↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様の依頼簿  作者: 寝る猫
第1章 現代・行政書士編
PR
4/11

第3話 二つの二十年

◆依頼人


娘の名前は、灯と決めていた。


暗いところでも、自分と誰かの足元を照らせる人になりますように。


夫はいなかった。結婚する予定もなかった。それでも子供を育てたいと思い、三十六歳のとき、私は一人で母親になることを選んだ。


妊娠が分かった日から、毎晩、腹の中の娘に話しかけた。


今日食べたもの。仕事で失敗したこと。ベランダの朝顔が咲いたこと。


返事の代わりに腹を蹴られると、それだけで一人ではないと思えた。


七か月目に、娘は動かなくなった。


病院で渡されたのは出生届ではなく、死産届だった。


私は、あらかじめ書いていた出生届を提出できなかった。


母の氏名、水野沙耶。


子の名、水野灯。


生まれた日時だけが空欄のまま、その紙を母子手帳に挟んだ。


出産時の処置で、私は二度と妊娠できない身体になった。


三年後、久しぶりに母子手帳を開くと、知らない名刺が入っていた。


――まだ存在しない方の書類も承ります。


裏には、東京の住所が一つだけ書かれていた。


◆助手


「この子を、存在することにしてください」


女性は、書きかけの出生届を机に置いた。


この事務所で働き始めてから、不可能という言葉を口にする前に、先生の顔を見る癖がついた。


先生は、空欄になっている出生日時を眺めた。


「できますよ」


やはり、そう答えた。


「ただし、出生届だけを作っても、お子さんは生まれません」


「文書以外のものも、作れると聞きました」


先生は楽しそうに笑った。


「ええ。正しい情報です」


女性は膝の上で両手を握った。


「この子を産んで、育てたいんです」


「何年、共に過ごしたいですか」


女性は戸惑った。


「できるだけ長く」


「それでは契約になりません。数字でお答えください」


しばらく考えたあと、女性は言った。


「二十年」


「成人するまで、ということですか」


「二十歳になったからといって、親が要らなくなるわけではありません。でも、そこから先は、あの子自身が選んで生きていけます」


先生はうなずいた。


「では、あなたの時間を二十年、先にいただきます」


「どういう意味ですか」


「今日、あなたには二十年分、年を取っていただきます。その代わり、あなたとお子さんは、これから二十年間を必ず一緒に過ごせます」


三十九歳の女性は、今日、五十九歳になる。


私は思わず口を挟んだ。


「待ってください。生まれたばかりの子を、五十九歳から一人で育てるんですよ」


「分かっています」


「二十年後には七十九歳です」


「分かっています」


女性は、私の目を見て答えた。


「それでも、その二十年には、あの子がいるんです」


◆依頼人


二十年と聞いて、私は何を思い出しただろう。


三十九歳から五十九歳までに、するはずだったこと。


仕事を続け、少しずつ貯金をして、たまには旅行へ行く。髪に白いものが混じり、老眼鏡を買い、昔より疲れやすくなったと笑う。


きっと、穏やかな二十年だった。


けれど、そのどこにも灯はいない。


私が惜しいと思ったのは、若さでも寿命でもなかった。


娘のいない時間を手放すことに、なぜ迷う必要があるのだろう。


「お願いします」


私は出生届に署名した。


先生が空欄だった日時を書き込む。


その瞬間、身体の中を季節が駆け抜けた。


春の匂い。蝉の声。金木犀。凍った朝の空気。


それが何度も繰り返される。


指の節が太くなり、頬が下がり、視界がぼやけた。肩まであった黒髪は短くなり、銀色が混じった。


鏡を見なくても、二十年が過ぎたことが分かった。


そして、事務所の奥から赤ん坊の泣き声がした。


先生は、いつの間にか置かれていた籠を抱き上げ、私に差し出した。


白い毛布の中で、小さな女の子が泣いていた。


私はその子を抱いた。


温かかった。


腹の中で動かなくなった日から、ずっと冷たかった場所が、ようやく温かくなった。


「灯」


名前を呼ぶと、娘は泣くのをやめた。


初めて聞くはずの声を、知っていたように。


◆助手


先生は、出生届受理証明書と、新しく作られた戸籍謄本を女性へ渡した。


戸籍には、水野灯という子供が、今日生まれた事実が記されていた。


母親の欄には、水野沙耶。


年齢は五十九歳になっていた。


「二十年後から先は、どうなるんですか」


私が尋ねた。


「分かりません」


先生は母子を見送りながら答えた。


「依頼されたのは、あの子の存在と、二人で過ごす二十年間だけです。その先は、あの子たちのものですよ」


「二十年を失って、別の二十年を手に入れた。それで等価なんでしょうか」


「時間としては、同じ長さです」


「でも、同じ時間ではありません」


「ええ。だから彼女は交換したのでしょう」


机の上には、三十九歳だった水野沙耶の写真が残されていた。


写真の彼女は、まだ若く、娘を知らない顔で笑っている。


あの二十年と、これからの二十年。


神様にとっては、どちらも同じだけの時間なのだろう。


けれど人間にとって、時間の価値を決めるのは、その長さなのだろうか。


それとも、その時間を誰と生きるかなのだろうか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。