第4話 許可と尻尾
◆助手
雨の夜、男が一人、事務所へ入ってきた。
濡れた髪から水を滴らせ、古い鞄を大事そうに抱えている。
男は、飲食店営業許可申請書を机に置いた。
申請者の氏名欄には、ひらがなで「ぽん吉」と書かれていた。
住所は、道路拡張工事でなくなった山の名前だった。
「この住所では、営業許可は出せません」
私が言うと、男は困ったように笑った。
「だから、先生のところへ来たんです」
「お名前は、ぽん吉さんでよろしいんですか」
「人間の書類では、それで通しています」
人間の書類では、と男は言った。
先生は申請書を一枚めくった。
「本当のお名前は?」
男の目が、わずかに光った。
「狸です」
先生は、あっさりとうなずいた。
「では、狸さん。何を作りましょうか」
◆狸
俺は、人間になりたいわけじゃない。
山が削られ、古い竹藪がなくなり、仲間たちが一匹ずついなくなった。
人間の町へ降りた俺は、最初、空き地の隅で眠っていた。
ある夜、工事現場の作業員にうどんをもらった。
それがあまりにうまかったので、次の日から俺は、見よう見まねでうどんを作り始めた。
鰹節の匂いを嗅ぎつけて、近所の人間が集まった。
今では、俺の屋台に毎晩、行列ができる。
ところが先日、保健所の人間が来た。
「営業許可を取ってください」
「許可がなければ、うどんを作れないんですか」
「作ってはいけないわけではありません。営業してはいけないんです」
人間は、ときどき妙な言い方をする。
俺は、うどんを売りたいのではない。
明日も来ると言ってくれた客に、明日も食べさせたいだけだ。
◆助手
「飲食店営業許可だけでなく、住民票と戸籍も必要になります」
先生は、必要な書類を机に並べた。
「食品衛生責任者の資格も必要です。それから、営業する物件がありません」
「物件も、用意できますか」
「駅裏に、今月から空く店舗が一つあります」
「大家さんは?」
「契約していただきます」
先生は、まだ誰もいない場所を指すように、机の上を指で叩いた。
「店舗そのものと、大家の署名がある賃貸借契約書、鍵まで作れます。人間の社会で、ぽん吉さんが営業を続けられる形にできます」
「お代は?」
「尻尾をいただきます」
男の背後で、何かが揺れた。
太くて、濡れて、先だけが白い尻尾だった。
「それを失うと、どうなるんですか」
「人間の姿から、元の姿へ戻れなくなります」
「二度と?」
「二度と」
私は思わず、男を見た。
「そこまでして、人間の許可を取る必要がありますか」
「人間になりたいわけじゃないんです」
男は、申請書の上に置かれた自分の手を見つめた。
「ただ、わしのうどんを、また食べに来てもらいたいだけです」
◆狸
尻尾は、俺が狸だった証拠だ。
母親の匂いが残っている。冬の穴で寄り添った兄弟の体温も、初めて人間を化かした夜の興奮も、全部そこにくっついている。
失えば、俺は本当に何者でもなくなる。
けれど、山はもうない。
帰る場所がないのに、帰れる姿だけを残しておく意味が、どこにあるのだろう。
「お願いします」
俺は、尻尾を差し出した。
◆助手
先生は、尻尾に朱肉をつけた。
「そこに押すんですか」
「本人確認です」
赤い印が押されると、尻尾は煙のように消えた。
男の耳が丸くなり、毛に覆われていた手が人間の手になった。顔は五十代ほどの、疲れた中年男性へ変わった。
机の上には、ぽん吉という人間の戸籍、住民票、店舗の賃貸借契約書、営業許可証、食品衛生責任者講習の修了証、それから小さな鍵が揃っていた。
「これで、営業できます」
先生は書類を渡した。
一か月後、駅裏の、以前から空き店舗だったことになっている建物に「ぽん吉うどん」という看板が出た。
店主は人間になったが、出汁の取り方は狸のころと変わらない。
ぽん吉さんは、毎晩うどんを茹でている。
ある日、小さな女の子が店主を見上げた。
「おじさん、尻尾は?」
ぽん吉さんは少し考えた。
「鍋の中に入れたんだよ」
女の子は真剣な顔でうどんを覗き込み、それから大声で笑った。
店内の客も笑った。
ぽん吉さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
けれど、次の客へうどんを出す手は止めなかった。
先生に「尻尾を失うほどの価値がありましたか」と尋ねると、先生は行列の最後尾を見た。
「少なくとも、あの方は自分の尻尾より、誰かの『おいしい』を選んだのでしょう」
人間の許可証は、彼が人間であることを証明した。
誰も、ぽん吉さんが狸だったことなど知らない。
ただ、あの小さな女の子だけは、店主の背中を見上げるたび、何かを探しているようだった。




