第8話 故国と自由
◆受付嬢
王女の捜索依頼が届いたのは、昼前だった。
私たちのギルドがある城塞都市ラトゥラは、どの王国にも属していない。
三本の街道が交わる土地を冒険者ギルドが管理する、中立の自由都市だ。
王家の命令が直接通用する場所ではないが、王国も依頼人としてギルドを利用することはできる。
北へ二日行けばレイゼル王国。そのさらに北には、レイゼルと長く国境を争ってきたノルグ王国がある。
レイゼル王国の王都から、国境を越えて早馬で運ばれてきた依頼書には、王家の封蝋が押されていた。
第一王女フローラ、十九歳。
三日前の夜、離宮から失踪。
生きて連れ帰った者には、金貨五百枚。
窓口にいた冒険者たちは、報酬を見て騒ぎ始めた。
私は、同封されていた王女の肖像画を掲示板へ張った。
「似ていませんね」
目の前に並んでいた、外套姿の女が言った。
「そうですか?」
「目が大きすぎます。鼻も、実物はもう少し低いです」
私は肖像画と女の顔を見比べた。
女は、深く被っていた頭巾を諦めたように外した。
肖像画より小さな目と、少し低い鼻が現れた。
「冒険者登録をお願いします」
第一王女フローラは、そう言って受付台へ登録申請書を置いた。
名前の欄は、空白だった。
後ろでは、冒険者たちがまだ金貨五百枚の使い道を話していた。
私は窓口に休止札を置き、女を奥の相談室へ案内した。
扉を閉めてから、もう一度、肖像画と本人の顔を見比べた。
◆王女
私は、レイゼル王国の第一王女として生まれた。
レイゼルの王位を継ぐのは王子だけで、私に王位継承権はない。
婚姻後はノルグ王家へ入り、レイゼルへ戻ることもほとんどなくなるはずだった。
私の結婚相手は、北のノルグ王国の第四王子だった。
会ったことは二度しかない。
一度目は、彼が私の髪を褒めた。
二度目は、結婚後に髪を切るなと命じた。
レイゼルとノルグは、三十年近く国境を争っている。
今は一時的に兵を退いているが、結ばれているのは次の春までの休戦協定にすぎない。
私たちの婚姻が成立すれば、両国は国境線を確定し、期限のない和平条約と相互不可侵を結ぶことになっていた。
婚姻後に私たちのどちらかが亡くなっても条約は続き、いずれ生まれる子供が、二つの王家を血でつなぐ。
父は、王女として生まれた者の務めだと言った。
大臣は、これから先、国境の村に生まれる子供たちの命まで懸かっていると言った。
侍女は、きっとお幸せになれますと言って泣いた。
誰も、私がどうしたいのかは聞かなかった。
だから逃げた。
剣は使えない。
攻撃魔法も使えない。
火を起こす生活魔法は習ったが、薪に火をつけたことはなかった。
私はノルグとは反対の南へ向かい、レイゼルの国境を越えて、自由都市ラトゥラまで逃げた。
王都から持ち出した宝石は、途中の町で半分も価値がないと言われた。宿の取り方も、乗合馬車の乗り方も知らなかった。
それでも、帰りたくなかった。
「名前が空欄です」
受付嬢が言った。
「新しい名前で登録したいのです」
「現在の身分を証明するものはありますか」
王家の紋章が入った指輪なら持っていた。
見せれば、その場で捕まる。
「ありません」
「では、通常の登録はできません」
正しい答えだった。
私は、正しい答えに追い返されるために、王宮を出たのではない。
「このギルドなら、身分も作ってもらえると聞きました」
受付嬢の表情が変わった。
彼女は奥の扉を見た。
「マスターへの依頼には、対価が必要です」
「王女としての身分なら、差し出します」
「それは対価にはなりません」
声をかけたのは、ギルドマスターだった。
◆ギルドマスター
王女の身分を消さなければ、彼女を別人として登録することはできません。
それは願いが叶った結果として失われるものであって、対価ではありません。
「対価には、別人になったあとも、あなたが持っていられるものをいただきます」
「私に、何が残るのですか」
「故郷です。新しい名前で生きても、レイゼルへ帰ることはできます」
王女は、少し考えました。
「それを、差し出せと」
「ええ」
私は、彼女のために作る二枚の書類を机へ並べました。
一枚は、王女フローラの死亡を認める公告。
もう一枚は、新しい名前の冒険者登録証です。
私は説明しました。
「三日前、離宮近くの川で馬車が転落したことにしましょう。王家の指輪は川底で見つかり、遺体は下流へ流された。捜索依頼は死亡確認の公告へ変わります」
王女は黙って、自分の指輪を外しました。
「故国へ帰る権利を、対価として差し出します」
「契約後、一度でもレイゼルの国境を越えれば、新しい身分は失われます。あなたが生きている事実が明らかになり、死亡記録に関わった者も、逃亡を助けた者も、王家への反逆者として扱われるでしょう」
受付嬢が、私を見ました。
「帰らなければ、誰も罰を受けないのですか」
「ええ。王女は川で亡くなり、名もない一人の女性が、この町で冒険者になります」
「ノルグとの和平は、どうなりますか」
王女が尋ねました。
「あなたとの婚姻を前提とした条約は結ばれません。両国は、別の和平を探すことになるでしょう」
「見つからなければ」
「また戦争になるかもしれません」
私は、都合のよい未来までは作りません。
彼女が依頼したのは、自分を別人にすることだけでした。
王女は、掲示板の肖像画を見ました。
「国境の外から、故郷を見ることはできますか」
「見るだけなら」
「家族へ手紙を出すことは」
「リナとしてなら出せます。ですが、王家にとっては、見知らぬ女性から届く手紙です」
「私だと分かることを書けば」
「王女フローラが生きている証拠になります。契約は破棄され、新しい身分も失われます」
王女は、外した指輪を見つめました。
「それでは、家族へ手紙を出すことはできないのと同じですね」
「あなたが望む意味では、そうなります」
彼女は指輪を、契約書の上へ置きました。
「では、お願いします」
「新しいお名前は」
王女は長く迷い、受付嬢の名札を見ました。
「あなたは、何という名前ですか」
「エリナです」
「では、エリナではない名前にします」
受付嬢は、少しだけ眉を寄せました。
「リナにします」
「ほとんど同じではありませんか」
「覚えやすいので」
こうして、王女フローラは亡くなりました。
同じ日に、Eランク冒険者リナが生まれました。
◆新人冒険者
冒険者になれば、すぐに自由になれると思っていた。
実際には、最初に文字の試験があり、次に計算の試験があり、そのあと体力と魔力を測られた。
文字と計算は満点だった。
体力は、最低だった。
魔力はあったが、使えるのは火を起こすことと、水を少し温めることだけだった。
「最初は薬草採取がよいでしょう」
エリナが、依頼書を三枚並べた。
「こちらなら町の外壁から半日の範囲です。採取量は一籠。報酬は銀貨三枚です」
「三枚?」
「少ないですか」
「昨日の宿代が銀貨五枚でした」
「ずいぶんよい宿に泊まりましたね」
私は初めて、王宮の外にも身分にふさわしい宿というものがあるのだと知った。
薬草の知識には自信があった。
宮廷教師から、北方に生える植物を百二十種類も暗記させられていた。
だが、図鑑には泥がついた葉の見分け方も、棘で指を切らずに摘む方法も載っていなかった。
夕方、私は籠を抱えて戻った。
半分はよく似た雑草だった。
エリナは使える薬草だけを選び、依頼人の買い取り規定に従って、報酬を銀貨一枚と銅貨七枚に減額した。
「依頼どおりではありませんから」
「王女だったころなら、銀貨一枚を落としても拾わなかったと思います」
「今は拾ってください」
私は床へ落としかけた銅貨を、慌てて両手で受け止めた。
◆受付嬢
その夜、王都から二通目の早馬が来た。
第一王女フローラの捜索依頼は取り下げ。
離宮近くの川で王家の指輪が発見され、王女は死亡したものと認められた。
ノルグ王国との婚姻協議は中止。
国境の両軍は、次の命令があるまで現在の位置で待機。
私は捜索依頼を掲示板から外した。
リナは、何も言わずにその紙を見ていた。
「戻りたくなりましたか」
「分かりません」
リナは、婚姻協議中止の一文を指でなぞった。
「私が戻れば、和平条約は結ばれます」
「おそらく」
「戻らなければ、また戦争になるかもしれない」
「そうかもしれません」
しばらくして、彼女は尋ねた。
「王女に戻る方法は、ありますか」
奥で帳簿を閉じる音がした。
マスターなら、できますと答えるだろう。
ただし、今度はリナとして得たものが対価になる。
私はそう説明した。
リナは、初めて稼いだ銀貨一枚と銅貨七枚を握った。
「今日は、戻りません」
翌朝、彼女はギルドが開く前に来た。
昨日採った薬草と雑草を、机の上へ一本ずつ並べた。
葉の裏を確かめ、茎の硬さを指で覚え、名前を書いた札を添えていった。
窓から朝日が差し込むころには、薬草と雑草がきれいに分けられていた。
王女だった彼女には、国へ帰る場所があった。
冒険者になった彼女には、もう帰る権利がない。
帰れないことを自由と呼べるのか、私には分からない。
それでもリナは、その日も自分で扉を開け、外へ出ていった。




