ」
全員が廃屋の外に集まった頃、日が完全に昇っていた。カルナが粥を作り、今日は全員が食べた。量は少なかったが食べた。生きているなら食べなければならない。
粥を食べ終わり、マルセルがユウルに顔を向けて「王宮から通信が入りました。魔族と思われる襲撃があったそうです」
「わかった。行こう」ユウルは立ち上がった。その目に温かさもなく、穏やかさもなかった。代わりに緑の瞳の奥に刃のような鋭い眼差しが宿っていた。
仲間達が立ち上がった。全員が前を向き、廃屋の扉が開いた。朝の光が差し込み勇者一行の足が前へ踏み出した。
それから、ユウルは変わった。廃屋を離れた日から、別人のように変わっていた。笑うこともなくなり、仲間と雑談をしなくなった。食事は最低限しか口にしなかった。就寝は短く、起床は誰より早かった。戦闘では感情がなく効率だけを追って動いた。
セクトが話しかけると最低限の言葉で返ってきた。カルナが心配すると問題ないと言った。マルセルが議論を持ちかけると必要な情報だけを交わした。
冷徹という言葉が、その頃のユウルに一番似合うようになっていた。
無駄な感情を排除した分、判断が速かった。迷いがない分、行動が早かった。私情がない分、戦略が正確だった。
それがなぜか哀しかった。セクトは何度か夜中に一人で泣いた。こんなユウルを見るのが哀しかった。ローナを失い、それでも立ち上がって前を向いている。
ある日、ユウルはまた最初に起きた。空が白む前に剣の手入れをして地図を確認し、次の行程を頭に入れた。
東の空が橙色に染まり始めた頃、仲間たちが起きてきた。
ユウルが先頭に立った。「行くぞ」
「ああ」
「はい」
「ええ、行きましょう」
四人が、前へ歩き出した。冷たく澄んだ朝の空気の中をローナの望んだ世界へ向かって歩きだす。一歩、また一歩と止まらずに前へ。




