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神様の依頼簿  作者: 寝る猫
第1章 現代・行政書士編
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第5話 過去と現在

◆助手


父の死亡届受理証明書は、事務所の引き出しに入れていた。


折り目のついた紙を、何度も開いては閉じた。


父は、役所の窓口で書類を書くのが苦手な人だった。


住所の番地を書くところで手を止め、勤務先の電話番号を思い出せず、後ろに並ぶ人を気にして、窓口の職員に何度も「すみません」と頭を下げた。


それでも、私の進学の書類だけは、誰より早く書いてくれた。


「名前は、間違えるなよ」


そう言って、何度も確認した。


父が亡くなったとき、私は父の名前を何度も書いた。


死亡届。葬儀社の書類。年金の停止。銀行口座の解約。


父が亡くなる前の夜、電話が三度鳴った。


私は仕事から帰ったばかりで、疲れていた。画面に表示された父の名前を見て、あとでかけ直せばいいと思った。


翌朝、病院から電話が来た。


父が最後に何を話したかったのか、私は知らない。


父が生きていた時間が、紙の上で少しずつ過去へ移されていった。


役所の窓口で、父の名前が書類の上の事実へ変わっていくのを見た。


その経験が、私を行政書士に向かわせた。試験に二度落ちても、三度目の受験を諦めなかった。


そして、先生の事務所へ来させた。


ここで私は、何人もの人間が、書類と引き換えに人生を変えるのを見てきた。


ある朝、私は父の死亡届受理証明書を机の上に置いた。


「これを、受理されなかったことにしてください」


◆神様


「できますよ」


私は、助手の父親の死亡届受理証明書を眺めた。


紙は古くなっていたが、インクはまだ鮮やかだった。


「死亡届の受理を取り消せば、お父様は生きています。病院の記録も、葬儀の記録も、あなたの記憶も、すべて整えましょう」


助手は、すぐには喜ばなかった。


「対価は」


「現在です」


「現在?」


「お父様が生きている世界では、あなたが今のあなたになる可能性は低いでしょう」


私は、助手がこの事務所へ来るまでの記録を、紙の上に並べた。


二度落ちた行政書士試験。父の死後に書いた手続き。ここで出会った依頼人たち。事実と記憶、名前と存在、二つの二十年、許可と尻尾。


「それらをすべて、いただきます」


「失うんですか」


「失うというより、最初からなかったことになります。お父様が生きているあなたには、私と会った記憶も、この事務所で働いた経験もありません」


◆助手


父が生きている世界を想像した。


休日の朝、台所から聞こえる咳払い。


古いテレビの音。


父が私の名前を呼ぶ声。


その代わりに、私はここへ来ない。


老女の婚姻届も、吉岡直人の死亡届も、水野灯の出生届も、ぽん吉の営業許可も知らない。


彼らの人生を、私が見届けたという事実も消える。


「一日だけ、父と話すことはできますか」


「できます」


「その対価は?」


「お父様が、あなたを子供として覚えている記憶です」


「それでは、会っても父は私を知らない」


「ええ。会話はできます。けれど、お父様にとってあなたは、初めて会う人になります」


私は死亡届受理証明書を見た。


紙の上には、父の名前と、父が死んだ日がある。


その日から、私は父のいない時間を生きてきた。


辛いこともあった。後悔もある。けれど、その時間の中でしか出会えなかった人たちがいる。


「父に、謝りたいんです」


「では、取り消しましょう」


「でも、謝るために、父から私のことを忘れられるなら、意味がありません」


私は、父に怒られることを恐れていた。


けれど本当は、父に知らない人として見られることの方が、ずっと怖かった。


先生は、初めて黙った。


私は死亡届受理証明書を引き出しへ戻した。


「依頼を、取り下げます」


◆神様


人間は、ときどき願いを取り下げる。


依頼を断らないと決めている私にとって、それは少し不思議なことだった。


「よろしいのですか」


「分かりません」


助手は、古い死亡届受理証明書の上に手を置いた。


「父が生きている過去と、父が死んだあとの現在。どちらが大事なのか、まだ分かりません」


「では、なぜ取り下げたのですか」


「分からないまま、父の死を取り消す依頼書に署名して、今の人生をなかったことにしたくなかったからです」


助手は、事務所で見た人たちのことを、まだ覚えていたかった。


夫を失った老女。名前を失った男。娘のために二十年を差し出した母親。尻尾を失って、うどんを茹で続ける狸。


父が生きている世界では、彼らの物語も、ここで働いた時間も、きっと存在しない。


私は、死亡届受理証明書を引き出しの奥へしまった。


等価交換とは、同じ価値のものを交換することではない。


何を失ってもよいと、自分で決めることだ。


助手は、父を失った現在を選んだ。


その選択が正しいのかどうか、私には分からない。


正しさを決めるのは、いつだって、この世界の住民たちだからだ。


事務所の電話が鳴った。


助手は受話器を取り、いつもの声で名乗った。


「はい。神行政書士事務所です」


私は、少しだけ笑った。


今日もまた、誰かが何かを失いに来る。

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