第99話 魔王城の厨房、六人分の小さな皿
魔王城の厨房は王都の宿のそれより三倍は広かった。
黒い石を組んだ壁に魔石の竈がずらりと並び青白い火が静かに揺れている。天井から吊るされた銅の鍋が火の色を鈍く映していた。使い込まれた大きな作業台は木肌が深い飴色に変わっている。長い間ここで誰かが食事を作り続けてきたことが木目の艶から伝わってきた。床下から魔力炉の低い唸りが足の裏へ這い上がってくる。
理恵は袖をまくり上げて作業台の前に立った。
「手伝います」
ヴァルガが黒い外套を脱いで厨房の端に立っていた。魔族の料理人たちは遠慮がちに壁際へ下がっている。
「いえ。今夜は私に作らせてください」
「理恵殿が仰るなら」
ヴァルガはそれ以上何も言わず作業台の隅へ食材を並べ始めた。ロゼ芋。玉葱。大角鹿の肉。それから籠いっぱいの赤い果実。
理恵は手を止めて籠の中を見つめた。
「これ……」
「メル様から伺いました。旅の初めに理恵殿が作られたという赤い汁物があったと」
トマトに似たその果実の艶やかな赤を見て理恵の胸がぎゅっと締まった。
◇ ◇ ◇
鍋に油を引き刻んだ玉葱をゆっくり炒める。
甘い匂いが厨房に満ちる。肉を加えて焼き色をつけ果実を潰して加えると鍋の中が鮮やかな赤に染まった。湯気が立ちのぼり鼻の奥に酸味と甘みが混じった懐かしい香りが広がる。
旅の最初の日。何も分からない荒野で見知らぬ五人のために作ったあの一杯。
あの時は帰り道を探すためだけに必死で鍋を振っていた。
「理恵さん!」
扉が勢いよく開いた。
飛び込んできたのはルークだった。外套は埃だらけで赤毛がひどく乱れている。後ろからコリンが息を切らして追ってきた。
「間に合った!」
「間に合ったって何が。まだ作ってる最中だよ」
「匂いがしたんだ! 廊下の端まで来た時にあの匂いがした!」
ルークは鼻をひくつかせて鍋を覗き込んだ。
「うわ懐かしい。これ最初の晩のやつだろ」
「覚えてるの?」
「忘れるわけないだろ。死にかけてた俺を救った一杯だ」
ルークは笑ったが目の縁が少し赤かった。
◇ ◇ ◇
長い食卓は大広間の隅に急ごしらえで設けられた。
六つの椅子。六つの皿。それとは別に小さな皿が五枚。理恵は一人ひとりの前にそれを置いていった。
「これは?」
「旅の途中で聞いた好物」
ルークの前には柔らかく焼いた丸いパン。
「硬いパンが好きって言ってたでしょ。でも今日はスープに浸して食べられるように少しだけ柔らかくしといた」
ルークは噛み締めるようにパンを千切って口に運んだ。
「……うまい」
コリンの前には小さな椀に盛ったミルク粥。
「今度は私が教えなくても作れるよね」
「はい。でも今夜は理恵さんの粥が食べたいです」
イアンの前には琥珀色の澄んだスープ。
「あなたが好きって言ったやつ」
「覚えていたのか」
「忘れないよ」
イアンは眼鏡を押し上げて何も言わなかった。けれどスープを啜る時だけ少し長く目を閉じていた。
◇ ◇ ◇
「僕のは?」
メルが面白そうに首を傾げた。理恵はにこりと笑って小さな碗を差し出した。
「メルさんの好物は結局聞けなかったから。さっきヴァルガさんに教えてもらった」
碗の中身は林檎を蜜と香草で煮た甘煮だった。
メルの笑みが固まった。
「……これ」
「お母さんが作ってくれたものだって」
長い沈黙の後メルは匙を取った。一口含む。喉が小さく動いた。
「ああ」
声が掠れた。
「思い出した。母上が熱を出した時にいつも作ってくれた」
「うん」
「兄上と二人で取り合って食べた」
メルは俯いたまま匙を持つ手を止めた。目の端に光るものがあった。
「理恵ちゃんずるいなあ。こんなの泣くしかないじゃないか」
誰も笑わなかった。誰もが黙ってメルの隣で自分の皿を見つめていた。
◇ ◇ ◇
「あんたのは」
トビアスが自分の前の皿を見て低く言った。
皿の上にはいつもの煮込み。ロゼ芋と肉と野菜がごろりと入ったただの煮込みだった。
「トビアスさんは特にないって言ったでしょ。だからいつものにした」
「……そうか」
彼は匙を取って一口食べた。ゆっくり咀嚼する。それから何かを確かめるように二口目を口に運んだ。
「これでいい」
「え」
「これでいい。毎日これでいい」
低い声だった。短い言葉だった。それなのに理恵の心臓がどくんと跳ねた。
「毎日って」
「言葉の通りだ」
トビアスは視線を皿に落としたまま続けた。
「特別なものはいらない。いつものこれがあればいい」
理恵は返事ができなかった。ただ両手を膝の上で握り締めた。
◇ ◇ ◇
食事の終わり際だった。
「理恵」
イアンが声を潜めて呼んだ。
「手を見てくれ」
言われて自分の掌を見る。何も変わらない。
「違う。彼らの手だ」
顔を上げて理恵は息を呑んだ。
ルークの手の甲。コリンの指先。イアン自身の手首。メルの首筋。トビアスの胸元。
五人の肌の下で淡い白い光が脈打っていた。蛍の光のように静かな呼吸を繰り返している。魔力炉の唸りに合わせて光は強くなったり弱くなったりした。
「これって……私の?」
「お前の波長の痕跡だ。炉の近くで魔力が活性化して可視化されたのだろう」
イアンは小声で続けた。
「今まで目に見えなかっただけで最初からあったんだ。俺たちの中に」
「みんなの中に私の……」
「あんたの灯りだ」
トビアスが低く言った。
誰もそれ以上は言わなかった。
けれど光を見つめる五人の表情は穏やかだった。まるで大切な何かを確かめるように。
◇ ◇ ◇
夜が更けて皆が部屋へ引き上げたあと理恵は一人厨房に残った。
大きな作業台の上に白紙の束を広げる。羽根ペンを取りインクを含ませた。
ルークにはパンの焼き加減と煮込みの手順。コリンには粥の隠し味。イアンには澄んだスープの取り方。メルには林檎の甘煮の分量。
そしてトビアスには。
ペンが止まった。
何を書けばいいのか分からなかった。あの煮込みの作り方などもう彼は覚えているはずだ。
窓の外に魔王城の塔が影を落としている。遠くで夜鳥が鳴いた。
理恵は白紙を一枚そっと脇に置いた。
名前だけを書く。「トビアスへ」と。
その下には何も書けなかった。
明日の朝。門が開く。
それまでにこの空白を埋められるだろうか。
厨房の窓の向こうで東の空がわずかに白み始めていた。




