第1話 事実と記憶
◆助手
父が死んだとき、私が最初にしたことは泣くことではなく、書類を書くことだった。
死亡届、年金の停止、健康保険証の返却、銀行口座の解約。
昨日まで確かに生きていた人間が、受付印を一つ押されるたび、この世界から片づけられていく。それが妙に恐ろしくて、同時に興味深かった。
書類とは、事実を書き留めるものだと思っていた。
けれど、本当は逆なのではないか。
書類に書かれて、初めて事実になることもあるのではないか。
そんなことを考えて行政書士を目指し、試験に二度落ちた。三度目の受験を前に、生活費が尽きかけたころ、妙な求人を見つけた。
――行政書士補助者募集。経験不問。資格不問。事情のある方、歓迎。
東京の古い雑居ビル。その奥にある事務所の扉を開けると、先生は私の履歴書を紙飛行機にしていた。
紙飛行機は窓際の書棚を一周し、私の足元に着陸した。
「採用です」
「面接は」
「履歴書に書いてあることを、もう一度聞く必要がありますか」
変な人だと思った。
それが、先生に対する私の最初の印象だった。
先生が神様だと知るのは、その少しあとのことである。
◆依頼人
私には、夫がいる。
正しくは、夫になるはずだった人がいた。
名前は宗一郎。笑うと右の頬にだけ、えくぼができた。珈琲に砂糖を三杯も入れるくせに、人前では一杯しか入れないふりをした。歩くのが速くて、私が遅れると、少し先で立ち止まって待っていた。
六十二年前の朝も、あの人は私を待っていた。
区役所の前で会い、二人で婚姻届を出すはずだった。
けれど、あの人は来なかった。
雨で濡れた道路を渡ろうとして、車にはねられた。
病院へ駆けつけた私に、看護師は言った。
「ご家族の方ですか」
私は、はい、と答えた。
けれど、あの人の母親は、首を横に振った。
「この人は、まだ家族ではありません」
間違ってはいなかった。
だから私は、あの人の手を握ることも、最期の顔を見ることもできなかった。
婚姻届は、それからずっと裁縫箱の底にしまっていた。私は仕立屋で働き、妹の子供たちの成長を見届け、何度か縁談を断り、気がつけば八十二歳になっていた。
後悔しているわけではない。
ただ、このまま私が死ねば、あの人と私は、初めから何の関係もなかったことになる。
ある晩、裁縫箱を開けると、見覚えのない名刺が婚姻届の上に載っていた。
――届かなかった書類、承ります。
裏には、東京の住所が一つだけ書かれていた。
◆助手
最初の依頼人は、小柄な老女だった。
老女は色あせた封筒から、一枚の婚姻届を取り出した。紙は茶色く焼け、折り目が今にも破れそうだった。二人分の署名と、証人の印まで揃っている。
ただし、日付は六十二年前だった。
「この婚姻届を、受理されたことにしていただきたいんです」
私は先生より先に口を開いた。
「申し訳ありません。亡くなった方との婚姻届を、今から提出することはできません」
老女の婚約者は、役所へ届を出すはずだった朝、事故で亡くなったのだという。
先生は婚姻届を光に透かした。
「できますよ」
「先生」
「提出するのではありません。受理された事実を作るのです」
先生は、献立の変更でも告げるように言った。
戸籍も、役所の記録も、親族の記憶も、二人が夫婦だったことになる。六十二年前、この婚姻届は間違いなく受理されたのだと。
私は笑いそうになったが、老女は笑わなかった。
「お代は、いくらでしょう」
「お金は結構です」
先生は婚姻届を机に置いた。
「あなたが、その方を愛していた記憶をすべていただきます」
老女の指が、膝の上でわずかに震えた。
「待ってください。それでは、夫婦になれても、その人のことを忘れてしまうじゃないですか」
私が言うと、先生は不思議そうに首を傾げた。
「ですから、等価なのでしょう」
◆依頼人
宗一郎の顔を思い浮かべた。
右の頬のえくぼ。
甘すぎる珈琲。
私を置いて歩いては、少し先で振り返る背中。
これをすべて失うのだという。
怖くないと言えば、嘘になる。
この六十二年間、私の中にしか、あの人はいなかった。その私が忘れたら、宗一郎は今度こそ本当にいなくなる。
けれど、私の記憶も、私が死ねば消える。
あの日、病院で「家族ではない」と言われた言葉だけが、今も胸の奥に刺さっていた。
私が欲しかったのは、思い出ではなかった。
あの人の隣に立つ資格だった。
「お願いします」
私は頭を下げた。
「私は、あの人を覚えているために生きてきたのではありません。あの人の妻になるために、今日まで生きてきたんです」
最後にもう一度、宗一郎の顔を思い浮かべた。
あの人はやはり、少し先で私を待っていた。
◆助手
先生は、それ以上何も尋ねなかった。
引き出しから朱肉を出し、婚姻届の右下に親指を押した。
たった、それだけだった。
壁の時計が一度だけ逆に回った。
窓の外を走る車の音が途切れ、すぐに戻った。
老女の左手に、古びた指輪が現れていた。
彼女は鞄の中を確かめ、小さな写真を取り出した。若い男女が並んでいる。白無垢姿の女は老女に似ていた。隣の男は、右の頬にえくぼを作って笑っていた。
「あら」
老女は、写真の男を指さした。
「この方は、どなたでしょう」
「あなたの旦那様ですよ」
先生が答えた。
「まあ。そうでしたか」
そう言った老女の目から、涙が一粒落ちた。
本人はそれに気づかないまま、何度も写真を撫でていた。
先生は机の引き出しから、新しい紙を一枚取り出した。
戸籍謄本だった。
老女の名の隣に、亡くなった夫として、宗一郎の名前が記されていた。
「こちらを、お持ち帰りください」
先生は古い婚姻届の代わりに、戸籍謄本を老女へ渡した。
老女が帰ったあと、私はしばらく何も言えなかった。
机の上には、使われていない朱肉と、二人の署名が並んだ古い婚姻届が残されていた。
「先生」
「はい」
「戸籍に残った事実と、あの人の中にあった記憶。どちらが大事なんでしょうか」
先生は次の依頼書から目を上げた。
「私にとっては、どちらも同じですよ」
「同じ?」
「戸籍の一行も、六十二年分の思い出も、この世界に記録されたデータです。書き込まれている場所が違うだけです」
先生は、老女が出ていった扉を見た。
「けれど、この世界で生きるあなた方にとっては、同じではないのでしょうね」
戸籍に残された事実と、誰かの中に残された記憶。
人が生きたことを本当に証明するのは、いったいどちらなのだろう。
私には、まだ分からなかった。




