重要施設警備監督法に基づく臨検
新華月警備株式会社の本社ビルは、首都のであるレンシアの一等地にあり、正面は一面ガラス張りで朝の光をよく通す。吹き抜けのロビーには観葉植物が整然と置かれ、受付カウンターの後ろには、企業理念を刻んだ金属プレートが白い壁に浮かんでいる。だがよそ行きの明るさだった。
敷地には折り畳み式の車止めが目立たぬように配置され、植栽に紛れるように監視カメラが配置されている。エントランス前では二機の警備ロボがゆっくりと巡回し、歩道側のバリケードには車両接近制御用の認証端末が組み込まれていた。意匠的な設計はされている。しかし、その設計を無骨な現実で上塗りしていた。橘伊吹はその正面玄関を見上げて小さく息を吐いた。
隣に立つナディア・グロモワは、いつもの局内の姿とは少し違っていた。普段は流している赤茶色の髪を後頭部で一つにまとめ、いつもよりやや濃いめの化粧をしている。目元には髪色に近いブラウンの影が入り、鋭く見えがちな目尻は、黒を避けた茶の細いラインでなだらかに外側へ逃がされていた。作為的に浮かべた笑みもあって、普段より幾分親しみやすく、人によっては目を奪われる。
服装も、局内でよく見る実務向けのジャケットではない。淡いグレーのセットアップに、襟元の詰まった白のブラウス。細身だが動きを妨げない仕立てで、足元は低いヒールの黒いパンプスだった。意図的に、相手が都合よく印象を読み違えてくれる柔らかさを作っていた。化けたものだ。橘は内心でそう呟いた。
ナディアは何かを察したのか、こちらを胡乱げな目で見上げる。
「なんですか?」
「いや、別に」
「余計なことは言わなくて結構です」
まだ何も言っていないのになんでわかるんだ……橘がわずかに眉を動かすと、ナディアはにべもなく先に歩き出した。橘は頭を掻き、二歩遅れてその後を追う。
今日の橘は、いつもの労働局のBDUではなかった。ややカジュアルなジャケットとパンツ。無駄のない服装だが、戦闘職というよりはコンサルタントか監査法人の調査員に見える。だがそれでよかった。今日ここへ来たのは、扉を蹴破るためではない。もっとも、肩幅と立ち方までは隠せない。見る者が見れば荒事担当の人間だとわかる。
アルテミシアの指示は簡潔だった。
新華月警備株式会社が契約している港湾警備業務について緊急監査に入ること。名目は、重要施設警備監督法に基づく確認。
確認対象は、港湾施設警備に当たる人員リスト、特定施設警備作業従事者証、申請されている武器と保管庫の状況、再委託の有無、従事者配置図、教育記録の保管。軍民共用の港湾施設では、民間側の区画警備を民間警備会社へ委託することがある。だが、軍事区画と隣接する以上、ただの施設警備では済まない。重要施設警備監督法の監督対象に入る。
「何か引っかかるでしょう」
アルテミシアはそう言った。その言い方は穏やかだったが、意味は単純だった。特に出なくてもかまわない、揺さぶれ。ということだ。
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受付で名乗ると、最初に出てきたのは広報担当者だった。整った笑顔に濃すぎない香水。企業パンフレットの中から抜け出してきたような男だった。
「本日はどういったご用件でしょうか」
「労働局のナディア・グロモワ調査官です」
ナディアは改めて名乗り、身分証を提示する。
「重要施設警備監督法および特定複合労働犯罪対処法に基づく臨検です。港湾施設警備委託契約に関する記録を確認します」
広報担当者の笑顔が、ほんのわずかに固まった。
「臨検、ですか。事前のご連絡は――」
「当然ありません」
ナディアはよそ行きの笑顔のまま答えた。
「通常通告なしで行うものですから」
「少々お待ちください。担当部署へ確認いたします」
「ええ。お待ちします」
言いながら、ナディアは受付ロビーの警備配置を見ていた。
入口脇に立つ警備員二名。巡回ロボ二機。天井カメラ四基。受付後方の職員出入口。来客導線と社員導線の分離は適正。警備レベルは高い。だからこそ、表向きはきちんとしているだろう。問題は、表に出ないところだ。
十分ほどして、二人の男が現れた。一人は法務部長の呉明哲。年齢は五十前後。落ち着いたスーツ姿で、表情管理もよく訓練されている。目元は笑っていないが、口元だけは礼儀正しく整えていた。もう一人は警備部長の梁瀬だった。こちらは体格がよく、ジャケットの前を開け放っているのはまだ現場の癖が残っているせいか。目つきは鋭いが、法務部長ほど表情を隠すのは上手くない。
「労働局の方ですね」
呉が先に口を開いた。
「法務部の呉です。本日は突然のことで少々驚いております」
「突然でなければ意味がありませんので」
ナディアは悪びれもせず軽く会釈した。
「グロモワ調査官です。こちらは橘調査官」
橘も身分証を見せる。呉はそれを確認し、すぐには返事をしなかった。
「臨検とおっしゃいましたが、たしか任意のはずでは?」
呉の声は穏やかだった。だが、言葉の置き方には明確な牽制がある。
「ええ、任意ですね」
ナディアは局ではあまり見ないよそ行きの笑顔を浮かべた。その笑顔の迫力に、橘はわずかに引き攣る。
「ただし、ご協力いただけないということであれば、その旨は記録させていただきます」
「記録、ですか」
「はい」
ナディアはゆっくり頷く。
「港湾施設の民間警備は、区画の重要性に応じた資格審査と適格性審査を経たうえでの指名競争入札ですよね」
呉の眉が、ほんの少し動いた。ナディアは続ける。
「別の検査拒否事例ですが、次回以降は別の業者さんが担当となったケースはありましたね」
今日一番の笑顔であった。男たちに沈黙が落ちる。ただの前例の紹介だ。露骨な脅しではない。
だが、その一行が何を意味するかくらい、呉にもよくわかっていた。
港湾施設警備というものは、価格だけで取れる仕事ではない。まして新華月警備株式会社が請け負っているのは、一般貨物区域だけではなかった。軍用埠頭隣接区画、危険物取扱区画、保守搬入動線、制限区域の一部警備の補助。どれも、次の契約から外されれば会社として痛い。呉は一度だけ呼吸を整えた。
「承知いたしました。ただ、資料の取りまとめには少々時間をいただきます。会議室でお待ちいただけますか」
「いいえ。それには及びません」
ナディアは笑顔を崩さない。
「その間に武器保管庫を確認させていただけますか?ご存じでしょうが火器保管に関しては、管理不備だけでも行政処分の対象になりえます。ですので、リストはすぐにご用意いただけるものと存じますので」
慇懃無礼を絵にかいたような態度に、呉の表情に小さな苛立ちが走る。口にこそ出さないが、小娘が、とでも言いたげな表情を呉は隠しきれていなかった。笑顔を張り付けたナディアが一枚上手である。
「……梁瀬」
呉は警備部長へ視線を向けた。
「ご案内を」




