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神様の依頼簿  作者: 寝る猫
第1章 現代・行政書士編
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3/11

第2話 名前と存在

◆依頼人


私は、死にたいわけではない。


ただ、私であることをやめたかった。


吉岡直人、四十五歳。


勤めていた印刷会社は半年前に潰れた。社長に頼まれて連帯保証人になっていたせいで、会社が残した借金の一部が私のところへ来た。


保証人になってほしいと頼まれたのは、倒産の一年前だった。


銀行から追加の融資を受けられなければ、翌月の給料も払えない。社長はそう言って、私の前に契約書を置いた。


十二人しかいない会社だった。社長の顔も、職人たちの顔も、その家族のことも知っていた。ここで私が断れば、会社がなくなる。借金を背負うことよりも、その方がずっと怖かった。


私一人の署名で会社が残るなら、安いものだと思った。


結局、融資で延びたのは一年だけだった。


会社はなくなり、私の署名だけが残った。


再就職先は決まらない。郵便受けには督促状が増え、食卓で交わす言葉は減っていった。


妻は私を責めなかった。


中学生の娘も、何も言わなかった。


それが、責められるよりつらかった。


二人はもう、私に期待することをやめたのだと思う。


ある夜、差押予告の封筒を開けると、中から見覚えのない名刺が落ちた。


――不要になった身分、処分します。


裏には、東京の住所が一つだけ書かれていた。


私がいなくなれば、借金は私だけを追ってくる。


妻と娘は、ようやく普通の生活へ戻れる。


そう考えると、久しぶりによく眠れた。


◆妻


直人は、私たちに嫌われていると思っている。


あの人は昔から、悪い想像だけはすぐに信じる。


印刷会社が潰れてから、直人は食卓でほとんど話さなくなった。私が仕事を増やすと言えば謝り、娘が笑えば、自分が笑われたような顔をした。


借金のことなら、昨日、弁護士に相談してきた。


家を手放すことにはなるかもしれない。それでも三人でやり直す方法はあると言われた。


今夜、それを直人に話すつもりだった。


娘は台所で、小さなケーキにクリームを塗っている。形は少しいびつだけれど、直人の好きな苺をたくさん載せた。


今日は、あの人の四十五歳の誕生日だ。


娘が厚紙を二つ折りにして、内側に何かを書いていた。


「お父さん、喜ぶかな」


「きっと泣くわよ」


私たちは、久しぶりに笑った。


玄関に、直人の靴がないことには気づかなかった。


◆助手


事務所へ来た男は、死亡届の用紙を持っていた。


死亡者の欄には、本人の名前が書かれている。


「これを受理されたことにして、別人の身分を作ってください」


男は、自分が死んだあとの計画を淡々と説明した。


新しい名前で遠くの町に住み、日雇いでも何でもして、家族へ匿名で金を送るのだという。


「奥様や娘さんには、相談したんですか」


「必要ありません。二人は、私がいない方が幸せです」


その言葉が、妙に腹立たしかった。


「それは、あなたが決めることですか」


「私の家族です」


「だからこそ、あなた一人が決めることではないでしょう」


先生が片手を上げ、私を止めた。


「依頼は可能です」


男の顔に、初めて安堵が浮かんだ。


「対価は、いくらですか」


「この事務所にいる者を除く、あなたを知るすべての人の記憶です」


先生は死亡届の上に指を置いた。


「家族、友人、元同僚。あなたを愛したことも、憎んだことも、すべて忘れます」


「写真や記録は」


「残ります。あなたが奥様の夫であり、娘さんの父親だった事実も消えません。死亡したことだけが、新しく記録されます」


「では、二人は私のことを」


「書類を読めば、知ることはできます。ただし、あなたの顔も、声も、一緒に過ごした時間も思い出せません」


「借金は」


「吉岡直人が亡くなっても、借金が自動的に消えるわけではありません。債務も相続の対象です」


男の顔から血の気が引いた。


「では、妻や娘に」


「ご安心ください。お二人の相続放棄が家庭裁判所に受理された事実も、サービスで作っておきます」


先生は、死亡届の端を指先で揃えた。


「もっとも、借金だけを選んで放棄することはできません。あなた名義の財産も受け継げなくなりますが」


「残せるものなんて、何もありません」


「では、問題ありませんね。吉岡直人の債務は相続財産として処理されます。新しいあなたには関係ありません」


男は少しだけ迷った。


私は、断ってほしいと思った。


「お願いします」


男は死亡届を先生へ差し出した。


「どうせ、もう忘れられたようなものですから」


◆依頼人


先生が死亡届に指を滑らせると、私の名前が紙の上から剥がれ落ちた。


黒い文字は小さな虫のように机を這い、やがて見えなくなった。


代わりに先生は、真新しい運転免許証と通帳、それからアパートの鍵を差し出した。


免許証には、知らない男の名前があった。


川瀬明。


写真だけが、私だった。


◆妻


冷蔵庫を開けると、苺が一パック入っていた。


どうして買ったのか、思い出せない。


娘に聞いても、知らないと言う。


「ケーキでも作ろうとしてたのかな」


「誰の?」


「さあ」


台所のごみ箱には、白いクリームのついた絞り袋が捨ててあった。


食卓の隅には、二つ折りの厚紙が置かれている。


表には、娘の字で「お父さんへ」と書かれていた。


中には、「お誕生日おめでとう。また三人で笑おうね」と書かれていた。


「これ、あなたが書いたの?」


娘は首を傾げた。


「私のお父さんって、誰?」


答えられなかった。


戸棚の上に置かれたアルバムを開いた。


どの写真にも、同じ男が写っていた。娘を抱いている男。運動会で場所取りをしている男。私の隣で、少し照れたように笑っている男。


知らない顔だった。


けれど、写真の中の私は、その男をよく知っている顔をしていた。


テーブルの上には、家庭裁判所からの通知書があった。


相続放棄申述受理通知書。


申述人の欄には私と娘の名前が、被相続人の欄には「吉岡直人」と書かれている。


戸籍謄本も添えられていた。


吉岡直人は私の夫で、娘の父親だった。そして今日、死亡していた。


「この人が、私のお父さんだったの?」


娘はアルバムの男を指さした。


「そう書いてあるわ」


「お母さんは、覚えてないの?」


「何も」


それなのに、そのカードを捨てようとすると、胸の奥が痛んだ。


理由は分からなかった。


◆依頼人


私はその足で、かつての自宅へ向かった。


最後に一度、二人の顔を見ておきたかった。


表札から私の名前は消えていた。郵便受けにも、妻と娘の名前しかない。


呼び鈴を押すと、娘が出た。


「どちらさまですか」


私は、声が出なかった。


妻が娘の後ろから顔を出した。私を見ても、その表情は少しも動かなかった。


「何かご用でしょうか」


「吉岡直人という人を、知りませんか」


妻の顔が強張った。


「名前は知っています。今日、亡くなった私の夫だそうです」


「だそうです?」


「戸籍には、そう書いてあります。でも私は、あの人の顔も声も、何一つ覚えていません」


妻は私の顔を見つめた。


やがて、玄関の奥にあるアルバムへ目をやった。


「あなた、写真の人に似ていますね」


娘が私に近づいた。


「もしかして、私のお父さん?」


私は首を横に振った。


「いいえ。川瀬明です」


免許証に書かれた名前を答えた。


娘が私の手元を見た。


そこには、自分でも気づかないうちに、涙が落ちていた。


「おじさん、大丈夫?」


私は、大丈夫だと答えた。


今度こそ、誰にも迷惑をかけないように笑った。


◆助手


一週間後、男は事務所へ戻ってきた。


頬はこけ、髭が伸びていた。


「先生。一つだけ教えてください」


男は、新しい免許証を机に置いた。


「私は、まだ生きているんでしょうか」


先生は免許証と男の顔を見比べた。


「肉体は動いています。川瀬明という人物は戸籍に存在し、税も納められます。一般的には、生きていると判断されるでしょう」


「では、吉岡直人は」


「死亡届が受理されています。夫だった記録も、父親だった記録も残っていますが、あなた自身と、この事務所にいる者を除けば、誰の記憶にも存在しません。立派に亡くなっていますよ」


男は黙り込んだ。


「では、今ここで、あなたに話しかけている私は誰ですか」


先生は、ほんの少しだけ笑った。


「それを決めるのは、私ではありません」


男は免許証を持たずに帰った。


机の上には、川瀬明という男が生きていることを証明するカードだけが残された。


肉体があれば、人は生きているのだろうか。


記録があれば、人は存在しているのだろうか。


それとも、誰かの記憶に残って初めて、その人はこの世界にいるのだろうか。


どの答えを選んでも、吉岡直人という人間は、もう戻ってこないように思えた。

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