第3話「忘れ物預かり所」
コンビニには、忘れ物がよく届く。
傘、財布、スマホ。たまに、謎の紙袋。
店長が「一週間保管して、取りに来なければ処分」と言っていたが、実際には誰も取りに来ない忘れ物の方が多い。
午前2時。僕がバックヤードで忘れ物をチェックしていると、店に男が入ってきた。
五十代、黒いジャンパー。目が泳いでいる。
「すみません」男は息を切らしていた。「忘れ物、ありませんでしたか」
「どんなものですか?」
「ええと……」男は困ったように首を傾げた。「実は、よく覚えてないんです」
「覚えてない?」
「はい。でも、確かに何か忘れたんです。ここで」
僕はバックヤードから、忘れ物の箱を持ってきた。中には、ビニール傘が二本、黒い財布が一つ、それと——
「あ」男が声を上げた。「それです」
男が指差したのは、小さなメモ帳だった。茶色い革装丁、手のひらサイズ。
「これですか?」
「はい、間違いない……と思います」
僕はメモ帳を渡した。男は慎重に、まるで爆弾を扱うように受け取った。
そして、ページを開いた。
「……やっぱり」
男の顔が、青ざめた。
「どうかしましたか?」
「白紙なんです」
「え?」
男はメモ帳を僕に見せた。確かに、真っ白だった。
「おかしい。ここに、全部書いてあったはずなんです」
「何を?」
「思い出、です」
男は震える手で、メモ帳をめくり続けた。でも、どのページも白紙だった。
「二十年前、娘と初めて遊園地に行った日のこと。十五年前、妻と喧嘩して仲直りした日のこと。五年前、父が死んだ日のこと。全部、ここに書いていたんです」
「それが、消えた?」
「ええ」男は項垂れた。「最近、物忘れがひどくて。医者には『軽度認知障害』だって言われました。だから、大事なことは全部このノートに書いていたんです。忘れないように」
男は、僕の目を見た。
「でも、昨日ここで買い物をした時に、レジに置き忘れてしまって。今日取りに来たら……消えてた」
「いつ書いたんですか?」
「毎日です。もう十年、書き続けていました」
僕は、メモ帳を受け取った。ページをめくる。確かに、何も書いていない。
でも。
光にかざすと、ほんの少しだけ、紙に凹凸があった。まるで、かつてそこに文字があった痕跡のように。
「あの……」僕は言った。「もしかして、書いた内容、覚えてませんか?」
「いえ」男は首を横に振った。「だから書いていたんです。覚えられないから」
「でも、娘さんと遊園地に行ったこととか、奥さんと仲直りしたこととか、今言いましたよね」
「え?」
男が固まった。
「あなた、思い出してますよ。ノートがなくても」
「いや、でも……」
「ノートに書いていたから覚えていたんじゃなくて」僕は言った。「覚えているから、ノートに書けたんじゃないですか」
男は、黙ってメモ帳を見つめた。
「ノートが白紙になったのは、もう書く必要がなくなったからかもしれませんよ」
「書く、必要が……?」
「だって、もう忘れないから」
男の目から、一筋の涙が流れた。
「そうか……そうかもしれない」
男は、メモ帳を胸に抱いた。
「ありがとう」
男は店を出た。白紙のメモ帳を、大事そうに握りしめて。
僕は、また忘れ物の箱を見た。
残っているのは、傘と財布。
誰も取りに来ない。
でも、それでいいのかもしれない。
本当に大事なものは、忘れ物にならない。
忘れ物になるものは、きっと忘れてもいいものなんだ。
その日の朝、出勤してきた店長が言った。
「田中、昨日の忘れ物、増えてないか?」
「いえ、むしろ減りました」
「そうか」店長は首を傾げた。「珍しいな」
僕は何も言わなかった。
ただ、バックヤードの隅に、新しい忘れ物が一つ増えていた。
小さな、茶色い革のメモ帳。
真っ白なページが、光を反射していた。
でも今度は、誰も取りに来ないだろう。
だって、もう必要ないから。




