01. いつもの日常
※転載、翻訳禁止です。
いつも通りの朝がやってくる。
カーテンの隙間から射し込む光が、ローナの閉じた瞼をそっと当てていた。
まだ夢の続きにいたかったのにと思いながらも、身体はもう現実に引き寄せられていた。
薄く目を開けると見慣れた天井だった。
小さな家の天井が視界に広がる。
ここはニルハ村にある、ローナが一人で暮らす小さな家だ。
両親は幼い頃に事故で亡くなっている。
三間しかない狭い家だが、窓辺にはローナ自身が育てたハーブが所狭しと並んでいて、朝になるとラベンダーと土の匂いが混ざり合う。
それがローナの好きな匂いだった。
「……んっ、もう少し……」
呟いて目を閉じようとした、その時。
がたん、と窓の外で大きな音がした。
続いて聞き慣れた声が聞こえた。
「ローナ! 起きてるか? マルセルが市場で焼きたてのパンを買ってきたぞ!」
ローナは枕に顔を押しつけて、暫くそのまま動かずにいた。
昨日は珍しく夜遅くまで、薬草の調合をしていたからかまだ身体がだるい。
ゆっくりと身を起こした。
寝癖のついた淡い金色の髪が頬にかかる。
「……セクトくん、朝から元気過ぎるでしょ」
ローナは目を擦りながら言った。
窓を開けると、外には三人の人物が立っていた。
一人目は、がっしりとした体格の青年セクト。
十七歳。
榛色の瞳で赤髪を短く刈り上げ、常に外で動き回っていることが多いせいか日焼けした肌をしている。
その腰には大きな剣が下がっている。
魔王討伐を目指す「勇者ユウルの仲間」の一人で、戦士でもある。
声が大きく行動が早く、考えるより先に動くタイプだ。
二人目は、同じく「勇者ユウルの仲間」の一人で、淡黄の瞳に翡翠色の長い髪をしていて淡い水色の長衣を纏った女性カルナ。
十七歳。
回復魔法を主とする回復士で補助魔法も扱える、セクトとは幼馴染だという。
細い身体に似合わず、意志の強い眼をしている。
ローナより背が低く、可愛らしい顔立ちをしている。
よくセクトの暴走を諌める役目を担っていた。
三人目は、同じく「勇者ユウルの仲間」の一人で、二人の後ろで苦笑いを浮かべている空色の瞳に薄藍の髪の青年マルセル。
十八歳。
魔法士をしている。
眼鏡をかけた知的な顔立ちで、どこか飄々としたところがある。
少し時間があると魔法についての論文をよく読んでいる。
手には、包み紙の上から温もりが伝わってくる焼きたてのパンがあった。
「ローナさん、おはようございます。すみません、急にセクトが走り出しちゃったんですよ」
マルセルが苦笑いしながら頭を下げる。
「いいよいいよ。どうせ起きなきゃだったからね」
ローナは笑って答える。
ローナは欠伸を口で抑えながら窓枠に肘をついた。
朝の光の中で見るセクト達はどこか眩しさを感じ、ローナは思わず目を細めて見ていた。
「ユウルは?」
その名前を口にした時、ローナの声色が変わっていたことを三人とも気づいていた。
セクトが口の端をにやつかせる。
「昨日、王宮への報告書を遅くまで書いていたらしくてまだ宿で寝てるぞ」
「……そっか」
ローナは少し間を置いてから「じゃあ着替えてくる」と言って窓を閉めた。
ニルハ村は、王都から南に下った場所にある小さな村だ。
人口は少ないが、周辺の森からとれる薬草や豊かな水源による農業で自給自足ができている。
魔族と魔物の脅威が各地に広がるこの世界において、ここはまだ比較的安全な場所だった。
勇者ユウル達がこの村を拠点にしているのには理由がある。
王国から魔王討伐を命じられた勇者一行は、各地を転々としながら魔族と魔物を倒し魔王側の情報を集めている。
村にある大型転移石を使って定期的に王宮への報告は行われるが、移動の合間の休息地として、このニルハ村はちょうどよかった。
それに、ここにはローナがいた。
ローナは勇者ユウルの恋人だ。
ローナは、ただの一般人で魔法も剣も使えない。
十八歳。
ニルハ村の薬師の弟子として働きながら村の人々に薬草茶を届けたり、子供たちに読み書きを教えたりしている。
どこにでもいるような村娘だ。
そうどこにでも、いるような。少なくともローナ自身はそう思っていた……。
着替えを終えて扉を開けると三人が家の前の石段に腰かけてパンを齧りながら待っていた。
ローナも腰を下ろして、マルセルから差し出されたパンを受け取る。
「ありがとう。いくら?」
「いいですよ、僕のおごりです」
「いつも奢ってもらうのは申し訳ないよ」
マルセルは少し考えた。
「では今夜の夕飯を作ってくれたら帳消しにしますよ」
「そうね、それならいいわ」
セクトが「マルセルだけ、ずるいぞ! 俺も食べる!」と割り込み、カルナが「あなたは昨日、ローナさんのシチューのおかわりを三杯したでしょ!」と背中を叩いて窘める。
よくある朝の風景だった。
ローナはパンを一口食べながら、村の通りを眺めた。
朝市の準備をする商人達、井戸端で話す老人達、走り回る子供達がいる。
村の周囲は平和そうに見えた。
こんな日常が、ずっと続けばいいとローナは思っていた。
その日の昼過ぎ、ローナはニルハ村の薬師である老齢のバリナ婆さんのもとで仕事をしていた。
バリナ婆さんは背が曲がっていて、長い白髪を後ろに結った小柄な老女だが、薬草の知識は王都の薬師にも引けを取らないと評判で、遠くの村から薬を求めて訪ねてくる者もいる。
ローナが弟子入りして四年、今ではバリナ婆さんの代わりに調合の多くをローナが担っていた。
「ローナ、エレビレアの葉を乾燥庫から出しておいておくれ」
「はい、師匠」
薬草が並ぶ棚の中は、いつも複雑な匂いが充満している。
苦いもの、甘いもの、刺激的なものと色々な種類があった。
ローナはもうそれに慣れてしまい、むしろ安心するようになっていた。
棚の奥からエレビレアの束を取り出していると扉が開いた。
「お邪魔しまーす」
聞き慣れた声にローナは振り返る。
そこに立っていたのはユウルだった。
勇者ユウル、十九歳。
細身だが鍛え上げられた体つきで、肩まで届く柔らかそうな黒髪が陽光の中でわずかに茶色く見える。
緑色の瞳は、いつも穏やかな光を灯していた。
腰に剣を帯びているが、今は白い袖のシャツに簡素なズボンという格好で、よくいる田舎の青年のように見えた。
ユウルもローナと同じで幼い頃に両親を亡くしていた。
「やっと起きたの?」
と顔を近づけてローナが言うとユウルは照れ笑いをした。
「セクトに起こされた。昨日遅かったから、つい昼間まで寝てた」
「それで王宮への報告書は終わったの?」
「ああ。マルセルは報告書を書くのが早いけど俺は苦手だからな、時間がかかった。後で王宮に転移石を使って報告書は渡しに行くよ」
ユウルは棚の横の椅子を引いて腰を下ろし、ローナが薬草を整理するのを眺めた。
こうして何もせずにローナの仕事を見ているのが、ユウルはどうやら好きらしい。
最初は「手伝おうか」と言っていたが、ローナに「素人が触ると台無しになるわ」とあっさり断られてから、以来黙って眺めることにしているのだ。
「ローナとずっとこうしてたいな」
ユウルがぽつりと言った。
ローナは手の中のエレビレアを見つめたまま少しだけ頬を赤くした。
「早く魔王を倒してよ。そしたらずっといられるじゃない」
「そうだな」
ユウルは少し遠くを見るような目をしたあと、また穏やかに笑った。
「絶対に倒してみせるよ」
夕方になるとローナの家にユウルとその仲間が集まってくることが多かった。
ローナが台所に立ち、カルナが野菜を切る手伝いをする。
マルセルは食卓に陣取って論文を読んでいるが、ときどき何かのレシピについて的確な助言をするので実は役に立っている。
セクトは邪魔しかしない。
「セクト、あなたそのにんじん食べないでよ」
とカルナがセクトを睨みつけた。
「一本ぐらいいいだろ」
セクトは、にんじんに齧りついている。
「あなたさっきパンを食べたでしょうが! 第一なんで生でにんじん食べるのよ!」
「いいだろー、にんじんは生でもおいしいだろ!」
セクトはにんじんをカルナに向けて言った。
「よくない! つまみ食いはだめ!」
ユウルは窓辺の椅子に座って、セクトとカルナの言い合いをおかしそうに眺めていた。
ローナは鍋をかき混ぜながら「こら、喧嘩しないで!」と言うが、あまり怒っているようには聞こえない。
この五人で囲む夕食の場がローナは好きだった。
みんな剣や魔法を得意として、旅で色々なものを見てきていて、ローナとは違う世界を生きている。
それでも、こうして同じ食卓に座って、くだらないことで笑っている時間だけは、みんなが同じ場所にいる気がした。
「ねぇ」
ローナが鍋から目を離さずに言った。
「みんなは、魔王を倒したらどうするの?」
しん、と場が静まった。
セクトもにんじんを齧るのをやめた。
最初に口を開いたのはセクトだった。
「俺は……故郷に帰るかな。親父が農業やってるから、手伝いたいと思ってる。剣は合間でもできるしな」
意外なほど素直な答えだった。
カルナが少し驚いた顔でセクトを見る。
「私は、もっと回復魔法を学びたいです。今は戦いの傷を治したり補助することしかできないけど、本当は病気で苦しんでいる人を助けたくて……そういう医術師になりたいですね」
「僕は研究をしたいです。魔法の理論はまだ解明されていないことが多いですから興味があります」
とマルセルが論文から目を上げて言った。
「マルセルらしいわ」とローナが言うと、マルセルは眼鏡を押し上げて「そうでしょう」と笑った。
お前はどうするという顔で全員がローナを見た。
「私はここにいるよ。師匠の薬師を継いで、この村で暮らすわ」
それから、少しだけ間を置いて言った。
「……それに、ユウルとここで暮らしたいわ」
セクトがニヤニヤしだした。
セクトが「お熱いね~」と指を差し、カルナが「からかっちゃだめでしょ!」とセクトの背中を叩いた。
マルセルは口元を隠して笑みを浮かべている。
ユウルもローナをじっと見て、少し顔を逸らした。
照れながら嬉しそうな顔をして「そうだな」と言った。
その夜、食事が終わって仲間達が宿へ帰った後にローナとユウルは二人で家の前の石段に腰かけていた。
空には星が出ていた。
この村は王都と違って街灯が少ないので、夜になると空が広く見える。
ローナはそれが好きで、晴れた夜にはいつもこうして空を眺めた。
「次の出発はいつなの?」
「三日後だな」
とユウルが答えた。
「南の森に魔物の群れが出ているらしい。先に叩いておかないと村が危ない」
「そっか」
ローナは膝を抱えて星を見上げた。
三日後かと思う。
三日間だけここにいて、また行ってしまう。
それがユウルの役目だから仕方ないと分かっている。
「魔族や魔物と戦うのは怖くないの?」
不意にユウルに聞いた。
「……」
ユウルはしばらく黙っていた。
それから、ローナの肩にそっと手を置いた。
「そりゃ怖いさ」
「やっぱり、そうだよね……それでも戦ってくれてるんだよね」
「ああ……魔王を倒さない限りは平和が訪れないからな……」
ローナはユウルの顔を見た。
穏やかな緑の目が星明かりの中でじっとローナを見ていた。
「だけど、ローナがいるこの世界を守りたいのが一番だ」
ローナは唇を結んだ。
泣くつもりはなかったのに目の奥が少し熱くなった。
「……うん、ありがとう。ユウル」
二人の静かな声が夜の静寂に溶けた。
ローナはユウルの肩にそっと頭を預けた。
ユウルが何も言わずにそれを受け入れる。
しばらく二人は黙って同じ星を見ていた。
三日間は、あっという間に過ぎた。
一日目は、ローナがユウルを連れて村の中を歩き回った。
朝市で食材を買い、師匠への差し入れを作り、村外れの小川で足だけ浸かって遊んだ。
他愛のない話を延々としながら、日が暮れるまで歩いた。
二日目は、仲間達と全員で近くの花が綺麗に咲いている丘へ出かけた。
ローナとカルナが作ったサンドイッチをセクトが半分食べてしまい、またカルナに叱られていた。
マルセルは丘の上で風に吹かれながら眠ってしまったり、ローナがユウルに花の冠を作って無理矢理それを被せたりした。
ユウルが少し丘の下へ行っている時、セクトがローナに「ユウルのこと、しっかり頼みます!」と頭を下げて珍しく真剣な顔で言っていた。
ローナが「なんで私が頼まれるの?」と苦笑したが、セクトはそのまま「本当に頼みます!」と繰り返した。
カルナが小声でローナに耳打ちした。
「ユウルさんは、私たちの前では絶対に弱みを見せないんです。でもローナさんといる時だけ、本当の顔を見せているみたいですから……」
ローナはその言葉を胸にしまった。
「わかったわ」
ローナは答えた。
セクトは笑顔で頷いた。
三日目の出発の朝。
ローナは夜明け前に起きて、仲間たちの分の弁当を作った。
旅先で食べられるように、長持ちするパンと干し肉と果物の砂糖漬けを作った。
それをユウルの荷物にそっと入れておいた。
出発の時間、村の入り口でローナは四人を見送った。
セクトが「行ってくる!」と大声で叫び、カルナが「ローナさん、体に気をつけてください」と言い、マルセルが「また夕飯ご馳走になりに来ますね」と手を振った。
ユウルは最後だった。
他の三人が少し先に進んだのを確認してから、ユウルはローナの前に立った。
ローナの額に唇を触れさせた。
「待っていろよ」
それだけ言って、振り返らずに歩いて行った。
ローナは三人の背中が道の向こう側に消えるまで、その場に立って見送った。
手を振ることもせず、ただ見ていた。
ユウルたちが去ってから十日後のことだった。
ローナが薬房で調合をしていると師匠が珍しく奥から出てきて、ローナの手元をじっと見た。
「師匠? いきなりどうしたんですか?」
「……ローナ、お前は自分の魔力のことを知っているか?」
唐突な問いにローナは手を止めた。
「魔力ですか? 私は、魔法も使えませんし魔力は無いとおもいますよ」
師匠は首を振った。
「使えないのではない、使い方を知らないだけじゃ。それとな……」
師匠の皺だらけの顔に、珍しく困惑のような色が走った。
「お前さんの中にあるものは、普通の魔力ではないものがあるように思える。時より周りある魔力がお前さんに引き寄せられるように流れているように見えた。昔話としてあるんじゃが……周りの魔力を自然に取り込む、そういう体質の者が中にいたそうじゃ」
「昔話ですか?」
「あぁ、それは無限魔力と呼ばれておった」
その言葉の意味をローナは理解できなかった。
ただ、師匠の目の奥に恐れに似た何かがあることだけが、ローナの胸にひっかかった。
「それは、どういうことなんですか?」
「わからん。わからんが……」
師匠は窓の外を一瞥した。
村の平和な朝の風景がそこにある。
「気をつけなされ、ローナ。目立つんじゃないよ」
何に気をつければいいのか、ローナには分からなかった。
しかし、その言葉は不思議とローナの記憶の中に残り続けた。
ユウルが次に村に戻ってきたのは、それから三週間後だった。
南の森の魔物の群れを討伐することには成功したが予想以上に数が多く、その中に魔族もいて苦戦したという話だ。
ユウルの左腕に包帯が巻かれていて、ローナは顔色を変えてカルナに「回復魔法は?」と聞いた。
カルナが「今、回復する魔力がもう残っていなくて……」と申し訳なさそうに答える。
ローナはユウルを家に引っ張り込んで、自分で傷の手当てをした。
師匠に習った消毒の仕方と薬草を使った治癒の軟膏。
魔法は使えないが、こういう手当てだけはローナが一番丁寧だとカルナも認めていた。
「痛い?」
「……全然」
「嘘つかないの!」
「……結構痛い」
「正直でよろしい!」
お互いの顔を見合わせながら二人は笑い、包帯を巻くとユウルはそれを見ていた。
ローナは包帯の端を結んで、それからユウルの手首をそっと両手で包んだ。
「無茶しないでね」
ローナは低い声で言った。
「ユウルがいなくなったら、私……」
そこで言葉が止まり続きは言えなかった。
言ったら何か大切なものが崩れそうだった。
ユウルは包まれた手首を動かして、逆にローナの手を握り返した。
「いなくならないよ」
静かに、でも迷いなく言った。
「約束する」
ローナは頷き、その言葉を胸の奥に刻んだ。
その夜、ローナはベッドに入ってから長い間眠れなかった。
前に言っていた師匠の言葉が、頭の中でくり返し響いた。
無限魔力――。
意味が分からなかった。
自分には関係のない話のような気もした。
でも、師匠があんな顔をしたのは初めてで何かが少しだけ怖かった。
窓から差し込む月の光の中で、ローナは天井を見つめた。
隣の部屋ではユウルが眠っていて、すぐそこにいる。
今はユウルが一緒にいるから安心する。
明日もきっと、いつもの朝が来る。
セクトの大声が聞こえて、カルナが窘めて、マルセルが苦笑いをして、ユウルが穏やかに笑う。
ローナはそんな光景を見ている。
そんな朝が、ずっと続くはずだった。
ずっと続くと信じていた。
この日のローナには、まだ知る術がなかった。
この穏やかな日常が壊れることになるとは――。
私の他作品も読んでみて合わないと感じた場合や今後は希望されない場合、ミュート設定をご利用ください。
【追記情報】
通信具:王宮と通信可能な魔導具でマルセルが持っている。勇者とマルセルはこれを使って、王宮に状況を報告している。
転移石:転移装置。各地に大型転移石があり、持ち歩き用の小型の転移石は各地の大型転移石と繋がっている。ただし、転移石は貴重なために数が限られている。勇者達は王宮側から渡されているので持っている。




