第3話 二つの二十年
◆依頼人
娘の名前は、灯と決めていた。
暗いところでも、自分と誰かの足元を照らせる人になりますように。
夫はいなかった。結婚する予定もなかった。それでも子供を育てたいと思い、三十六歳のとき、私は一人で母親になることを選んだ。
妊娠が分かった日から、毎晩、腹の中の娘に話しかけた。
今日食べたもの。仕事で失敗したこと。ベランダの朝顔が咲いたこと。
返事の代わりに腹を蹴られると、それだけで一人ではないと思えた。
七か月目に、娘は動かなくなった。
病院で渡されたのは出生届ではなく、死産届だった。
私は、あらかじめ書いていた出生届を提出できなかった。
母の氏名、水野沙耶。
子の名、水野灯。
生まれた日時だけが空欄のまま、その紙を母子手帳に挟んだ。
出産時の処置で、私は二度と妊娠できない身体になった。
三年後、久しぶりに母子手帳を開くと、知らない名刺が入っていた。
――まだ存在しない方の書類も承ります。
裏には、東京の住所が一つだけ書かれていた。
◆助手
「この子を、存在することにしてください」
女性は、書きかけの出生届を机に置いた。
この事務所で働き始めてから、不可能という言葉を口にする前に、先生の顔を見る癖がついた。
先生は、空欄になっている出生日時を眺めた。
「できますよ」
やはり、そう答えた。
「ただし、出生届だけを作っても、お子さんは生まれません」
「文書以外のものも、作れると聞きました」
先生は楽しそうに笑った。
「ええ。正しい情報です」
女性は膝の上で両手を握った。
「この子を産んで、育てたいんです」
「何年、共に過ごしたいですか」
女性は戸惑った。
「できるだけ長く」
「それでは契約になりません。数字でお答えください」
しばらく考えたあと、女性は言った。
「二十年」
「成人するまで、ということですか」
「二十歳になったからといって、親が要らなくなるわけではありません。でも、そこから先は、あの子自身が選んで生きていけます」
先生はうなずいた。
「では、あなたの時間を二十年、先にいただきます」
「どういう意味ですか」
「今日、あなたには二十年分、年を取っていただきます。その代わり、あなたとお子さんは、これから二十年間を必ず一緒に過ごせます」
三十九歳の女性は、今日、五十九歳になる。
私は思わず口を挟んだ。
「待ってください。生まれたばかりの子を、五十九歳から一人で育てるんですよ」
「分かっています」
「二十年後には七十九歳です」
「分かっています」
女性は、私の目を見て答えた。
「それでも、その二十年には、あの子がいるんです」
◆依頼人
二十年と聞いて、私は何を思い出しただろう。
三十九歳から五十九歳までに、するはずだったこと。
仕事を続け、少しずつ貯金をして、たまには旅行へ行く。髪に白いものが混じり、老眼鏡を買い、昔より疲れやすくなったと笑う。
きっと、穏やかな二十年だった。
けれど、そのどこにも灯はいない。
私が惜しいと思ったのは、若さでも寿命でもなかった。
娘のいない時間を手放すことに、なぜ迷う必要があるのだろう。
「お願いします」
私は出生届に署名した。
先生が空欄だった日時を書き込む。
その瞬間、身体の中を季節が駆け抜けた。
春の匂い。蝉の声。金木犀。凍った朝の空気。
それが何度も繰り返される。
指の節が太くなり、頬が下がり、視界がぼやけた。肩まであった黒髪は短くなり、銀色が混じった。
鏡を見なくても、二十年が過ぎたことが分かった。
そして、事務所の奥から赤ん坊の泣き声がした。
先生は、いつの間にか置かれていた籠を抱き上げ、私に差し出した。
白い毛布の中で、小さな女の子が泣いていた。
私はその子を抱いた。
温かかった。
腹の中で動かなくなった日から、ずっと冷たかった場所が、ようやく温かくなった。
「灯」
名前を呼ぶと、娘は泣くのをやめた。
初めて聞くはずの声を、知っていたように。
◆助手
先生は、出生届受理証明書と、新しく作られた戸籍謄本を女性へ渡した。
戸籍には、水野灯という子供が、今日生まれた事実が記されていた。
母親の欄には、水野沙耶。
年齢は五十九歳になっていた。
「二十年後から先は、どうなるんですか」
私が尋ねた。
「分かりません」
先生は母子を見送りながら答えた。
「依頼されたのは、あの子の存在と、二人で過ごす二十年間だけです。その先は、あの子たちのものですよ」
「二十年を失って、別の二十年を手に入れた。それで等価なんでしょうか」
「時間としては、同じ長さです」
「でも、同じ時間ではありません」
「ええ。だから彼女は交換したのでしょう」
机の上には、三十九歳だった水野沙耶の写真が残されていた。
写真の彼女は、まだ若く、娘を知らない顔で笑っている。
あの二十年と、これからの二十年。
神様にとっては、どちらも同じだけの時間なのだろう。
けれど人間にとって、時間の価値を決めるのは、その長さなのだろうか。
それとも、その時間を誰と生きるかなのだろうか。




