02. 引き裂かれた日常
その日の朝は、何もかもが普通だった。
朝靄のかかったニルハ村に鶏の鳴く声が響いた。ローナは、いつもより少し早く目を覚ました。顔を洗い、エプロンをつけて師匠の薬房へと向かった。今日は月に一度の薬草の仕分け作業があって、朝のうちから取りかからなければ終わらない。
師匠のもとへ向かう際中、朝市の準備をしている村人たちと挨拶を交わした。
「ローナちゃん、今日も早いね!」
「師匠に鍛えられてますからね」
「若いのに偉いねぇ」
笑い声が朝の空気に溶けた。ローナは小さく手を振りながら歩いた。
空は高く晴れ渡っていて雲一つない。風も穏やかで木の葉がさわさわと揺れている。どこからか焼きたてのパンの匂いがしてきて、ローナの胃が小さく鳴った。
何もかもが普通の朝だった。だから、ローナには分からなかった。
村の外れの薬房へと続く石畳の路地に差しかかった時、背後に誰かの気配があることに気づいた。振り返ったが、誰もいない。路地の影が朝の光の中で揺れているだけだ。
気のせいかとローナは前を向いた。
その時だった。
突然、世界が黒に塗り潰された。
声を出す間もなかった。何かが全身に絡みついて光が消えて、次に意識が戻った時にはローナは冷たい石の床の上に倒れていた。
目を開けると天井が高く、壁は黒い石でできていた。どこかの地下室のような場所で窓はなく、壁に埋め込まれた魔石の青白い光だけが空間を照らしている。鉄格子のはまった扉の向こうに廊下が続いていて、遠くから足音が聞こえる。
ローナは起き上がろうとして、手首に何かが絡まっているのに気づいた。黒い鎖だった。魔法的な何かが宿っているのか触れると皮膚がわずかに痺れた。立ち上がろうとすると鎖が引っ張られて動ける範囲が制限されている。
「ここは……どこなの?」呟いた声が石の壁に吸い込まれて消えた。
ローナは唇を噛んだ。怖くてしかたなかったが、状況を把握しなければと考える。路地を歩いている時に後ろに誰かいて、それから何かが――。
「目が覚めたか」
扉の向こうから声がした。
扉を開けて入ってきたのは、人の形をした何かだった。
背は高く、全身を黒い甲冑で包んでいる。その甲冑の隙間から赤黒い靄のようなものが溢れて出ていて、普通の人間にはあり得ない。顔の上半分を覆う兜の奥で、二つの瞳だけが深紅色に光っていた。
魔族だとローナは直感した。その気配の重さがローナの知っているどんな存在とも違っていた。
「魔王様がお待ちだ」
低い声で感情のない声だった。
「……どういうことなの……私はどうしてここに連れて来られたの?」
「お前が無限魔力の持ち主だからだ」と魔族が言った。
ローナは息を呑んだ。師匠の言葉が頭の中で蘇った。
――無限魔力。目立つんじゃないよ。――
「魔王様はずっと待っておられた。その器が、どこにいるかを。だがようやく見つけた」
男は無感情に言って、ローナの腕の鎖を掴んだ。
「来い、女」
連れていかれた部屋は、広い場所だった。
玉座のような椅子が置かれた広間で、その椅子に座っているのはローナが想像していた魔王とは、少し違った。まだ若いといえるような、人間で言えば二十代半ばに見える。黒に金の刺繍が施された長衣を纏い、美しい銀色の髪を腰まで流している。顔立ちは、とても整っていて、どこか神秘的な感じがある。しかし、その紫色の瞳には底冷えするような氷のようだった。
それが、魔王バルドリッセ・ガルドルだった。
「来たか」
魔王は立ち上がりもせず、興味深げにローナを見た。品定めをするような視線だった。ローナは全身の肌が粟立つのを感じた。
「そんなに怖がらなくとも殺しはしない」
「……何がしたいのよ」ローナは震える声で言った。
魔王は冷ややかな笑みでローナを見た。「お前の中にあるもの我がものとする」
「無限魔力をということ?」
「ああ、そうだ。お前の魔力は、この地にある魔力を自然に集めて枯渇しない。我はそれを、我だけが吸収できるように魔術で施させてもらう。そうすれば、我の力は永遠に補われ続けることができる」
その言葉の意味を理解した瞬間、ローナの背筋に冷たいものが走った。
「なによそれっ、嫌よ!!」
「嫌と言える状況ではないだろう」
魔王が指を一本立てるとローナの周囲に黒い靄が立ち込めた。それは直接身体に触れているわけではないのに、息が苦しくなるような重さがある。
「抵抗すれば苦しいぞ。大人しくすれば苦しくはない。どちらか選ぶんだな」
ローナは歯を食いしばった。逃げる方法が分からない。呼べる人もいない。ユウルは今、どこにいるのか。
ユウル――。
心の中でそう呟きながら、ローナは目を閉じた。
魔王がローナに施す魔術それは禁術であり、丸一日をかけて行われた。それはローナの意識を奪った状態で施されたため、ローナ自身には何をされたかの詳細な記憶がない。ただ、眠りの中で何かが身体の奥底を引っかき回されるような不快感が続いていた。
禁術を終えた後、ローナは元の牢に戻された。
身体的な傷はなかった。だが、何かが変わっていた。身体の芯のあたりが何かに繋がれたような、そんな感覚があった。それが魔王への接続なのだと後になって分かる。牢の中でローナは膝を抱えて、ユウルのことを考えていた。
一方、ニルハ村では――。
ローナが人間ではない者に連れていかれるところを見た村人は、村長に報告をした。それからすぐに、ユウルたちのもとにその知らせが届いた。
通信石を経由して届いた緊急の伝言を受け取った瞬間、ユウルの顔から全ての表情が消えた。
「ユウル……」とセクトが声をかけた。
「転移石でニルハ村に戻り状況を確認してから痕跡を辿る!」とユウルが言った。
「分かりました」とマルセルが言った。四人が顔を見合わせながら頷いた。
四人が急いで支度をし大型転移石がある場所へと向かった。大型転移石の前に着くと行き先を指定した小型の転移石を当てると石が光った。次の瞬間、ニルハ村の外れにある転送地点に四人が現れた。
夜明け前の村は静かだった。しかし、その静けさは平和な静けさではなかった。どこか息を潜めているような重さがあった。
村長が待っていた。眠れなかったのか、顔が青ざめていた。
「勇者殿、お待ちしていました!」
「状況を説明してくれ!」
村長から話を聞いた後、ユウルは仲間と共にをローナが消えた路地へ向かった。朝の光が差し込み始めた路地に、かすかな痕跡が残っていた。マルセルが地面を調べた。
「魔族の残留があります。魔族の魔力が二つですね」
「方角は分かるか?」
「魔力の尾が残っているので、これなら追えます。これは北東ですね」
北東……ユウルは地図を頭の中で展開した。北東方向には以前から気になっていた場所があった。魔力反応が強く、近づくと空気が重くなる一帯だ。
「すぐに動く!」ユウルは歩き始めた。仲間がその後を追い全員が走り始めた。
村を抜けて街道を出て、北東へ向かった。
森に入り、駆け抜けていると魔族が三体現れた。下級魔族だ。身体が人間より一回り大きく、緑色の皮膚に黄色い目をしている。手には粗末な武器を持っている。
「セクト、前を取れ!」
「ああ!」セクトが大剣を抜きながら走った。
先頭の魔族が気づいて武器を構えた。しかしセクトはそれより速かった。大剣を一振りし、先頭の魔族の武器を弾き飛ばした。続く横薙ぎが胴体を切り裂いた。まず一体目。
二体目がセクトに向かったが、ユウルが横から斬り込んだ。剣に魔力を乗せた一撃が魔族の鎧を貫いた。
三体目がマルセルに向かった。マルセルが手の平に魔法陣を展開して、炎の弾を四発放った。直撃した魔族がよろめいたところに後方からカルナが拘束の魔法をかけ、ユウルが止めを刺した。
「先へ進む!」ユウルは剣の血を払いながら、また走り始めた。立ち止まらずに走り続けた。
森を駆け抜けていると地形が変わった。木々が密集していて視界が狭く、足元に根が張り出していて走りにくい。
「このまま北東です。ですが……」
「どうした?」
「気配が増えています。この先に魔族と魔物がいます」
「数は?」
「魔族が一体と魔物が三十程度といったところです。ただし、分散しています。哨戒しているようですね」
「ならば全て残滅する!」
勇者一行は森の中を進んだ。森を進んでいると魔族と魔物がこちらを待ち受けていたかのようだった。
「真正面から行く!」と言いながら、ユウルが走り出した。
魔族が反応した。魔族が雄叫びをあげると魔物達が襲い掛かってきた。しかしユウルは素早い速度で接近した。魔族が武器を構えるより先に、ユウルの剣が弧を描いた。魔力を乗せた一撃が魔族の腕を切り裂いた。
均衡が崩れた瞬間に全員が動いた。セクトが魔物達に突っ込んだ。一体を大剣で真っ二つに切り、次々と切り倒していった。
マルセルが残りの魔物を炎の魔法で燃やしつくしていった。
カルナが全員に補助魔法をかけながら、後方から状況を見ていた。
そして最後に残った魔族を全員で集中攻撃をし倒した。
「先を急ぐ!」
北東の森の奥深く、黒い岩山に囲まれた一帯があった。
そこは、要塞のようで入口は岩壁の隙間に偽装がされており、普通の人間には見つけられない。だが、マルセルの魔力感知はその隙間から漏れ出る黒い気配を正確に追跡した。
「入口はここです。中には今までとは桁違いの魔族と魔物もいます」岩陰に隠れながら、マルセルが小声で言った。
ユウルが剣の柄を握り直した。「俺とセクトで前に出る。カルナは後方で回復待機。マルセルは援護してくれ」
三人は頷いた。
ローナ、待ってろ。
ユウルの瞳にはもう、普段の穏やかな緑ではなかった。何か固いものが、その奥に宿っていた。
突入してからの戦闘は、苛烈だった。
廊下に出てきた魔物の群れに、ユウルが真っ先に斬り込んだ。剣と魔法を組み合わせた戦い方で、次々と魔物を切り倒していく。セクトが横に並んで大剣を振るい、マルセルが後ろから火魔法で援護する。カルナが傷を癒しながら前進する。
それでも魔物の群れを抜けた先に、本物の強敵がいた。
「勇者よ、よく来たな。我は魔王様の幹部の一人、ザッハネル・ドルビト」低い声が辺りに響いた。
その魔族は三メートルを超える巨体に、重々しい鎧。両手に大型の戦斧を持ち、顔の半分は兜で覆われている。漂ってくるその圧だけで空気が歪むような存在感があった。
「ローナを返せ!」ユウルが剣を構えた。
ザッハネルはしばらくユウルを見てから、ゆっくりと笑った。
「ははっ!あの女のことか。だがもう遅い、魔王様の禁術は成功した。あの女の身体は、魔王様専用の魔力炉になった。あの女の無限魔力おかげで、魔王様は私達幹部にも更なる力を与えてくださった」
その言葉を聞いた瞬間、ユウルの目の色が変わった。怒りを超えた何かが、その瞳の奥で燃え上がった。
ザッハネルが踏み込んだ。その一歩が廊下を揺らした。ザッハネルの体重と魔力が合わさった踏み込みは、地震のような振動を生んだ。
ユウルが前に出た。剣を構えながら、ザッハネルの動きを読んだ。見た目より遥かに速い速度で右の戦斧が来る。ユウルは横に跳び、戦斧が床を叩いた。石の床が砕けた。
「速いな」とザッハネルが言った。「勇者と呼ばれるだけのことはある」続けて左の戦斧が来た。
ユウルは後退しながら、剣でそれを受けとめようとした。しかし、戦斧の重量が違いすぎた。受けた瞬間に腕に衝撃が走り、ユウルが数メートルほど吹き飛ばされた。
「ユウル!」とセクトが叫んだ。
「来るな!」とユウルが叫んだ。「俺が引き付ける。お前たちは側面に回れ!」
セクトが歯を食いしばって、左側に回り込んだ。
マルセルが廊下の入り口付近から魔法を放った。炎の弾がザッハネルの背中に当たった。
ザッハネルは振り返らなかった。「小童どもめが!」右手を後ろに向けて、黒い魔力の弾を放った。
マルセルが結界を展開したが間に合わなかった。結界が半分崩れて、マルセルが後退した。
「マルセルさん!」とカルナが駆け寄った。
「大丈夫です」とマルセルが言った。「ただ……思ったより出力が高いですね」
セクトがザッハネルの側面に回り込んで大剣を振った。ザッハネルの鎧に当たり、金属音がした。しかし、鎧には傷がつかなかった。
「なっ、うそだろ!?、どういうことだ!」とセクトが言った。
「魔王から強化を受けているからではないでしょうか」とマルセルが後方で言った。「あの鎧は魔力で強化されているようです。通常の物理攻撃が通らないのでしょう」
「じゃあどうするんだ?!」
「魔力を乗せた攻撃が必要です。私が二人の攻撃に魔力を乗せます」
「分かった!」とセクトが言った。
ユウルは間合いをとりながら「気をつけろ!あの戦斧の攻撃範囲は広い。正面から行くな!」
「ああ!」
ユウルがザッハネルの意識を引き付けるとザッハネルの右の戦斧が来た。ユウルは躱しながら剣に魔力を集中させ、隙をつきザッハネルへ切りかかった。剣が鎧に当たった。
ザッハネルが「むっ」と言った。「ほぅ、やるではないか」
しかし、致命的なダメージにはなっていなかった。
セクトがザッハネルの背後に回り込み大剣を突き込んだ。ザッハネルからは赤黒い血のようなものが滲んだ。
「ぐっ?!」ザッハネルが初めて呻き声を上げた。
「傷ついたぞ!」とセクトが叫んだ。
「そのいきです!」とマルセルが叫んだ。
「だが!」ザッハネルが後方に肘を突き出した。
セクトの胸に直撃した。セクトが吹き飛ばされ、廊下の壁に叩きつけられた。
「セクト!」とカルナが叫んだ。「大丈夫だ……」とセクトがかすれた声で言った。「肋骨が……いくつかいった、かもしれない」
「動かないで!」カルナが駆け寄って回復魔法をかけた。
追撃していたユウルはザッハネルが大きく戦斧を振り下ろした瞬間、斜め前方に踏み込んで懐に入り込み、剣に魔力を集中させた。マルセルの魔力も合わさり、これまでにない規模の魔法剣が刃に宿った。放った光の斬撃がザッハネルの鎧ごと胴体を切り裂いた。
「ぐあぁぁっ!」ザッハネルが声を上げた。体から大量の赤黒い液体が噴き出た。
「よし、効いた!」とマルセルが叫んだ。
ザッハネルは数歩後ずさった。その膝が初めて折れた。
「……くっ」
よろめきながら、しかし倒れる前にザッハネルは叫んだ。
「あの女の無限魔力があれば、魔王様は無敵だ!貴様らに魔王様は倒せんぞ。あの女の存在が、魔王様の力の源になるのだからな!」
ザッハネルの巨体が床に崩れ落ちた。それが最後の言葉だった。
そこには静寂が広がった。
奥の牢で、ローナは扉が開く音を聞いた。また魔族が来るのかと身構えた。だが飛び込んでくる足音は、聞き覚えのある音だった。
「ローナ!」
鉄格子の扉が力任せに引き開けられ、ユウルが中に飛び込んできた。
ローナは一瞬、信じられなかった。ユウルが、ここにいる。
「……ユウル」
「怪我はないか、どこか痛いか?立てるか?」
「立てる、でも鎖が――」
ユウルはローナの手首の黒い鎖を見た。すぐに剣に魔力を込めて、鎖を断ち切った。ぼろぼろと崩れていく黒い破片が床に散らばった。
解放され、ローナの身体の緊張が一気に溶けた。気づいたらユウルの胸に倒れ込んでいた。
ユウルは何も言わずに両腕でローナを強く痛いくらいに抱きしめた。
「よかった……」安堵の声でユウルが言った。
ローナはもう声が出なかった。ただ、ユウルの服を掴んだまま、しばらくそのままでいた。涙が出た。ずっと怖かった。声を殺して泣くローナの背中をユウルはずっと黙って撫でていた。
全員が合流した場所で、問題が起きた。
牢から出てきたローナを見て、セクトとカルナとマルセルが安堵の顔をした。無事でよかったという空気が流れた。
しかし――。
ザッハネルが死の間際に叫んだ言葉が、その場の全員の頭の中に残っていた。
―あの女の無限魔力があれば、魔王様は無敵だ!貴様らに魔王様は倒せんぞ。あの女の存在が、魔王様の力の源になるのだからな!―
誰も口にしなかった。だが、誰もが考えていた。帰り道は、無言で重たい空気の中を進んだ。ローナはそれを感じていた。
ユウルの隣を歩きながら、仲間たちの視線が自分に向けられているのを感じていた。それは温かいものではなかった。
警戒という言葉が頭に浮かんで、ローナは胸の中でそれを打ち消そうとした。だが、消えてはくれなかった。
安全な場所まで退避し、野営地に着いた夜。
セクトが、口を開いた。「……話し合う必要があるよな」
焚き火を囲んで、五人が座っていた。セクトの声は静かで、いつもの明るさがなかった。
「あの時のザッハネルの言葉だ。ローナの無限魔力が、魔王に力を与え続けているということなら――」
「セクト」ユウルが制した。とても冷たい声だった。
「それを言うなと言っているわけじゃない。でも、今は疲れている。今夜は休め」
「だけど……考えなきゃいけないことだろ」
「明日でいいだろ」
重たい空気が流れた。セクトは口を閉じた。カルナとマルセルは視線を落とした。
ローナは焚き火の炎を見つめたまま、何も言わなかった。ユウルがローナの隣に座って、その手をそっと握った。ローナは握り返した。
仲間達の目が、まだそこにある気がした。ローナは笑おうとした。「大丈夫だよ」と言おうとした。でも言葉が出なかった。
焚き火の音だけが、夜の森に響いていた。




