第2話 名前と存在
◆依頼人
私は、死にたいわけではない。
ただ、私であることをやめたかった。
吉岡直人、四十五歳。
勤めていた印刷会社は半年前に潰れた。社長に頼まれて連帯保証人になっていたせいで、会社が残した借金の一部が私のところへ来た。
保証人になってほしいと頼まれたのは、倒産の一年前だった。
銀行から追加の融資を受けられなければ、翌月の給料も払えない。社長はそう言って、私の前に契約書を置いた。
十二人しかいない会社だった。社長の顔も、職人たちの顔も、その家族のことも知っていた。ここで私が断れば、会社がなくなる。借金を背負うことよりも、その方がずっと怖かった。
私一人の署名で会社が残るなら、安いものだと思った。
結局、融資で延びたのは一年だけだった。
会社はなくなり、私の署名だけが残った。
再就職先は決まらない。郵便受けには督促状が増え、食卓で交わす言葉は減っていった。
妻は私を責めなかった。
中学生の娘も、何も言わなかった。
それが、責められるよりつらかった。
二人はもう、私に期待することをやめたのだと思う。
ある夜、差押予告の封筒を開けると、中から見覚えのない名刺が落ちた。
――不要になった身分、処分します。
裏には、東京の住所が一つだけ書かれていた。
私がいなくなれば、借金は私だけを追ってくる。
妻と娘は、ようやく普通の生活へ戻れる。
そう考えると、久しぶりによく眠れた。
◆妻
直人は、私たちに嫌われていると思っている。
あの人は昔から、悪い想像だけはすぐに信じる。
印刷会社が潰れてから、直人は食卓でほとんど話さなくなった。私が仕事を増やすと言えば謝り、娘が笑えば、自分が笑われたような顔をした。
借金のことなら、昨日、弁護士に相談してきた。
家を手放すことにはなるかもしれない。それでも三人でやり直す方法はあると言われた。
今夜、それを直人に話すつもりだった。
娘は台所で、小さなケーキにクリームを塗っている。形は少しいびつだけれど、直人の好きな苺をたくさん載せた。
今日は、あの人の四十五歳の誕生日だ。
娘が厚紙を二つ折りにして、内側に何かを書いていた。
「お父さん、喜ぶかな」
「きっと泣くわよ」
私たちは、久しぶりに笑った。
玄関に、直人の靴がないことには気づかなかった。
◆助手
事務所へ来た男は、死亡届の用紙を持っていた。
死亡者の欄には、本人の名前が書かれている。
「これを受理されたことにして、別人の身分を作ってください」
男は、自分が死んだあとの計画を淡々と説明した。
新しい名前で遠くの町に住み、日雇いでも何でもして、家族へ匿名で金を送るのだという。
「奥様や娘さんには、相談したんですか」
「必要ありません。二人は、私がいない方が幸せです」
その言葉が、妙に腹立たしかった。
「それは、あなたが決めることですか」
「私の家族です」
「だからこそ、あなた一人が決めることではないでしょう」
先生が片手を上げ、私を止めた。
「依頼は可能です」
男の顔に、初めて安堵が浮かんだ。
「対価は、いくらですか」
「この事務所にいる者を除く、あなたを知るすべての人の記憶です」
先生は死亡届の上に指を置いた。
「家族、友人、元同僚。あなたを愛したことも、憎んだことも、すべて忘れます」
「写真や記録は」
「残ります。あなたが奥様の夫であり、娘さんの父親だった事実も消えません。死亡したことだけが、新しく記録されます」
「では、二人は私のことを」
「書類を読めば、知ることはできます。ただし、あなたの顔も、声も、一緒に過ごした時間も思い出せません」
「借金は」
「吉岡直人が亡くなっても、借金が自動的に消えるわけではありません。債務も相続の対象です」
男の顔から血の気が引いた。
「では、妻や娘に」
「ご安心ください。お二人の相続放棄が家庭裁判所に受理された事実も、サービスで作っておきます」
先生は、死亡届の端を指先で揃えた。
「もっとも、借金だけを選んで放棄することはできません。あなた名義の財産も受け継げなくなりますが」
「残せるものなんて、何もありません」
「では、問題ありませんね。吉岡直人の債務は相続財産として処理されます。新しいあなたには関係ありません」
男は少しだけ迷った。
私は、断ってほしいと思った。
「お願いします」
男は死亡届を先生へ差し出した。
「どうせ、もう忘れられたようなものですから」
◆依頼人
先生が死亡届に指を滑らせると、私の名前が紙の上から剥がれ落ちた。
黒い文字は小さな虫のように机を這い、やがて見えなくなった。
代わりに先生は、真新しい運転免許証と通帳、それからアパートの鍵を差し出した。
免許証には、知らない男の名前があった。
川瀬明。
写真だけが、私だった。
◆妻
冷蔵庫を開けると、苺が一パック入っていた。
どうして買ったのか、思い出せない。
娘に聞いても、知らないと言う。
「ケーキでも作ろうとしてたのかな」
「誰の?」
「さあ」
台所のごみ箱には、白いクリームのついた絞り袋が捨ててあった。
食卓の隅には、二つ折りの厚紙が置かれている。
表には、娘の字で「お父さんへ」と書かれていた。
中には、「お誕生日おめでとう。また三人で笑おうね」と書かれていた。
「これ、あなたが書いたの?」
娘は首を傾げた。
「私のお父さんって、誰?」
答えられなかった。
戸棚の上に置かれたアルバムを開いた。
どの写真にも、同じ男が写っていた。娘を抱いている男。運動会で場所取りをしている男。私の隣で、少し照れたように笑っている男。
知らない顔だった。
けれど、写真の中の私は、その男をよく知っている顔をしていた。
テーブルの上には、家庭裁判所からの通知書があった。
相続放棄申述受理通知書。
申述人の欄には私と娘の名前が、被相続人の欄には「吉岡直人」と書かれている。
戸籍謄本も添えられていた。
吉岡直人は私の夫で、娘の父親だった。そして今日、死亡していた。
「この人が、私のお父さんだったの?」
娘はアルバムの男を指さした。
「そう書いてあるわ」
「お母さんは、覚えてないの?」
「何も」
それなのに、そのカードを捨てようとすると、胸の奥が痛んだ。
理由は分からなかった。
◆依頼人
私はその足で、かつての自宅へ向かった。
最後に一度、二人の顔を見ておきたかった。
表札から私の名前は消えていた。郵便受けにも、妻と娘の名前しかない。
呼び鈴を押すと、娘が出た。
「どちらさまですか」
私は、声が出なかった。
妻が娘の後ろから顔を出した。私を見ても、その表情は少しも動かなかった。
「何かご用でしょうか」
「吉岡直人という人を、知りませんか」
妻の顔が強張った。
「名前は知っています。今日、亡くなった私の夫だそうです」
「だそうです?」
「戸籍には、そう書いてあります。でも私は、あの人の顔も声も、何一つ覚えていません」
妻は私の顔を見つめた。
やがて、玄関の奥にあるアルバムへ目をやった。
「あなた、写真の人に似ていますね」
娘が私に近づいた。
「もしかして、私のお父さん?」
私は首を横に振った。
「いいえ。川瀬明です」
免許証に書かれた名前を答えた。
娘が私の手元を見た。
そこには、自分でも気づかないうちに、涙が落ちていた。
「おじさん、大丈夫?」
私は、大丈夫だと答えた。
今度こそ、誰にも迷惑をかけないように笑った。
◆助手
一週間後、男は事務所へ戻ってきた。
頬はこけ、髭が伸びていた。
「先生。一つだけ教えてください」
男は、新しい免許証を机に置いた。
「私は、まだ生きているんでしょうか」
先生は免許証と男の顔を見比べた。
「肉体は動いています。川瀬明という人物は戸籍に存在し、税も納められます。一般的には、生きていると判断されるでしょう」
「では、吉岡直人は」
「死亡届が受理されています。夫だった記録も、父親だった記録も残っていますが、あなた自身と、この事務所にいる者を除けば、誰の記憶にも存在しません。立派に亡くなっていますよ」
男は黙り込んだ。
「では、今ここで、あなたに話しかけている私は誰ですか」
先生は、ほんの少しだけ笑った。
「それを決めるのは、私ではありません」
男は免許証を持たずに帰った。
机の上には、川瀬明という男が生きていることを証明するカードだけが残された。
肉体があれば、人は生きているのだろうか。
記録があれば、人は存在しているのだろうか。
それとも、誰かの記憶に残って初めて、その人はこの世界にいるのだろうか。
どの答えを選んでも、吉岡直人という人間は、もう戻ってこないように思えた。




