表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界の終わりのコンビニ  作者: 田中
3/10

第3話「忘れ物預かり所」

コンビニには、忘れ物がよく届く。

傘、財布、スマホ。たまに、謎の紙袋。

店長が「一週間保管して、取りに来なければ処分」と言っていたが、実際には誰も取りに来ない忘れ物の方が多い。

午前2時。僕がバックヤードで忘れ物をチェックしていると、店に男が入ってきた。

五十代、黒いジャンパー。目が泳いでいる。

「すみません」男は息を切らしていた。「忘れ物、ありませんでしたか」

「どんなものですか?」

「ええと……」男は困ったように首を傾げた。「実は、よく覚えてないんです」

「覚えてない?」

「はい。でも、確かに何か忘れたんです。ここで」

僕はバックヤードから、忘れ物の箱を持ってきた。中には、ビニール傘が二本、黒い財布が一つ、それと——

「あ」男が声を上げた。「それです」

男が指差したのは、小さなメモ帳だった。茶色い革装丁、手のひらサイズ。

「これですか?」

「はい、間違いない……と思います」

僕はメモ帳を渡した。男は慎重に、まるで爆弾を扱うように受け取った。

そして、ページを開いた。

「……やっぱり」

男の顔が、青ざめた。

「どうかしましたか?」

「白紙なんです」

「え?」

男はメモ帳を僕に見せた。確かに、真っ白だった。

「おかしい。ここに、全部書いてあったはずなんです」

「何を?」

「思い出、です」

男は震える手で、メモ帳をめくり続けた。でも、どのページも白紙だった。

「二十年前、娘と初めて遊園地に行った日のこと。十五年前、妻と喧嘩して仲直りした日のこと。五年前、父が死んだ日のこと。全部、ここに書いていたんです」

「それが、消えた?」

「ええ」男は項垂れた。「最近、物忘れがひどくて。医者には『軽度認知障害』だって言われました。だから、大事なことは全部このノートに書いていたんです。忘れないように」

男は、僕の目を見た。

「でも、昨日ここで買い物をした時に、レジに置き忘れてしまって。今日取りに来たら……消えてた」

「いつ書いたんですか?」

「毎日です。もう十年、書き続けていました」

僕は、メモ帳を受け取った。ページをめくる。確かに、何も書いていない。

でも。

光にかざすと、ほんの少しだけ、紙に凹凸があった。まるで、かつてそこに文字があった痕跡のように。

「あの……」僕は言った。「もしかして、書いた内容、覚えてませんか?」

「いえ」男は首を横に振った。「だから書いていたんです。覚えられないから」

「でも、娘さんと遊園地に行ったこととか、奥さんと仲直りしたこととか、今言いましたよね」

「え?」

男が固まった。

「あなた、思い出してますよ。ノートがなくても」

「いや、でも……」

「ノートに書いていたから覚えていたんじゃなくて」僕は言った。「覚えているから、ノートに書けたんじゃないですか」

男は、黙ってメモ帳を見つめた。

「ノートが白紙になったのは、もう書く必要がなくなったからかもしれませんよ」

「書く、必要が……?」

「だって、もう忘れないから」

男の目から、一筋の涙が流れた。

「そうか……そうかもしれない」

男は、メモ帳を胸に抱いた。

「ありがとう」

男は店を出た。白紙のメモ帳を、大事そうに握りしめて。

僕は、また忘れ物の箱を見た。

残っているのは、傘と財布。

誰も取りに来ない。

でも、それでいいのかもしれない。

本当に大事なものは、忘れ物にならない。

忘れ物になるものは、きっと忘れてもいいものなんだ。

その日の朝、出勤してきた店長が言った。

「田中、昨日の忘れ物、増えてないか?」

「いえ、むしろ減りました」

「そうか」店長は首を傾げた。「珍しいな」

僕は何も言わなかった。

ただ、バックヤードの隅に、新しい忘れ物が一つ増えていた。

小さな、茶色い革のメモ帳。

真っ白なページが、光を反射していた。

でも今度は、誰も取りに来ないだろう。

だって、もう必要ないから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ